胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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 エドワードが朝食に案内されたのは、重厚感のある赤で統一され、英国風の調度品で設えられた豪奢な洋室だ。サウードが、すでに中央のテーブルについて待っていた。
 遅れて吉野が、稽古着から着替えてやってきた。いつもの白いサウブの上に、くるぶしまである丈の長い黒の上衣をはおっている。袖口と前中心に深紅のラインと凝った蔓草イスリム文様の刺繍の入るそれは、華やかで高級感に溢れている。だがサウードは、ひと目見て不快そうに眉をひそめ立ちあがった。

「なぜ、そんなものを――」
「王様がくれたんだよ。似合うだろ」
「きみには相応しくない。きみには僕が、相応のベシュトを贈るよ」
「そんなわけいくかよ。これでいいよ。むしろこの方がいい」
「認めるわけにはいかない」

 首を横に振り、珍しく強い口調で頑なに拒むサウードと吉野の押し問答を、エドワードは、わけが判らず眺めていた。口を挟もうにもどうしたものか、と室内をぐるり見回すと、ウィリアムが自分と同じように戸惑い、うかがっているだけの給仕にすでに指示をだしていた。どうやら、この二人の諍いに気を取られていたうちに来たらしい。
 ようやく肩の力をぬき、「どういうことだ?」と、となりに座ったウィリアムに顔をよせて小声で尋ねる。

 吉野の上衣のことで揉めているのだ、と彼は簡潔に話してくれた。
 あれはディグラといって高位者に仕える従者の服装なのだ。そして、サウードの羽織っている、ゆったりとしたマントのような上衣をベシュトという。あちらは貴人の着衣だ。吉野をあくまで従者として扱う陛下のお心に、サウード殿下は承服できない、ということだろう。


「もう近衛師団長就任式まで日がないからな。身の程をわきまえて示せ、ってことだからさ、こんな些末を気にするな」

 と、吉野はどうでもよさそうに笑いながら席に着いた。そして、それにも反論しようと口を開きかけたサウードを手のひらをひらひらとさせて遮り、座るようにと視線で促す。

「この話はここまで。腹減ってるからさ。それにこの後、王様に呼ばれてるんだ。さっさと済まさなきゃならないんだよ」

 吉野はこれ以上の会話を拒むかのように、置かれている自分の皿に視線を落とし、カトラリーを手に取った。





 
 朝食を終えた吉野はテーブルで告げたとおり、その足でムハンマド国王のいる謁見の間へと向かった。

 すでに人払いを済ませ、一人、金塗りの肘掛け椅子に座した王は、吉野の姿を目にすると肉付きのいい頬に満足げな笑みをたたえ、もっと近くへ来るようにと鷹揚に手招きする。
 国王の前には、カサブランカのアレンジメントが低くこんもりと置かれた大理石のローテーブルがあり、手前で吉野は足を留めた。
 と、いつの間にか現れたサウードが、立ちあがって自分を迎える国王に歩みより、その肩に接吻して挨拶する。国王は満足そうに笑みをたたえて、息子をゆったりと抱きしめ返した。

「どうだ、ヨシノ? ずっと自然に見えるだろう?」
 サウードの両肩に手をかけたまま、王は楽しげに瞳を輝かせ、吉野に向かって話しかける。
「ええ、陛下、御上達されましたね」

 吉野の応答に、国王は「さぁ」と大きく腕を広げた。脇に退いたサウードに続いて、吉野もまた、同じように王の肩に畏敬を表すキスを落とす。そして元の位置まで下がると軽く顎を引いて、足元の鮮やかな青に蓮の花を配した絨毯を見据えて視線を伏せた。

「お前も、久々の家族団らんを存分に楽しめただろう」
「おかげさまで。兄の協力で調整も順調、技術面の進捗も申し分ありません」
「わしも楽しんだぞ。とうに失くしたと思っていた記憶が、まざまざと蘇ってならなかったわ」

 王は腰を下ろすと、傍らに立つサウードを目を細めて見上げ、身を屈めた彼の頬すれすれに愛おしげに手のひらを滑らせる。


 そんな王を、吉野は冷笑を湛えて眺めていた。

 若さが、こんなにも愛おしく価値あるものに思えるなどと、年若いお前には解せないだろう――。

 そう、王に言われた。

 そのとおりだ。吉野には、この王の我が身への執着なぞ、まるきり解らない。実の息子であるサウードの今現在の姿よりも、かつての、若かりし頃の自分の姿の方がより愛おしいなどと、誰が理解できるというのだろう。


 吉野が作りあげたこのサウードの立体映像、これは厳密にはサウードではない。若きムハンマド王の映像を原型にしている。もちろん現実のサウードとの違和を感じさせないように、二人の映像を合成し修正を加えてある。もとよりムハンマド国王とサウードの面差しはよく似ているのだ。

 今は見る影もないが、かつての国王は背は若干低いものの、体格は鍛えられてたくましかった。サウードは父に比べると細身で頼りなく見える。王はそんな些細な差異が気に入らず、皇太子には威厳が感じられない、と常々不満を漏らしていた。だが吉野は、王の本当の不満は別にある、と気づいていた。サウードがサウードである限り、王は満足することはない、と。

 だから、この虚構のTS映像で王を懐柔したのだ。そして現実のサウードが英国にいた間に、サウード自身からよりムハンマドに近づくようにゆっくりと映像を変化させていき、皇太子と接する臣下たちを、そして何よりも王自身を、この新しいサウードに慣らしていった。

 一日でも早く、王に譲位を決断させるために――。 
 

 かつて、獰猛で専制的な君主であったムハンマド王は、国政に興味を失い政務から離れて久しい。だがいまだ君主の座を手放せないでいる。アブド元大臣を退け、自分で皇太子の地位に就けた息子にさえも、譲る決意ができないでいた。
 若かりし頃の、活力に満ち溢れた支配者として裁量を下す自身の晴れやかな姿を懐かしみ、気力など枯れはてた現実の自分を憐れんで、玉座に深く根を生やしたまま――。


 だが、こうして王と談笑しているサウードの立体映像は、王にとって息子ではない。若返った自分の姿だ。付随させる人工知能も、王の好む思考法に沿わせている。意見が対立することもない。

 今後表舞台に立つのが、息子サウードの上に蘇った自分自身であるのなら――。

 そう受け止めさせることで、吉野はようやく、譲位同意を取り付けたのだ。

 
 王はとめどなく映像と話している。吉野などそこにいないかのように。
 その間中吉野は、彼らの背後に並んで置かれたぎらぎらしい金の額縁に収められた王と皇太子の肖像画を、冷ややかに眺めていた。




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