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九章
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「まさかお前が知ってるとは思わなかったよ」
くっくと笑いながら、けれど傍らを歩く相手を一瞥することもなく、吉野は坂道をのんびりと上っていく。
「警備上、死角を作るわけにはいきませんからね」
半歩だけ歩調を遅らせて、フィリップは冷ややかな声で応える。はたからみる限り、とても会話しているとは見えない二人だ。
ロンドンから戻ってきたばかりの吉野は、意図せずして犬猿の仲といっていいフィリップと連れだって、このマーシュコートの館の広大な庭を散策している。わざわざ、ヘリポートまで迎えに来られたのだ。おまけにフィリップは用意周到に、吉野と警備上の相談があるので、と飛鳥やサウードに断りまで入れてあるという。吉野としても、話を聴かないわけにはいかなかったのだ。もっとも、彼が案内するという場所には、吉野自身も興味があった。
黒々とした地面に多種多様の野菜の植わるキッチン・ガーデンを通りぬけた後は、広々とした野原を、そして鬱蒼としたコロラド・スプルースの林の中に続くうねうねとした小道を上っていった。そこから軽く踏み分けられた跡のある獣道へと逸れる。銀灰色に輝く鋭い梢に遮られた午後の陽射しは柔らかく、空気は林の中らしく、きんと冴えわたっている。
「気持ちがいいな。久ぶりだよ、ここへ来るの」
ふわりと力が抜けたように微笑んだ吉野の横顔を、フィリップは意外そうに見つめる。
「来たことがあるような口ぶりですね」
「ああ、こっち側は初めてだけどな。もっと向こう、あの辺りに蓮池があるんだ。そこが好きでよく行ってたんだ」
振り返り、吉野は左方に腕を伸ばして指し示す。フィリップは教えられなくても分かっているとばかりに、軽く頷く。
「これか」
やがて彼らの行く手を遮るように現れた、びっしりと茂る蔦の壁を見あげるて、吉野は呟いた。
「お前、この中に入った?」
「当然でしょう」
「ふうん――」
吉野は思案するように、じっと蔦の絡まりあう壁を眺めている。ここまで来ておいて、なぜここで惑うのか、とフィリップは苛立たしげにそんな彼を睨めつけている。
「あいつ――、アレンには言うなよ」
「なぜです?」
フィリップは不満そうに唇をすぼめる。警備の一環だなどと建前にすぎない。アレンが気にしていたからこそ、ここを探しだしたのだ。だが、この発見を本人に告げる段になって、彼のなかで迷いが生じた。また、要らぬことを、と露骨に嫌な顔をされ、ぷいとそっぽを向かれるのではないかと悪い予感がよぎったのだ。良くも悪くも彼の勘はよく当たる。だから嫌々ながらも吉野に意見を求めることにした。彼にしてみれば苦渋の判断だといえるだろう。
「この数日内に一番の見ごろになるんですよ」
とげとげしい声音にもかかわらず、フィリップの口調はどこか媚びを含んだお願いのように聴こえる。彼のこういう物言いが、吉野は嫌いだ。だから返事の代わりにため息を一つ。継いで、無造作に蔦の一群を片手に掴むとぐいっと引っ張る。「へぇ……」感心する声と同時に塀を蹴り上げ、身体は高々とその塀の上へと飛び移る。
「ふうん――」
納得したように呟いた吉野の腰かける塀の内側には、木漏れ日を飛沫のように揺蕩わせた黄水仙が群れ咲いていた。そして、艶やかな敷石の通路と、その中心で心地良い水音をたてている水溝を挟んで、白百合が。だが、そちら側の花群はまだ満開とはいえない。多く蕾をつけてはいるが、ほころんでいるものはまばらだ。
「この時期に百合……。なるほどな。数日のうちに、ってところだな」
今が盛りとばかりに咲き誇る黄水仙と対に、この白百合が花開けばどれほど見事な眺めだろう、とつい今しがたフィリップが言ったのと同じ見解を口にし、吉野は狭い石塀の上に立ちあがった。蔦の絡み合う塀の上をぐるりと周る。細い水溝、そして壁に作られた尖頭アーチの装飾に既視感があった。
「そうか――。サラセン式庭園、ということは――」
花群の間に覗く狭い歩道めがけて、ひらりと飛んだ。正面の花に埋もれるように置かれた石碑が、彼の憶測を証明するものだと直感したのだ。
吉野はその石碑に刻まれた文字を確かめると、首を垂れて、神聖な場に踏み入った無礼を詫びた。
再び、塀を乗り越えてフィリップの前に戻った吉野は、もう一度、「アレンには言うなよ」と念を押して告げた。「なぜです?」当然、同じ問いが返ってくる。
「ここは、サラの母親の墓なんだよ。そのための黄水仙だ。この花がリチャードにとって特別だってのは、そういうことだよ。サラの母親に捧げた花だからだ。そんな話聞かされて、あいつが喜ぶと思うか?」
インド・サラセン式庭園の代表格は、タージ・マハル。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、若くして産褥で亡くなった愛妃ムムターズ・マハルのために建造した墓廟だ。
だが、サラはヒンドゥー教徒だろ。イスラム式の霊廟に模した墓を造るなんて――。
吉野にしてみれば、リチャードの宗教観が疑われる。ヘンリーにしてもそうだが、とりたてて信仰心のない者にしてみれば問題にもならないのだろうか。真面目に考えだすと、頭が痛くなりそうな問題だ。サウードにはとても話せないような。
吉野は一人苦笑しながら肩をすくめる。彼にしても、友人たちの宗教観は尊重しているのだ。だが時折、何が気に障ったのかも判らないようなことで、彼らの気分を損ねてしまうことがある。わずかにでも障りがあるのではと疑われるなら、避けておくに越したことはない。
それでもリチャードは、墓を持たないヒンドゥー教徒の愛人を偲ぶ場所が欲しかったのだろうか。それとも、彼女の娘が母親を偲ぶことのできる場所を、造ってやりたかったのだろうか。
どちらにしても、アレンが聞いて嬉しい話ではないだろう。それは、ヘンリーが弟妹のうちでサラだけを贔屓する理由でもあるのだから。サラだけが、母親でのつながりではない、確かな父親の血を引いている娘なのだ。この屋敷を託すにふさわしい資格を有した――。
ケンブリッジの館の蓮池にせよ、この場所にせよ、ヘンリーにとって価値を持つのはソールスベリーの血脈だけだと思い知らされる。
「これ以上、もう、いいじゃないか――」
ぽつりと呟いた吉野を、フィリップは、訝しげに見つめただけで問い質すことはなかった。
くっくと笑いながら、けれど傍らを歩く相手を一瞥することもなく、吉野は坂道をのんびりと上っていく。
「警備上、死角を作るわけにはいきませんからね」
半歩だけ歩調を遅らせて、フィリップは冷ややかな声で応える。はたからみる限り、とても会話しているとは見えない二人だ。
ロンドンから戻ってきたばかりの吉野は、意図せずして犬猿の仲といっていいフィリップと連れだって、このマーシュコートの館の広大な庭を散策している。わざわざ、ヘリポートまで迎えに来られたのだ。おまけにフィリップは用意周到に、吉野と警備上の相談があるので、と飛鳥やサウードに断りまで入れてあるという。吉野としても、話を聴かないわけにはいかなかったのだ。もっとも、彼が案内するという場所には、吉野自身も興味があった。
黒々とした地面に多種多様の野菜の植わるキッチン・ガーデンを通りぬけた後は、広々とした野原を、そして鬱蒼としたコロラド・スプルースの林の中に続くうねうねとした小道を上っていった。そこから軽く踏み分けられた跡のある獣道へと逸れる。銀灰色に輝く鋭い梢に遮られた午後の陽射しは柔らかく、空気は林の中らしく、きんと冴えわたっている。
「気持ちがいいな。久ぶりだよ、ここへ来るの」
ふわりと力が抜けたように微笑んだ吉野の横顔を、フィリップは意外そうに見つめる。
「来たことがあるような口ぶりですね」
「ああ、こっち側は初めてだけどな。もっと向こう、あの辺りに蓮池があるんだ。そこが好きでよく行ってたんだ」
振り返り、吉野は左方に腕を伸ばして指し示す。フィリップは教えられなくても分かっているとばかりに、軽く頷く。
「これか」
やがて彼らの行く手を遮るように現れた、びっしりと茂る蔦の壁を見あげるて、吉野は呟いた。
「お前、この中に入った?」
「当然でしょう」
「ふうん――」
吉野は思案するように、じっと蔦の絡まりあう壁を眺めている。ここまで来ておいて、なぜここで惑うのか、とフィリップは苛立たしげにそんな彼を睨めつけている。
「あいつ――、アレンには言うなよ」
「なぜです?」
フィリップは不満そうに唇をすぼめる。警備の一環だなどと建前にすぎない。アレンが気にしていたからこそ、ここを探しだしたのだ。だが、この発見を本人に告げる段になって、彼のなかで迷いが生じた。また、要らぬことを、と露骨に嫌な顔をされ、ぷいとそっぽを向かれるのではないかと悪い予感がよぎったのだ。良くも悪くも彼の勘はよく当たる。だから嫌々ながらも吉野に意見を求めることにした。彼にしてみれば苦渋の判断だといえるだろう。
「この数日内に一番の見ごろになるんですよ」
とげとげしい声音にもかかわらず、フィリップの口調はどこか媚びを含んだお願いのように聴こえる。彼のこういう物言いが、吉野は嫌いだ。だから返事の代わりにため息を一つ。継いで、無造作に蔦の一群を片手に掴むとぐいっと引っ張る。「へぇ……」感心する声と同時に塀を蹴り上げ、身体は高々とその塀の上へと飛び移る。
「ふうん――」
納得したように呟いた吉野の腰かける塀の内側には、木漏れ日を飛沫のように揺蕩わせた黄水仙が群れ咲いていた。そして、艶やかな敷石の通路と、その中心で心地良い水音をたてている水溝を挟んで、白百合が。だが、そちら側の花群はまだ満開とはいえない。多く蕾をつけてはいるが、ほころんでいるものはまばらだ。
「この時期に百合……。なるほどな。数日のうちに、ってところだな」
今が盛りとばかりに咲き誇る黄水仙と対に、この白百合が花開けばどれほど見事な眺めだろう、とつい今しがたフィリップが言ったのと同じ見解を口にし、吉野は狭い石塀の上に立ちあがった。蔦の絡み合う塀の上をぐるりと周る。細い水溝、そして壁に作られた尖頭アーチの装飾に既視感があった。
「そうか――。サラセン式庭園、ということは――」
花群の間に覗く狭い歩道めがけて、ひらりと飛んだ。正面の花に埋もれるように置かれた石碑が、彼の憶測を証明するものだと直感したのだ。
吉野はその石碑に刻まれた文字を確かめると、首を垂れて、神聖な場に踏み入った無礼を詫びた。
再び、塀を乗り越えてフィリップの前に戻った吉野は、もう一度、「アレンには言うなよ」と念を押して告げた。「なぜです?」当然、同じ問いが返ってくる。
「ここは、サラの母親の墓なんだよ。そのための黄水仙だ。この花がリチャードにとって特別だってのは、そういうことだよ。サラの母親に捧げた花だからだ。そんな話聞かされて、あいつが喜ぶと思うか?」
インド・サラセン式庭園の代表格は、タージ・マハル。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、若くして産褥で亡くなった愛妃ムムターズ・マハルのために建造した墓廟だ。
だが、サラはヒンドゥー教徒だろ。イスラム式の霊廟に模した墓を造るなんて――。
吉野にしてみれば、リチャードの宗教観が疑われる。ヘンリーにしてもそうだが、とりたてて信仰心のない者にしてみれば問題にもならないのだろうか。真面目に考えだすと、頭が痛くなりそうな問題だ。サウードにはとても話せないような。
吉野は一人苦笑しながら肩をすくめる。彼にしても、友人たちの宗教観は尊重しているのだ。だが時折、何が気に障ったのかも判らないようなことで、彼らの気分を損ねてしまうことがある。わずかにでも障りがあるのではと疑われるなら、避けておくに越したことはない。
それでもリチャードは、墓を持たないヒンドゥー教徒の愛人を偲ぶ場所が欲しかったのだろうか。それとも、彼女の娘が母親を偲ぶことのできる場所を、造ってやりたかったのだろうか。
どちらにしても、アレンが聞いて嬉しい話ではないだろう。それは、ヘンリーが弟妹のうちでサラだけを贔屓する理由でもあるのだから。サラだけが、母親でのつながりではない、確かな父親の血を引いている娘なのだ。この屋敷を託すにふさわしい資格を有した――。
ケンブリッジの館の蓮池にせよ、この場所にせよ、ヘンリーにとって価値を持つのはソールスベリーの血脈だけだと思い知らされる。
「これ以上、もう、いいじゃないか――」
ぽつりと呟いた吉野を、フィリップは、訝しげに見つめただけで問い質すことはなかった。
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