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九章
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「サラ!」
「え?」
飛鳥たちの腰かけるベンチは、ライラックの生垣に囲まれている。たわわに咲き誇る花群が重たげにしなる白と緑とに彩られた壁の切れ間に、鮮やかな赤が垣間見えたような気がしたのだ。
飛鳥は、反射的に立ちあがっていた。
その人影が、彼女一人ではないような気がして――。
だが、彼の呼びかけに応える声はなく、取りたてて人の気配もない。午後の陽射しに白い稲穂のようなライラックの花が輝いているばかりだ。
「何かの見間違いだったみたいだ」
驚いて自分を見あげていたアレンをちらと見やると、飛鳥は気がぬけたように腰を下ろして、どこか強張った笑みを結んだ。アレンは軽く小首を傾げ、その言葉の真偽を確かめるように視線を彷徨わせてから、飛鳥に向き直る。
「彼女、戸外に出ることがあるのですか?」
尋ねられた飛鳥は、真顔でアレンをまじまじと見つめる。
「そりゃぁ、ね。この時間に外にいるのは珍しいけど。庭の手入れをしてるのは、彼女なんだ。今はゴードンさんも戻っているし、早朝に手伝ってるんだ。サラだって、いつも仕事、仕事って部屋に閉じ篭っているわけじゃないよ」
苦笑する。出不精ということでは、この二人は似た者同士だろう。だが飛鳥の認識では、サラの方が、まだアレンよりは日光にあたる時間は長いのではないか。サラの行動範囲は塀の中限定ではあるが――。実際、庭師のゴードンがケンブリッジのヘンリーの館にいる間は、サラが主になってこの庭の管理をしているのだ。もちろん、この広大な庭の手入れは彼女一人では手に余るので、庭師も数人いる。
「そうなんですね。なんだか意外です。彼女は――、いつも機械のなかにいると思っていましたから」
アレンは目を丸くして、ふうん、と首を捻りながら飛鳥の話に聴き入っている。
飛鳥はこれまで、アレンは意識的にサラの話題を避けていたように感じていた。だが、抜けるような蒼空と新緑に踊るライラックと、その甘やかな優しい芳香が彼の心をほぐしてくれたのだろうか。アレンは血相を変えてここへ来たときの様子とは段違いに寛いで見える。ごく自然にサラの印象を口にしているのだ。それは飛鳥からすれば、あまりにも彼女を知らない素朴な疑問であり、遠くから幻でも眺めているような印象ではある。けれど、アレンが隠していたサラへの関心を知ることができたことが、飛鳥は嬉しかった。だから当初の気がかりを忘れ、彼の知らないサラのことを、もっともっと知ってほしい、とそんな気持ちに動かされていた。
「サラはね、吉野が気まぐれに作った畑も、いまだに大事に引き継いでくれてるんだ。土いじりしているとき、すごく楽しそうだよ」
「彼女はガーデニングが趣味、ってことですか?」
「うん。むこうではやらないけどね。だからかな、きみが知らなかったのって」
「なぜしないんです?」
「ヘンリーがいるから」
当然のように言ってしまってからはっとして、飛鳥は自嘲的な笑みを浮かべた。
同じ館に住んでいたところで、ヘンリーが一日中いるわけではない。日々の連絡事項は、どこにいても変わらず交わされ、遠隔地ということで支障をきたすこともない。マーシュコートでもケンブリッジでも、彼らの一日の会話量はそう変わらないだろう。ヘンリーがいるから仕事量が増え時間が取れない、というわけではないはずだ。
けれど――。サラはケンブリッジの館の庭の世話はしない。ヘンリーがいるから。彼女自身がそう言ったのだ。
理由になってないじゃないか、とそれを聴いたとき感じた小さな反撥を思いだし、飛鳥は口許を歪めたのだった。
「ああ、わかるなぁ、それ。僕もあそこにいる時は、趣味に没頭なんてできないもの」
飛鳥が感じていたのとは違い、アレンの反応は大きな首肯で――。今度は飛鳥の方が、へ? とでも問いたげな反応を示すことになった。
「あそこは、兄が在宅していても、いなくても、兄の気配で満たされていますから。だから自分のことなんて忘れてしまう――。これに浸らなきゃもったいないような気がしてしまって」
「――本当に好きなんだね、ヘンリーのこと」
「はい!」
無邪気に微笑んで誇らしげに頷いたアレンに、飛鳥も釣られて笑みをこぼした。けれどすぐに、その笑みは内側に沸き起こっていた、じくじくと締め付けるような痛みにかき消されていた。
ヘンリーの気配で満ち満ちた家。
それが、彼らに安心をくれる家。
彼らにとって、自らの拠り所になる家族、家庭というものが、ヘンリーという個人に集約されている。
アレンにとってそうであっても、サラも同じとは限らないじゃないか。と、飛鳥は唇を結んで首を強く振る。だが、
結婚。家族になる。家庭を作る――。
その語群は虚しく、飛鳥に現実味を与えてはくれなかった。飛鳥には、まるで蜃気楼のような、実体のない言葉に思えてならなかったのだ。今だけでなく、これまでもずっと。ずっと、飛鳥は違和を感じていた。
「アスカさん? どうかしましたか、アスカさん?」
アレンが眉をよせて尋ねていた。その下の、澄んだセレストブルーの瞳が心配そうに飛鳥を見つめている。
ヘンリーと同じセレストブルー。
サラの一番好きな色。
それは、飛鳥には、届かない、至上の空の色だと思えてならなかった。
「え?」
飛鳥たちの腰かけるベンチは、ライラックの生垣に囲まれている。たわわに咲き誇る花群が重たげにしなる白と緑とに彩られた壁の切れ間に、鮮やかな赤が垣間見えたような気がしたのだ。
飛鳥は、反射的に立ちあがっていた。
その人影が、彼女一人ではないような気がして――。
だが、彼の呼びかけに応える声はなく、取りたてて人の気配もない。午後の陽射しに白い稲穂のようなライラックの花が輝いているばかりだ。
「何かの見間違いだったみたいだ」
驚いて自分を見あげていたアレンをちらと見やると、飛鳥は気がぬけたように腰を下ろして、どこか強張った笑みを結んだ。アレンは軽く小首を傾げ、その言葉の真偽を確かめるように視線を彷徨わせてから、飛鳥に向き直る。
「彼女、戸外に出ることがあるのですか?」
尋ねられた飛鳥は、真顔でアレンをまじまじと見つめる。
「そりゃぁ、ね。この時間に外にいるのは珍しいけど。庭の手入れをしてるのは、彼女なんだ。今はゴードンさんも戻っているし、早朝に手伝ってるんだ。サラだって、いつも仕事、仕事って部屋に閉じ篭っているわけじゃないよ」
苦笑する。出不精ということでは、この二人は似た者同士だろう。だが飛鳥の認識では、サラの方が、まだアレンよりは日光にあたる時間は長いのではないか。サラの行動範囲は塀の中限定ではあるが――。実際、庭師のゴードンがケンブリッジのヘンリーの館にいる間は、サラが主になってこの庭の管理をしているのだ。もちろん、この広大な庭の手入れは彼女一人では手に余るので、庭師も数人いる。
「そうなんですね。なんだか意外です。彼女は――、いつも機械のなかにいると思っていましたから」
アレンは目を丸くして、ふうん、と首を捻りながら飛鳥の話に聴き入っている。
飛鳥はこれまで、アレンは意識的にサラの話題を避けていたように感じていた。だが、抜けるような蒼空と新緑に踊るライラックと、その甘やかな優しい芳香が彼の心をほぐしてくれたのだろうか。アレンは血相を変えてここへ来たときの様子とは段違いに寛いで見える。ごく自然にサラの印象を口にしているのだ。それは飛鳥からすれば、あまりにも彼女を知らない素朴な疑問であり、遠くから幻でも眺めているような印象ではある。けれど、アレンが隠していたサラへの関心を知ることができたことが、飛鳥は嬉しかった。だから当初の気がかりを忘れ、彼の知らないサラのことを、もっともっと知ってほしい、とそんな気持ちに動かされていた。
「サラはね、吉野が気まぐれに作った畑も、いまだに大事に引き継いでくれてるんだ。土いじりしているとき、すごく楽しそうだよ」
「彼女はガーデニングが趣味、ってことですか?」
「うん。むこうではやらないけどね。だからかな、きみが知らなかったのって」
「なぜしないんです?」
「ヘンリーがいるから」
当然のように言ってしまってからはっとして、飛鳥は自嘲的な笑みを浮かべた。
同じ館に住んでいたところで、ヘンリーが一日中いるわけではない。日々の連絡事項は、どこにいても変わらず交わされ、遠隔地ということで支障をきたすこともない。マーシュコートでもケンブリッジでも、彼らの一日の会話量はそう変わらないだろう。ヘンリーがいるから仕事量が増え時間が取れない、というわけではないはずだ。
けれど――。サラはケンブリッジの館の庭の世話はしない。ヘンリーがいるから。彼女自身がそう言ったのだ。
理由になってないじゃないか、とそれを聴いたとき感じた小さな反撥を思いだし、飛鳥は口許を歪めたのだった。
「ああ、わかるなぁ、それ。僕もあそこにいる時は、趣味に没頭なんてできないもの」
飛鳥が感じていたのとは違い、アレンの反応は大きな首肯で――。今度は飛鳥の方が、へ? とでも問いたげな反応を示すことになった。
「あそこは、兄が在宅していても、いなくても、兄の気配で満たされていますから。だから自分のことなんて忘れてしまう――。これに浸らなきゃもったいないような気がしてしまって」
「――本当に好きなんだね、ヘンリーのこと」
「はい!」
無邪気に微笑んで誇らしげに頷いたアレンに、飛鳥も釣られて笑みをこぼした。けれどすぐに、その笑みは内側に沸き起こっていた、じくじくと締め付けるような痛みにかき消されていた。
ヘンリーの気配で満ち満ちた家。
それが、彼らに安心をくれる家。
彼らにとって、自らの拠り所になる家族、家庭というものが、ヘンリーという個人に集約されている。
アレンにとってそうであっても、サラも同じとは限らないじゃないか。と、飛鳥は唇を結んで首を強く振る。だが、
結婚。家族になる。家庭を作る――。
その語群は虚しく、飛鳥に現実味を与えてはくれなかった。飛鳥には、まるで蜃気楼のような、実体のない言葉に思えてならなかったのだ。今だけでなく、これまでもずっと。ずっと、飛鳥は違和を感じていた。
「アスカさん? どうかしましたか、アスカさん?」
アレンが眉をよせて尋ねていた。その下の、澄んだセレストブルーの瞳が心配そうに飛鳥を見つめている。
ヘンリーと同じセレストブルー。
サラの一番好きな色。
それは、飛鳥には、届かない、至上の空の色だと思えてならなかった。
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