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九章
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「あんた、痩せたんじゃないのか。俺たちがメアリーを向こうに連れてったせいなら、戻したっていいんだぞ。飯くらい、俺がつくりゃいいんだしさ」
サウードとの通信を終え、手早く作った昼食の席に着くと、吉野はじっくりと観察するような眼差しを向けて言った。ヘンリーはゆるりと微笑み、まずは「お気遣いありがとう」と応える。
「でも、彼女の仕事は食事の世話だけじゃないからね。きみがここにいる間、彼女の代わりをしてくれるというのなら、僕としては嬉しいよ」
「アルは? 気に入らないの?」
「マクレガー? いや、よくやってくれているよ」
ヘンリーは、どこか覇気のない声音で答えている。そして静かに、サーモンとアボカドの上に半熟卵ののったオープンサンドをカトラリーで切り分ける。
相変わらず、食べるということに何の感情も見せないやつだな、と吉野は、あくまで上品な所作で食事する相手を、若干冷めた思いで眺める。同じ食卓に着くなら、アレンの方がずっといい。よく似た外見で、同じように食べることに興味を示さなくても、アレンは料理や食材にまつわる話には食いついてくる。そんな物語が好きなのだ。対して、こっちはサラが作った映像よりもよほど機械的な、アンドロイドのようだ。
だが、冷静沈着なのは表面だけ。中身はマグマのように激しい感情の持ち主だということを、吉野は知っている。そのヘンリーがこうも感情を殺しているということは、よほど腹に据えかねることがあったのだろうか――。
「何か訊きたいことでもあるの?」
そんな訝し気な視線を感じたのか、目線は伏せたままのヘンリーが呟いた。
「いや、特には」
「カールトンJr.に会うのは夜だったね? 僕も同席した方がいいのかな?」
「かまわないよ。あんたも休んでるんだろ?」
でなければ、この誰よりも忙しいアーカシャーHDのCEOが昼日中から家にいるはずがない。
「そういう訳でもないんだけどね。今日は一日会議なんだ。サラが僕のスペアを動かしてくれているから、僕自身が出る必要がないだけだよ」
サラにしても、今のヘンリーの不調を気遣っての采配だろう。だが、体調は悪くないというのも、嘘ではないのかもしれない。機械的にであっても、彼は一定のリズムで出された食事を消化していっているのだから。
相変わらず腹の読めない男だと、吉野自身も腹の内で考えながら、同じように黙々と口を動かしている。この重苦しい食卓の空気を払う糸口はないかと、視線をあてどなく彷徨わせて。
「ああ、ここにはあるんだな」
ん? とヘンリーは小首を傾げる。吉野は窓外の小さな庭の花壇をなんともなしに眺めていた。
「黄水仙。向こうにはなかった」
「気になった? 向こうにも、植わってるよ」
「見たことない」
「秘密の庭だからね。サラだけのものなんだ。父が造って彼女に贈った。だからだよ、誰でもが目にできる場所にはこの花は植えてないんだ」
「そうか」
思いがけずすんなりと返ってきた返答に、吉野は言葉少なに頷いた。彼の知る冷徹な起業家であるヘンリーを、飛鳥がロマンチストだと評していたのを思いだした。父親も、おそらくそうなのだろう。誰の視線に荒らされることのない庭を、娘に贈る――、そこに秘められた想いなど、吉野には想像することもできなかったが。
ヘンリーの不調は、やはりサラの結婚を現実として捉えていくことの損失感からなのだろうか。この男にしても、アレンにしても、家族というものへの理想と執着が過ぎるのだ、と吉野は思う。
サラを飛鳥に奪われたとでも思っているのだろうか。結婚したところで、おそらく何も変わりはしない。新婚のうちは田舎に引きこもっても、じきにそんなことも言っていられなくなる。飛鳥も、サラも、しょせん仕事の虫だ。1年ともたずにケンブリッジに戻ってくるのは目に見えている。新居を持つにせよ、ヘンリーの館を今まで通り使うにせよ、彼らがヘンリーの庇護下に置かれるのは想像に難くない。
それが判ってなお、承服しかねるのだ、この男は――。
「あんたはもう、カールトンなんてどうでもいい、って感じだな」
「もう勝負はついてるからね」
「ここで崩せると、信じてくれてるんだ?」
「きみはしくじったりしない。そうだろう?」
ヘンリーはどうでもよさそうに、薄く唇を歪めて笑った。確かに吉野の言う通り、意識はもうガン・エデン社などからとうに離れている。そんな過去のしがらみなど、どうだってよかった。今、考えるべきは過去ではなく、これからのこと。この虚ろな道をどうやって歩み続けていくかなのだ。
「かなわないな。あんたは、いったいどれだけ先を見てるんだ?」
「そんなことを僕に尋ねるとはね」
「カールトンを地面にねじ伏せることが俺の目標だった。その後のことなんて、思いつかないよ。だから大学に戻ってきたんじゃないか。サウードの方ももうじきケリがつくし、やることなくってさ」
「やることがない? 意外にきみ、薄情なことを言うね。アスカはすべきことがあり過ぎてキリキリしているというのに」
「なんだ、気が変わったのか? 俺が飛鳥を手伝うのって、あんたが一番嫌がってたことじゃないか」
吉野はさも意外そうに目を細める。ヘンリーはそれも特に気にする様子もなく、カトラリーを置き、テーブルナプキンで口許を拭って食事を終えた。
「きみが戻ってきてくれるなら、僕は心から歓迎するよ。きみくらいのものだろうからね。これからもサラを退屈させることなく、アスカをここに惹きつけておいてくれる何かは―」
飛鳥を常に新しい目標に惹きつけておくこと。
それは彼の、本心からの願いだった。
ヘンリーは、こうして同じ目標を目指すことでしか、飛鳥と並んで歩みつづけることはできない。
それが見いだせる唯一の道だと、彼はこれまでずっと心得ていたはずだったのだから――。
サウードとの通信を終え、手早く作った昼食の席に着くと、吉野はじっくりと観察するような眼差しを向けて言った。ヘンリーはゆるりと微笑み、まずは「お気遣いありがとう」と応える。
「でも、彼女の仕事は食事の世話だけじゃないからね。きみがここにいる間、彼女の代わりをしてくれるというのなら、僕としては嬉しいよ」
「アルは? 気に入らないの?」
「マクレガー? いや、よくやってくれているよ」
ヘンリーは、どこか覇気のない声音で答えている。そして静かに、サーモンとアボカドの上に半熟卵ののったオープンサンドをカトラリーで切り分ける。
相変わらず、食べるということに何の感情も見せないやつだな、と吉野は、あくまで上品な所作で食事する相手を、若干冷めた思いで眺める。同じ食卓に着くなら、アレンの方がずっといい。よく似た外見で、同じように食べることに興味を示さなくても、アレンは料理や食材にまつわる話には食いついてくる。そんな物語が好きなのだ。対して、こっちはサラが作った映像よりもよほど機械的な、アンドロイドのようだ。
だが、冷静沈着なのは表面だけ。中身はマグマのように激しい感情の持ち主だということを、吉野は知っている。そのヘンリーがこうも感情を殺しているということは、よほど腹に据えかねることがあったのだろうか――。
「何か訊きたいことでもあるの?」
そんな訝し気な視線を感じたのか、目線は伏せたままのヘンリーが呟いた。
「いや、特には」
「カールトンJr.に会うのは夜だったね? 僕も同席した方がいいのかな?」
「かまわないよ。あんたも休んでるんだろ?」
でなければ、この誰よりも忙しいアーカシャーHDのCEOが昼日中から家にいるはずがない。
「そういう訳でもないんだけどね。今日は一日会議なんだ。サラが僕のスペアを動かしてくれているから、僕自身が出る必要がないだけだよ」
サラにしても、今のヘンリーの不調を気遣っての采配だろう。だが、体調は悪くないというのも、嘘ではないのかもしれない。機械的にであっても、彼は一定のリズムで出された食事を消化していっているのだから。
相変わらず腹の読めない男だと、吉野自身も腹の内で考えながら、同じように黙々と口を動かしている。この重苦しい食卓の空気を払う糸口はないかと、視線をあてどなく彷徨わせて。
「ああ、ここにはあるんだな」
ん? とヘンリーは小首を傾げる。吉野は窓外の小さな庭の花壇をなんともなしに眺めていた。
「黄水仙。向こうにはなかった」
「気になった? 向こうにも、植わってるよ」
「見たことない」
「秘密の庭だからね。サラだけのものなんだ。父が造って彼女に贈った。だからだよ、誰でもが目にできる場所にはこの花は植えてないんだ」
「そうか」
思いがけずすんなりと返ってきた返答に、吉野は言葉少なに頷いた。彼の知る冷徹な起業家であるヘンリーを、飛鳥がロマンチストだと評していたのを思いだした。父親も、おそらくそうなのだろう。誰の視線に荒らされることのない庭を、娘に贈る――、そこに秘められた想いなど、吉野には想像することもできなかったが。
ヘンリーの不調は、やはりサラの結婚を現実として捉えていくことの損失感からなのだろうか。この男にしても、アレンにしても、家族というものへの理想と執着が過ぎるのだ、と吉野は思う。
サラを飛鳥に奪われたとでも思っているのだろうか。結婚したところで、おそらく何も変わりはしない。新婚のうちは田舎に引きこもっても、じきにそんなことも言っていられなくなる。飛鳥も、サラも、しょせん仕事の虫だ。1年ともたずにケンブリッジに戻ってくるのは目に見えている。新居を持つにせよ、ヘンリーの館を今まで通り使うにせよ、彼らがヘンリーの庇護下に置かれるのは想像に難くない。
それが判ってなお、承服しかねるのだ、この男は――。
「あんたはもう、カールトンなんてどうでもいい、って感じだな」
「もう勝負はついてるからね」
「ここで崩せると、信じてくれてるんだ?」
「きみはしくじったりしない。そうだろう?」
ヘンリーはどうでもよさそうに、薄く唇を歪めて笑った。確かに吉野の言う通り、意識はもうガン・エデン社などからとうに離れている。そんな過去のしがらみなど、どうだってよかった。今、考えるべきは過去ではなく、これからのこと。この虚ろな道をどうやって歩み続けていくかなのだ。
「かなわないな。あんたは、いったいどれだけ先を見てるんだ?」
「そんなことを僕に尋ねるとはね」
「カールトンを地面にねじ伏せることが俺の目標だった。その後のことなんて、思いつかないよ。だから大学に戻ってきたんじゃないか。サウードの方ももうじきケリがつくし、やることなくってさ」
「やることがない? 意外にきみ、薄情なことを言うね。アスカはすべきことがあり過ぎてキリキリしているというのに」
「なんだ、気が変わったのか? 俺が飛鳥を手伝うのって、あんたが一番嫌がってたことじゃないか」
吉野はさも意外そうに目を細める。ヘンリーはそれも特に気にする様子もなく、カトラリーを置き、テーブルナプキンで口許を拭って食事を終えた。
「きみが戻ってきてくれるなら、僕は心から歓迎するよ。きみくらいのものだろうからね。これからもサラを退屈させることなく、アスカをここに惹きつけておいてくれる何かは―」
飛鳥を常に新しい目標に惹きつけておくこと。
それは彼の、本心からの願いだった。
ヘンリーは、こうして同じ目標を目指すことでしか、飛鳥と並んで歩みつづけることはできない。
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