胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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 アレンが飛鳥の部屋でケネスと歓談していた頃、サウードとイスハークの残る図書室には、本物の吉野――の通信映像が、ヘンリー、そして彼の立体映像を伴って訪れていた。

「俺が出るなり寝込むとか、飛鳥、やっぱり気ぃ張りすぎてたんだよ」
 イスハークに一通り現状を聞くなり、吉野は腹立たしげにヘンリーに視線を流す。
「な、言った通りになったじゃないか!」
「そこを制御するのがきみの役目だろ。休ませるために、わざわざ帰ってこなくたって、もっと普段から節制させて、」
「戻ったのは、あんたが呼んだからだろ!」
 ヘンリーを遮り、吉野はぷっとふくれっ面をする。
「アレンがいるからさ、飛鳥、自分のことは二の次になるんだよ。それこそ、あんたがもっと、あいつが浮上できるように上手く声かけてやってくれたらさぁ――」
「それこそ、きみがすべきことなんじゃないのかい」

 大きくため息をついていなすヘンリーと、まだまだ言い返している吉野の延々と続きそうななすり合いを、サウードは鷹揚な笑みを浮かべて口を挿むこともなく眺めている。
 彼から見れば、飛鳥にしろアレンにしろ、自分の体調管理くらい自分でしている。連日の緊張からの疲れがでたから、アレンは今朝起きてくるのが遅かった。飛鳥は今日は休むことに決めた。吉野にしろ、いったん息を抜くために、ロンドンに戻ることにしたのではないか。

 そこではたと気がついて、サウードはおもむろに、彼らが今いる場所を見回した。

 
 彼らは鮮やかな蒼穹の下、短く刈られた草の上に車座になっているのだ。その背後に広がるそよそよと風に揺れる草原。遠く、ぼやけて見える黄色く色づいた花の群生。地面についた掌の感触は滑らかな絨毯なのに指の間からは、小さなデイジーが白い花びらを覗かせている。そこ、かしこに。

 ここはいったい、どこなのだろう――。

 吉野からの通信に応答した時点で、サウードのいる空間は一瞬で変わっていた。それまでいたはずの慣れ親しんだ自国の王宮から、この場所へ。だが、これはただの背景だ。彼らのいる場所が現実の草原ではないことくらい、サウードにしても判っている。

「それであなた方は、今、ロンドンにいるのですか? それともケンブリッジ?」

 に尋ねればいいのか判らないまま、サウードは、二人の吉野と二人のヘンリーを軽く小首を傾げて順繰りに見つめる。

「ロンドンだよ。ヘンリーのタウンハウスだ」
「本店からも近いのでね、ひと部屋、実験用に改装したのですよ」

 吉野とヘンリーが、代わる代わる応える。

「ナイツブリッジでしたか?」
「ええ、そうです。ハイドパーク近くの」
「何? なんか気になることでもある?」
「確かにこの景色からロンドンの街中にいるのを想像するのは難しいですね」
「やっぱ、嘘くさいかな?」


 口々に話し始めたのは自分も含めた立体映像たちだ。その声に耳を傾けているだけで、サウードは眩暈を起こしそうだった。だから、軽く頭を振って視線を伏せた。おそらく瞬き一度でもすれば、もうどれが本物なのか判らなくなるに違いない。ここにいる自分の映像を見ていてすら、本物は向こうで、自分は本物だと思い込んでいるただの人工知能AIなのではないか、という気さえしてくるのだから。
 それにこうして口を噤んでいれば、吉野やヘンリーがいる、いないに関係なく、映像たちは彼ら自身のするべきことに没頭する。サウードは自分の存在を空気のように忘れてしまえた。

 
 そして映像たちの方も、喋らないサウードにかまうことはなかった。すぐに吉野やヘンリーの本体も交えて、活発な議論が始まった。技術的な話には、サウードの入り込める余地はない。自分よりもよほど知能の高い人工知能の相手をすることに、自分が本当に役に立てるのか、彼には疑問だ。

 そのうえ彼の姿をした人工知能AIは、サウード本人よりもよほど王らしい振舞いを身に着けているのだ。その所作や細かな癖は、サウード自身ではなく、父王の若い頃の映像を土台にしている。今現在の姿からは想像もできないほど若く、活力に溢れ、もっとも国民に慕われていた頃の――。

 だからここに来るのは嫌だったのだ、とサウードは心の中でだけ呟く。
 吉野の手によって作られた自分サウードを目の当たりにすることで、自分という存在の希薄さをこうして見せつけられることになるのだから。

 どちらが本質なのか、彼には判らなくなるのだ。自分以上に王者の風格を備えた映像かげ。それは遠く離れた祖国で、今この瞬間も機能している。皇太子として――。


「サウード」
 吉野に呼ばれ、彼はゆっくりと視線を声のした方へと向ける。
「ありがとな」
 二人並んだ吉野の一方がにかっと笑った。

 ああ、笑い方が違うのか、とサウードは頬を緩ませる。映像の吉野は、もっと冷ややかな笑い方をするのだ。決して誰とも馴れあうことのない、そんな笑い方だ。吉野はサウードの国にいるとき、そんな風に笑っていた。

「やっぱ、人工知能AI同士で会話させてたんじゃ育たないんだ。お前がかまってくれると違うよ」
「そう? 彼がもっときみらしくなるために貢献できるのなら、こんなお茶会も悪くないかな、そう思うことにする」
「な、これからも頼んだぞ!」

 子どものような無邪気な微笑み。自分に向けられる偽りのない眼差し。楽し気な声。吉野の本質。

 彼ならば、現実と虚構バーチャルを取り違えることはないのだろう。だからこそ、サウードは彼に未来を託したのではないか――。歪な冷笑を浮かべてやり過ごすしかなかった祖国に、こんな笑みを咲かせるために。


 信じたのは本質よしのであって、虚構えいぞうではない。それは吉野にしろ同じはず。サウードの描いた夢に、吉野は輪郭をくれた。設計図を描いてくれた。そうやって描かれた未来を、今度は吉野から託されているのだ。吉野の信じてくれた自分を信じることで、サウードは足を踏み出したはずだ。未来へと――。

 サウードは、ふっ、とそれまで避けていた自分自身の映像に視線を据えた。自分よりも父に似た自分の影。これから玉座につく皇太子。彼を不安にさせる元凶。吉野がいなくとも、を使いこなせるようにならなければならない。


 そのための吉野の不在なのだと、サウード自身、解ってはいるのだ。

 



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