胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

暗躍1

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 普段はマーカスの取り仕切きっているヘンリーの館では、その不在をマクレガーが代理を務めることで補っている。研究室に籠りきりだった飛鳥の世話から解放され、彼本来の役割に戻ったともいえる。そして彼は、マーカスと同じくマーシュコートに向かったメアリーの代理をも務める。とはいえ、ヘンリーはこの期間、食事は朝昼晩ともに会社で済ませると決めた。それ以外の彼女の管轄である掃除や洗濯に関しては、信頼できる業者に頼んでいるので大きな負担はない。だから実質的な彼の負担は、ヘンリーの簡単な身の回りの世話と、お茶を淹れることくらいだ。そもそも秘書の業務はそのほとんどを人工知能に任せている。彼本来の仕事は、人口知能の組んだスケジュールの微調整と、突発的な事象に備えることだといえるのかもしれない。


 今まさに、マクレガーはその突発的な業務を黙々とこなしているところだ。ともに帰宅したばかりのヘンリーのために暖炉に火を入れ、こうして温かいお茶を用意しているさなかに、急な来客を告げられたのだ。いや、突発的というほどでもないかもしれない。これも予想の範疇だ。

 きびきびと動く快活な彼が急いてこの場を辞すと、広々とした居間はとたんに静寂に支配された。
 ソファーで寛いでいたヘンリーは、飛鳥とサラの結婚がかなう日には、こうした別々の暮らしを日常のこととして受け入れることになるのか、と一人物思いに沈む。

 もっとも、こんな感傷に浸っている暇などないかもしれないが――。

 と、彼は間を置いて現れたロレンツォを見あげ、苦笑を漏らす。飛鳥たちがマーシュコートに移動してからというもの、三日と開けず訪ねてくるのだ、この男は。淋しがっている、とでも思っているのだろうか。と、そんなふうに感じてしまうことからして、今の飛鳥の不在は、ヘンリーの出口のない不満に通じているのかもしれない。

 彼の訪ねてくる理由は、そんな感傷じみたものとはほど遠い、極めてきな臭い要件なのだから。


「なんだ、こんな時間に茶なんぞ飲んでいるのか!」
「きみが来るって言ったからだよ」
「今さら英国流のもてなしでもないだろうに!」
「酒を酌み交わすほどの仲でもないからね」

 学生のころから変わりないヘンリーの冷淡なあしらいに、ロレンツォは「おいおい!」と大仰に腕を広げる。大きくため息をつきながら、どさりとソファーに腰をおろす。傍らに控えていたマクレガーは、念のために彼に飲み物の意向を尋ね、いつも通りに香り高い紅茶を注いだカップを静かに置いた。

「それで、あれから進展はあったのか?」
 あれから、といってもほんの数日前ではないか。このせっかちさも、こうも足げく訪ねてくる理由なのか、とヘンリーはくすりと笑う。
「連絡は受けているよ。かなりのスピードで変革の舵を切っている。彼が命を危ぶむのも納得するほどにね」

 ヘンリーの特に感情の変化もみられない軽やかな口調に、ロレンツォはわずかだが眉根を寄せた。
 この眼前の男は、こうと決めたことにはどれほどの犠牲が伴おうと、こうも淡々と見届けていく覚悟を決めているのか、と。
 サウードを安全な場所に隠し、吉野もまた、前回のようには自ら最前線に赴いているのではない。とはいえ今現在彼の指示を仰ぎ、現地で実働しているのはヘンリーの腹心であるウィリアム・マーカスなのだ。かつては彼の影のように付き従っていた男が、今は吉野の影として暗躍している。それもヘンリーから遠く隔たったあんな異国で。それが吉野を守るためなのか、サウードに肩入れするためなのか、はたして、そうまでしなければならないメリットがあるのか、ロレンツォにはいまだ見極められない。ただ、刻一刻と変わりつつある状況に目を凝らし、探り続けるしかない。砂漠に舞う砂塵の向こうに朧に浮かびあがるのは、サウードではなく、ヘンリー自身の王国なのではないか、とその全貌を掴まんとして――。
 ロレンツォの知るヘンリーは、理想に燃えて夢を語るサウードのような夢想家などではないのだ。そして殿下を補佐する吉野にしても。理想が描く楽園エデンではなく、そこに実る果実こそが目的。だが今現在、彼の国の内政で秘密裡に断行されている人員整理でどれほどの血が流され、現地に残る彼らの派閥が危険と引き換えに、どれほど権力の拡大をはかることができるか、まだまだこの時点では想像ですら追いつかない。


「ヨシノは、彼を待っているのだろうね」
 持ちあげたティーカップを一旦止め、ふと思い浮かんだように呟いたヘンリーに、ロレンツォは続きを言うように、と顎をしゃくる。
「アブド元大臣だよ。彼が直接手を出してくるのを待っているのだろうよ」
「軍に干渉してくる、ということか?」
「それは無理だろうね」
「ならどこに? 財務か?」
「解らないかい? 陛下にだよ」
「失脚したアブドに、今さらそんなことができるわけがない!」
「そう、だからだよ。王位を諦めきれない彼が、もう一度クーデターを起こす気になるように、こうして粛々と彼の息のかかる地盤を排除していっているんだ。当の陛下は矢面に晒されてることすら知らずじまいさ。でもここでしくじると、殿下は自国でも異国でも安寧の場をなくすことになる。ヨシノは正念場だね。おそらく今回でケリをつけるつもりだよ」


 だからロレンツォがここにくる。いつでも動けるように。そして、マーシュコートにいる彼の甥、フィリップにしても。
 いちから説明されずとも彼らはその嗅覚で嗅ぎつけるのだ。腐臭に満ちた金の臭いを――。そう、ハイエナのように。


 理屈では説明のつけようのない見解にたどり着き、ヘンリーは一人納得してくすくすと笑った。彼の孤独を慰めに、などと思うよりもその方がよほど、ロレンツォと自分の関係には相応しいのだ、と。


 


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