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九章
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帰る――、と吉野から連絡があってから、すでに数日が経過している。明確にいつとは定まらないその日を、今日こそはと心待ちにしているのか、連日研究所に泊まりこみだった飛鳥は、逆に館から出なくなっていた。
「アスカ、ねぇ、ちゃんと聴いてる?」
パソコンルームでは、それぞれが各々のモニターと向き合っていた。その機械的な作業をこなしながら、サラは一人夢中で喋っている。けれど聴き手の飛鳥はどこか上の空だ。
「聴いてるよ。殿下のパーティーにいた人だろ? 吉野の友人だっていってた」
「ケネス」
「うん、」
その吉野の友人がアレンを訪ねてきてから、サラは彼の話ばかりしている。彼、というよりも純粋数学の、というべきかもしれない。ハワード教授に続き、自分と対等に数学の話をすることができる相手に逢えたことが、彼女を軽い興奮状態にしているのだ。ずっとこの館かマーシュコートに籠りきりで外界に免疫のない彼女が、少しづつでも人慣れしていくように、とのヘンリーの配慮もあるのだろう。飛鳥との婚約パーティーから、本当に親しい信用できる間柄だけとはいえ、この館を訪れる顔ぶれは以前よりもずっと増えていた。
アレンを訪ねてきた彼も、本当に親しい信用できる男なのだろう。
飛鳥はサラの話を聴き流しながら、漠然とそんなことを考えていた。彼は吉野やアレンの友人、というだけではないだろう、と。ヘンリーのよほどの信頼を得ていないと、本人不在の折に訪問を許可するはずがないのだから。あの彼が――。
サラが接することになる相手を、ヘンリーはどれほどの気を使って選び抜いていることか。
そんな彼の過剰なほどの配慮を、当人は気づくこともないのだろう。無邪気に、楽し気に、その客人との会話をこうして何度も繰り返し飛鳥に話している。
「僕もお逢いしたかったな。吉野のお世話になった先輩だそうだからね」
サラの話とは何の脈絡もなく、飛鳥は無意識的にそう受け応えていた。それまでに同じセリフを何度繰り返したか知れなかったのだが。とはいえ、サラは会話がつながっていないことを気にする様子もなく喋り続けている。飛鳥にしてみれば、今は純粋に数学に没頭できるようなそんな気分ではない。ヘンリーとの会話で新TSの路線変更を決意してから、飛鳥の心情は、ここまで完成させてきた設計図を破り捨て、まったく新しい製品を生み出さねばならなくなったプレッシャーで、他のことに思いを馳せる余裕はなかったのだ。せめて吉野がいてくれたら――。この圧迫感に風穴が開くかもしれない、とそんな焦燥ばかり胸に募っている。
トントンッ、と軽いノックの音に、飛鳥は気持ちを切り替えるように立ちあがった。開け放された戸口にはマーカスが待っている。
「ヨシノさんがお戻りです」
飛鳥は告げられるよりも早く、彼の一番の望みを充分に心得ている執事のにこやかな頬笑みから察していた。「ありがとう!」「居間の方にお通ししております」背中で返事を聴きながら、飛鳥は廊下を走りだしていた。
満面の笑みをたたえて、飛鳥は吹き抜けの手摺りから階下を覗きこむ。
「吉野、おかえり!」
「ただいま、飛鳥」
誰よりも耳に馴染んだ声が返ってくる。だが、そこにいたのは吉野一人ではない。
サウード皇太子殿下、その彼の影のようにいつも従っている従者。そしてヘンリー、ロレンツォ。婚約パーティーに来てもらって以来だ。その横に、なんとなく見覚えがあるような黒髪の子。
「アスカ、下りてこないの?」
思わぬ大人数の客人たちに困惑するあまり、手摺りを掴んだまま固まってしまっていた飛鳥を、ヘンリーのいつもと変わらぬ穏やかな声が呼んだ。
我に返って、飛鳥は回廊を回って居間へと急いだ。
「おかえり、ヘンリー。ロニー、久しぶり」
飛鳥はロレンツォ、次いでサウードと軽くハグを交わす。
「殿下、吉野がいつもお世話になりありがとうございます」
サウードへの挨拶の仕方は以前、吉野に教えてもらった。これでよかったか、と確かめるように飛鳥はチラリと弟を見やる。殿下の後ろに控える従者に無礼を咎められているような気がしたのだ。特に何も言わない吉野に取りあえず安堵し、残る黒髪の子と向きあった。すっと右手が差しだされる。
ああ、思いだした。たしか、ロレンツォの甥っ子だ、名前は――。
どこか黒猫を思わせる妖艶さのあった少年は、わずか3年ばかりの間に、記憶よりもずっと大人びてしなやかな青年に成長している。
「彼は、今日はいらっしゃらないのですか?」
握手もそこそこに、眼前の青年は、飛鳥には何の興味もないがと言わんばかりに視線を階上に漂わせている。この傍若無人な雰囲気は年を経たところで変わらないらしい。冷たくて傲慢な瞳だ。この濃紺の夜のように深い瞳を、初めて逢ったときもそう思ったような気がする。
「アレン? 彼はもう休んでるんだ。まだ本調子じゃないからね」
濃紺の瞳が心配そうに憂い、微かに表情が軋んだ。
そうだった、彼は――。
飛鳥は忘れかけていた記憶をあさりながら、続く言葉を探した。たしか、ロレンツォがヘンリーの守護者であるように、彼はアレンに仕えているのだ。ビジネス上、いや、それ以上の崇拝的な情熱でもって。
「なんだ、あいつまだそんな状態なの? 浮上できてるかと思ってたのにな。まだ寝るような時間じゃないだろ? 起こしてくるよ」
「な! そんな失礼なことを、」
「早く逢いたいんだろ、フィリップ。さっきまでぶつくさ言ってたくせに今さら気取るなよ」
吉野は動転して口をパクパクさせているフィリップにはおかまいなしで、悠々と階段を上がっていく。飛鳥は弟を止めるべきか、と足を踏みだしたところで、ヘンリーにさりげなく引き止められた。
「こちらの都合もある。よほどの支障がないのならあの子と話をさせたい」
静かで優しげな口調だが、どこか有無を言わせない響きがあった。夕食もとっくに終えたこの時間帯にこうして集まっているのは、ただ邂逅を喜ぶためではないのだ。ようやく飛鳥もこの場を覆う緊張感に気づき、ぐっと口許を引きしめ直したのだった。
「アスカ、ねぇ、ちゃんと聴いてる?」
パソコンルームでは、それぞれが各々のモニターと向き合っていた。その機械的な作業をこなしながら、サラは一人夢中で喋っている。けれど聴き手の飛鳥はどこか上の空だ。
「聴いてるよ。殿下のパーティーにいた人だろ? 吉野の友人だっていってた」
「ケネス」
「うん、」
その吉野の友人がアレンを訪ねてきてから、サラは彼の話ばかりしている。彼、というよりも純粋数学の、というべきかもしれない。ハワード教授に続き、自分と対等に数学の話をすることができる相手に逢えたことが、彼女を軽い興奮状態にしているのだ。ずっとこの館かマーシュコートに籠りきりで外界に免疫のない彼女が、少しづつでも人慣れしていくように、とのヘンリーの配慮もあるのだろう。飛鳥との婚約パーティーから、本当に親しい信用できる間柄だけとはいえ、この館を訪れる顔ぶれは以前よりもずっと増えていた。
アレンを訪ねてきた彼も、本当に親しい信用できる男なのだろう。
飛鳥はサラの話を聴き流しながら、漠然とそんなことを考えていた。彼は吉野やアレンの友人、というだけではないだろう、と。ヘンリーのよほどの信頼を得ていないと、本人不在の折に訪問を許可するはずがないのだから。あの彼が――。
サラが接することになる相手を、ヘンリーはどれほどの気を使って選び抜いていることか。
そんな彼の過剰なほどの配慮を、当人は気づくこともないのだろう。無邪気に、楽し気に、その客人との会話をこうして何度も繰り返し飛鳥に話している。
「僕もお逢いしたかったな。吉野のお世話になった先輩だそうだからね」
サラの話とは何の脈絡もなく、飛鳥は無意識的にそう受け応えていた。それまでに同じセリフを何度繰り返したか知れなかったのだが。とはいえ、サラは会話がつながっていないことを気にする様子もなく喋り続けている。飛鳥にしてみれば、今は純粋に数学に没頭できるようなそんな気分ではない。ヘンリーとの会話で新TSの路線変更を決意してから、飛鳥の心情は、ここまで完成させてきた設計図を破り捨て、まったく新しい製品を生み出さねばならなくなったプレッシャーで、他のことに思いを馳せる余裕はなかったのだ。せめて吉野がいてくれたら――。この圧迫感に風穴が開くかもしれない、とそんな焦燥ばかり胸に募っている。
トントンッ、と軽いノックの音に、飛鳥は気持ちを切り替えるように立ちあがった。開け放された戸口にはマーカスが待っている。
「ヨシノさんがお戻りです」
飛鳥は告げられるよりも早く、彼の一番の望みを充分に心得ている執事のにこやかな頬笑みから察していた。「ありがとう!」「居間の方にお通ししております」背中で返事を聴きながら、飛鳥は廊下を走りだしていた。
満面の笑みをたたえて、飛鳥は吹き抜けの手摺りから階下を覗きこむ。
「吉野、おかえり!」
「ただいま、飛鳥」
誰よりも耳に馴染んだ声が返ってくる。だが、そこにいたのは吉野一人ではない。
サウード皇太子殿下、その彼の影のようにいつも従っている従者。そしてヘンリー、ロレンツォ。婚約パーティーに来てもらって以来だ。その横に、なんとなく見覚えがあるような黒髪の子。
「アスカ、下りてこないの?」
思わぬ大人数の客人たちに困惑するあまり、手摺りを掴んだまま固まってしまっていた飛鳥を、ヘンリーのいつもと変わらぬ穏やかな声が呼んだ。
我に返って、飛鳥は回廊を回って居間へと急いだ。
「おかえり、ヘンリー。ロニー、久しぶり」
飛鳥はロレンツォ、次いでサウードと軽くハグを交わす。
「殿下、吉野がいつもお世話になりありがとうございます」
サウードへの挨拶の仕方は以前、吉野に教えてもらった。これでよかったか、と確かめるように飛鳥はチラリと弟を見やる。殿下の後ろに控える従者に無礼を咎められているような気がしたのだ。特に何も言わない吉野に取りあえず安堵し、残る黒髪の子と向きあった。すっと右手が差しだされる。
ああ、思いだした。たしか、ロレンツォの甥っ子だ、名前は――。
どこか黒猫を思わせる妖艶さのあった少年は、わずか3年ばかりの間に、記憶よりもずっと大人びてしなやかな青年に成長している。
「彼は、今日はいらっしゃらないのですか?」
握手もそこそこに、眼前の青年は、飛鳥には何の興味もないがと言わんばかりに視線を階上に漂わせている。この傍若無人な雰囲気は年を経たところで変わらないらしい。冷たくて傲慢な瞳だ。この濃紺の夜のように深い瞳を、初めて逢ったときもそう思ったような気がする。
「アレン? 彼はもう休んでるんだ。まだ本調子じゃないからね」
濃紺の瞳が心配そうに憂い、微かに表情が軋んだ。
そうだった、彼は――。
飛鳥は忘れかけていた記憶をあさりながら、続く言葉を探した。たしか、ロレンツォがヘンリーの守護者であるように、彼はアレンに仕えているのだ。ビジネス上、いや、それ以上の崇拝的な情熱でもって。
「なんだ、あいつまだそんな状態なの? 浮上できてるかと思ってたのにな。まだ寝るような時間じゃないだろ? 起こしてくるよ」
「な! そんな失礼なことを、」
「早く逢いたいんだろ、フィリップ。さっきまでぶつくさ言ってたくせに今さら気取るなよ」
吉野は動転して口をパクパクさせているフィリップにはおかまいなしで、悠々と階段を上がっていく。飛鳥は弟を止めるべきか、と足を踏みだしたところで、ヘンリーにさりげなく引き止められた。
「こちらの都合もある。よほどの支障がないのならあの子と話をさせたい」
静かで優しげな口調だが、どこか有無を言わせない響きがあった。夕食もとっくに終えたこの時間帯にこうして集まっているのは、ただ邂逅を喜ぶためではないのだ。ようやく飛鳥もこの場を覆う緊張感に気づき、ぐっと口許を引きしめ直したのだった。
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