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九章
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突き抜けるような蒼穹の下、宮殿の中庭に植えられたナツメヤシの刻む黒々とした影の中に、吉野は溶けこむようにもたれていた。ときおり眩しそうに目を眇めながら、中央の噴水から溢れでる水の流れに視線を向けている。
夏は、こうして昼日中に戸外でくつろぐなどと考えられないこの国も、冬の間は気温も湿度も下がり、すごしやすい気候となるのだ。
「この国は、この時期が一番気持ちいいな」
傍らで胡坐を組んでいるイスハークを見るでもなく、吉野は呟いた。
「誰もが動きやすい時期だ」
「動くかな――」
アッシャムス破綻からすでに2ヶ月、米国でアブドルアジーズと交渉してから1ヶ月半。思惑通りに、ガン・エデン社の株はゆっくりと右肩下がりだ。アブドルアジーズが持ち株を放出しきった後は、さらにきつい傾斜を描くことになるだろう。その上、もうじき判決のでる裁判の特許侵害賠償金の支払いに、製造販売の差し止めが暴落に拍車をかける。大株主のフェイラーはどの程度、持ち株を手放す気になるか。義理も縁故も歯止めにはならない。所詮ただの投資にすぎないのだ。先行きの見えた企業の株を持ち続けることに意味はない。
当初、ロバート・カールトンとキャル・フェイラーの縁談に躍起になっていたのは、素行の悪い娘を片づけたがっていたフェイラー家の方だった。ロバートは、全米一の時価総額を持つガン・エデン社の大株主の一人でもある。カールトンが欧州貴族に起源を持つ由緒あるフェイラー家と縁故を結ぶメリット以上のもっと多くの思惑が、数ある縁談の内でもロバートを筆頭に進めるだけの理由が、フェイラー家にはあったはず。
だが、このわずかな期間で状況はこうも動いている。ビジネスにおいて、ヘンリーたちの祖父ベンジャミン・フェイラーは馬鹿ではない。吉野にしてみても、決して彼を見くびっているわけではなかった。今現在、この宮殿内で抱えている問題にしろ。
「血を見るのは嫌だな。俺、気が小せぇんだぜ」
すでに諦めているかのように唇をいびつに歪めて嗤う吉野に、イスハークは無表情のまま応えた。
「なら、懐柔策を講じろ」
「だよなぁ」
吉野は面倒くさそうに息を吐く。
そう、今切羽詰まっている問題は王宮内の人事なのだ。イスハークの一族に任せていた警備体制に綻びが生じていた。秘密裡に調査を進めた結果は、やはり、今は米国にいるアブド元大臣に繋がっていた。そして、その彼の亡命を密かに援助しているのが、フェイラー財閥ときた。長年、この国の経済に深く拘わってきたのはフェイラーの方だ。彼の築き上げたルートに手を入れ、その領域を荒らしたのは吉野たちの方だといえる。
そんな過去を踏まえて、慣習的に汚職と賄賂に染まりきっている内部意識を一掃するのは容易ではない。もっとも信頼できるはずのイスハークの血族間ですらこうなのだから。
「動かないなら、動かしてみるか――。悠長に待ってられる気分じゃないんだ」
投げ遣りな吉野の口調に、イスハークはただ鋭い視線を向けた。
「アッシャムスの民間への譲渡を発表するよ。これで、動くだろ?」
元国営企業の民間への、それも欧州ルベリーニ配下の外資系企業への譲渡だ。アブドや米国系企業が黙っているはずがない。必ず阻止に動くはずだ。再生アッシャムスの内容いかんにかかわらず、やみくもに外資系と結びつくことを良しとしないイスラム過激派もまたぞろ動きだすかもしれない。
どれほど理屈を説いてみても通じない相手というのはいるものなのだ。そんな彼らをいかに平和的に排除していくか。アブドの轍を踏む訳にはいかないのだ。
イスハークは黙したままじっと吉野を眺めていた。だが、かなり間をあけておもむろに口を開いた。
「殿下はお守りできるのか?」
「うん。考えるよ。まぁ、狙われるのはきっと俺だよ。これでも責任者だからさ。それに、じいさんが一番片づけたがってるの、俺だもん」
そんなことを無邪気に笑って言ってのける吉野を、イスハークはやはりじっと見つめるだけだ。
「今の状況で、どうやってお守りするんだ?」
敵との内通者はほぼ確定できているものの、アブドの手の内のものがどこまで浸透しているのか。まだ、そこまでは追えていない。それを炙りだすための算段を立てているのだ。断罪する者はできるだけ少なくてすむように。浅はかな彼らをできるだけ震えあがらせ、裏切りの罪をその身で贖うことのないように、水際で思いとどまらせたいのだ。
「とりあえず、英国に戻るかな~。俺、大学に行きたいしさ」
のんびりとしたその返答に、イスハークの眉根がピクリと動いた。
「今から準備して、ひと月かな。三分の一は入れ替えがあると覚悟しとけよ。その穴を埋める候補生に当たっておいてくれ。若い奴がいい。サウードに心酔してるな。こうやって、地道に世代交代させていくしかないよ。この国自体が若いんだしさ」
この国で、民主主義だの、平等だのは、夢のまた夢だ。必要なのは、強い指導者。あのアブドのような。あれだけの非情さを見せつけながら、否、だからこそあの男はこの国でいまだに崇拝されている。王の器として。それを覆すほどのカリスマ性が、サウードには必要なのだ。
「俺が作り上げてやる――」
独り言のように呟かれたその一言に、イスハークはこの日初めて口の端を上げて、微笑んでいた。
夏は、こうして昼日中に戸外でくつろぐなどと考えられないこの国も、冬の間は気温も湿度も下がり、すごしやすい気候となるのだ。
「この国は、この時期が一番気持ちいいな」
傍らで胡坐を組んでいるイスハークを見るでもなく、吉野は呟いた。
「誰もが動きやすい時期だ」
「動くかな――」
アッシャムス破綻からすでに2ヶ月、米国でアブドルアジーズと交渉してから1ヶ月半。思惑通りに、ガン・エデン社の株はゆっくりと右肩下がりだ。アブドルアジーズが持ち株を放出しきった後は、さらにきつい傾斜を描くことになるだろう。その上、もうじき判決のでる裁判の特許侵害賠償金の支払いに、製造販売の差し止めが暴落に拍車をかける。大株主のフェイラーはどの程度、持ち株を手放す気になるか。義理も縁故も歯止めにはならない。所詮ただの投資にすぎないのだ。先行きの見えた企業の株を持ち続けることに意味はない。
当初、ロバート・カールトンとキャル・フェイラーの縁談に躍起になっていたのは、素行の悪い娘を片づけたがっていたフェイラー家の方だった。ロバートは、全米一の時価総額を持つガン・エデン社の大株主の一人でもある。カールトンが欧州貴族に起源を持つ由緒あるフェイラー家と縁故を結ぶメリット以上のもっと多くの思惑が、数ある縁談の内でもロバートを筆頭に進めるだけの理由が、フェイラー家にはあったはず。
だが、このわずかな期間で状況はこうも動いている。ビジネスにおいて、ヘンリーたちの祖父ベンジャミン・フェイラーは馬鹿ではない。吉野にしてみても、決して彼を見くびっているわけではなかった。今現在、この宮殿内で抱えている問題にしろ。
「血を見るのは嫌だな。俺、気が小せぇんだぜ」
すでに諦めているかのように唇をいびつに歪めて嗤う吉野に、イスハークは無表情のまま応えた。
「なら、懐柔策を講じろ」
「だよなぁ」
吉野は面倒くさそうに息を吐く。
そう、今切羽詰まっている問題は王宮内の人事なのだ。イスハークの一族に任せていた警備体制に綻びが生じていた。秘密裡に調査を進めた結果は、やはり、今は米国にいるアブド元大臣に繋がっていた。そして、その彼の亡命を密かに援助しているのが、フェイラー財閥ときた。長年、この国の経済に深く拘わってきたのはフェイラーの方だ。彼の築き上げたルートに手を入れ、その領域を荒らしたのは吉野たちの方だといえる。
そんな過去を踏まえて、慣習的に汚職と賄賂に染まりきっている内部意識を一掃するのは容易ではない。もっとも信頼できるはずのイスハークの血族間ですらこうなのだから。
「動かないなら、動かしてみるか――。悠長に待ってられる気分じゃないんだ」
投げ遣りな吉野の口調に、イスハークはただ鋭い視線を向けた。
「アッシャムスの民間への譲渡を発表するよ。これで、動くだろ?」
元国営企業の民間への、それも欧州ルベリーニ配下の外資系企業への譲渡だ。アブドや米国系企業が黙っているはずがない。必ず阻止に動くはずだ。再生アッシャムスの内容いかんにかかわらず、やみくもに外資系と結びつくことを良しとしないイスラム過激派もまたぞろ動きだすかもしれない。
どれほど理屈を説いてみても通じない相手というのはいるものなのだ。そんな彼らをいかに平和的に排除していくか。アブドの轍を踏む訳にはいかないのだ。
イスハークは黙したままじっと吉野を眺めていた。だが、かなり間をあけておもむろに口を開いた。
「殿下はお守りできるのか?」
「うん。考えるよ。まぁ、狙われるのはきっと俺だよ。これでも責任者だからさ。それに、じいさんが一番片づけたがってるの、俺だもん」
そんなことを無邪気に笑って言ってのける吉野を、イスハークはやはりじっと見つめるだけだ。
「今の状況で、どうやってお守りするんだ?」
敵との内通者はほぼ確定できているものの、アブドの手の内のものがどこまで浸透しているのか。まだ、そこまでは追えていない。それを炙りだすための算段を立てているのだ。断罪する者はできるだけ少なくてすむように。浅はかな彼らをできるだけ震えあがらせ、裏切りの罪をその身で贖うことのないように、水際で思いとどまらせたいのだ。
「とりあえず、英国に戻るかな~。俺、大学に行きたいしさ」
のんびりとしたその返答に、イスハークの眉根がピクリと動いた。
「今から準備して、ひと月かな。三分の一は入れ替えがあると覚悟しとけよ。その穴を埋める候補生に当たっておいてくれ。若い奴がいい。サウードに心酔してるな。こうやって、地道に世代交代させていくしかないよ。この国自体が若いんだしさ」
この国で、民主主義だの、平等だのは、夢のまた夢だ。必要なのは、強い指導者。あのアブドのような。あれだけの非情さを見せつけながら、否、だからこそあの男はこの国でいまだに崇拝されている。王の器として。それを覆すほどのカリスマ性が、サウードには必要なのだ。
「俺が作り上げてやる――」
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