胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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週末にロンドンでベンジャミン・ハロルドに逢うことになったアレンは、久々に留守することになる穴埋めに、その前日に飛鳥を訪問することにした。規則正しく行われていた習慣が途切れることがアレンは苦手だ。いつもと変わらぬ飛鳥の姿を見ないと落ち着かず、安心できない。気遣いというよりも、そんな理不尽な習性につき動かされてのことだった。


 アレンは講義を終えると、速攻で飛鳥のもとへと向かった。途中、馴染の店で買った手土産を出迎えたマーカスに渡し、いつも通りにコンサバトリーを軽くノックして開ける。とたんに響いた笑い声に、きゅっと胃が引きしまる。


「おかえり、アレン」

 思いがけない声に、脚が震えた。

「おかえりなさい」

 飛鳥の横で笑みを湛える兄が二人――。同じような装いでも、その内の一人は映像だ、と解ってはいるものの……。

「えっと、きみはまだ彼に逢ったことなかったっけ?」

 どうしたものかと、戸口に立ち尽くしたままアレンを見あげ、飛鳥は辺りに散らばる図面をまとめて彼の座れる場所をつくっている。

「いや、新年ニュー・イヤーを迎える直前に逢っているよ。久しぶり。僕の弟くん」

 兄そっくりの少し揶揄うような声音とともに差しだされた手を、アレンは戸惑いを含んだ引きつった笑みで握り返す。と、ピリッ、と静電気のような電流が走る。驚いて目を瞠り反射的に彷徨った彼の視界に、苦笑を浮かべる飛鳥が映る。


「ごめん! 触れたときの電流刺激だね。問題だよね。驚くよね」
「体温設定できればいいのだけどね」

 本物のヘンリーが深くため息をついている。

「握手のたびにこの反応だよ。僕はひどい悪戯っ子になった気分さ」

 映像は憂い顔で眉根を寄せる。

「優等生のきみには、そのくらいの愛嬌があるほうがいいんじゃないのかい?」
「レディにいちいち悲鳴をあげられる身にもなってくれ」
「僕は気にしないよ」

 こんな掛け合いを聴いていると、どちらが本物なのか分からなくなる――。

 ぽかんと突っ立ったままのアレンのジャケットを、飛鳥がクスクス笑いながら、くいくいと引っ張った。

「座りなよ。ほら、お茶にしよう」

 言われてアレンはようやく辺りに目を配り、マーカスがいつの間にかお茶を淹れてくれていたことに気がついた。



「こまめに顔を出してくれているんだって? ありがとう、助かるよ。誰かいないと、すぐにここの二人は、食事や睡眠をおろそかにしてしまうからね」

 唐突に兄に褒められ、アレンはぽっと頬を染める。「いえ、僕の方がアスカさんにかまっていただいていて――」ごにょごにょと、不明瞭に口籠る。

「彼はきみに恋しているみたいだな」

 真顔で兄の口からそんなことを言われ、総毛だつ。いや、兄ではなくて、これは人工知能の映像――。バクバクと走りだす心臓の音に、アレンは卒倒しそうだ。当の本人はというと、にっと笑みを湛えたまま、「きみ、恋を語れるほど成長したのかい?」などと、自分の顔をした映像を逆に揶揄っている。

 飛鳥はケラケラ笑いながら、アレンの背中をとんっと叩いた。

「おかしいだろ、この二人! この彼も米国から帰ってきて、ぐんと賢くなっただろ? やっぱりかわいい子には旅をさせろ、なのかなぁ!」
「かわいい? それ、僕のことを言ってるの?」

 眉をしかめる彼を飛鳥はまた笑い飛ばした。

「うん、きみのこと。ずっとかわいくなったよ!」

 実物の方は、苦笑いしながらそんな二人を眺めている。アレンは、その実際の兄を盗み見るようにそっと見つめ、やはりドキドキと心臓を高鳴らせていた。


 お礼を言わなければ――。見本市で僕を紹介してくれたこと。それから――。兄は知っているのだろうか、キャルのこと。兄に話しておいた方がいいのだろうか。それとも……。

 吉野の思惑が解らない。キャルのためを思って、兄に知られる前に解決して欲しいということなのか、それとも、単純にフェイラー家のスキャンダルになりかねないことだからか。

 でも、この賢い兄が、知らないなどということがあるだろうか。今まで米国にいたとはいえ――。

 兄であれば、どうするだろう? 兄がキャルに一言「帰れ」と告げれば、それで事足りるに違いない。吉野にだって解っているはずだ。それをわざわざ自分に頼んだのは、彼女やブラッドリーとの問題を自分自身でけじめをつけろ、ということだ。僕を試しているのかも――。


 いつの間にか神妙な表情で、どこというわけでもなく前方を睨みつけていたアレンを、心配そうな声音で飛鳥が呼んだ。

「どうかした? 食べなよ。きみが持ってきてくれたキッシュ、すごく美味しいよ」
「アスカはすぐに甘いものだけですまそうとするから、ってヨシノの入れ知恵だね」
「お前はいつも甘いものだけで済まそうとするから――。ヨシノは、僕にいつもそう言っていて。よく怒られていましたから……」

 なかば上の空でアレンは応えていた。話しかけたのが本物の兄なのか、映像なのか、気にも留めなかった。

「そう。だからあの子は、きみに特別かまってやっていたのかな。きみに重ねてたんだね、アスカを」


 すっと目線をあげた先にいる兄は、どこか冷たい笑みを湛えていた。映像ではない、はっきりと兄だと解る、彼らしさでもって――。





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