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九章
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カレッジの中庭で吉野と別れると、アレンはひとり取り残されたような心持ちになり寄る辺なく佇んでいた。傍らにはフレデリックがいることも忘れて。いつもにも増して深いため息をついたその肩を、慣れ親しんだ手のひらがポンと叩き、こちら側へと引き戻す。
「ごめん、考え事してた」
やるせないアレンの笑みに、フレデリックもどう返していいものか迷いながら、「僕も同じかな。彼の背中を見送るのはいつだってつらいよ。次はいつ逢えるんだろう、って思うよね」
「うん。いや、そうじゃなくてね。そうだ、相談にのってくれる、フレッド」
このままいつものように鬱状態に入っていくのかと思いきや、アレンは意外にも嬉しそうな、だが困惑しているようにも見える複雑な表情を湛えてフレデリックの袖をひいた。
「いいよ。僕もまだ時間が早いんだ。カフェにでも入ろうか」
講義の時間にはかなり間がある。承知の上で吉野に合わせてフラットを出たアレンに、フレデリックもまた合わせていたのだ。吉野はハワード教授にお逢いした後すぐにロンドンへ戻り、またしばらくはいつ逢えるとも覚束なくなるに違いない。この先の見えない未来がアレンをどれほど不安にさせているか、彼は解っていないのだろうか――。せめて自分は、そんなアレンの理解者でありたいと、過剰な庇護欲がフレデリックをかき立てていた。
二人は連れ立ってカレッジからほど近い裏通りにある小さなカフェに入った。ドアと同じくセージグリーンで塗装された窓枠が、額縁のように店内からの風景を切り取ってみせる。アレンの好きそうな内装だな、と引っ張られるままに初めてこの店を訪れたフレデリックは、さりげなく店内を見回している。
ほぼ白一色で統一された壁や販売棚、透明プラスチックのテーブルセットは、アレンの部屋にいるのとそう変わらない錯覚さえ覚える。棚に並ぶオーガニック商品の品揃えもまた、彼好みだ。出不精で引きこもりがちな彼が、自分に馴染みやすい世界からであっても、こうして知らない間に少しづつテリトリーを広げている。些細なことかもしれないが、フレデリックにはそれが無性に嬉しかった。
「フレッド、何にする? ここはね、ケーキが美味しいよ」
「あ、パニーニもあるんだ? それにする。お腹空いてるんだ」
しばらくして運ばれてきたハムとチーズのパニーニにはサラダもついている。だがフレデリックはそれよりも、アレンの前に置かれた大きな緑色のケーキに目を奪われた。
「抹茶のケーキ?」
「ズッキーニなんだ。珍しいでしょ」
味の想像がつかない――。と絶句しているフレデリックの眼前で、アレンは頬をほころばせている。フレデリックも口許を緩ませて、ここに至るまで道々続いていた話題を再開させた。
「きみは社交家だから、姉の噂を何か聴いているかな、って」
時おりケーキをつまみながら、アレンは慎重に声を低めた。フレデリックはなんともいえない様子で苦笑を湛える。
「申し訳ない。こうして他所から聴く前に、僕からきみに話せば良かったね」
没落したとはいえ、フレデリックも貴族の出自だ。それに作家としてデヴューしてからのさまざまな集まりで、多種多様な人たちと出逢う機会も増えている。それでなくともエリオット出身の彼には、ヘンリーを筆頭とするソールスベリー家に関する噂は逐一耳に入ってくる。もちろんそこには彼の妹であるキャルこと、キャロライン・フェイラーの話題も含まれていた。そして、今はそれ以上の時の人といっていい、次期首相の呼び声高いブラッドリー大臣の嫡男セドリックのことも。だからこそよけいに、エリオット出身の友人たちは、アレンの前ではこの話題を避けていたのもあったのだ――。
「でも、決してきみが考えているような、怪しい仲として噂されているわけではないんだよ。ブラッドリー先輩もそこまで愚かじゃないよ。自分の立場も弁えておられる。あくまで仲間内でのつき合いで、」
「当たり前だよ! 変なことになるわけないだろ、あの二人の間で!」
自分を遮って眉をしかめたアレンを宥めるように、フレデリックは優しく微笑み返す。
「つまり、きみやヨシノが心配しているのは、あの話?」
彼らの母親と大臣の過去の恋愛沙汰、そしてその結末――。
今、もっとも注目されている大臣と、英国をリードする最先端企業CEOとして躍進するヘンリーの歩みに水を差しかねないスキャンダルだ。
口許を引きしめたアレンに、フレデリックは深く頷いてみせた。
「きみのお姉さん、これまでのことを鑑みると、きみの言うことを素直に聴くような人じゃないよね」
くっと吹き出したアレンに、「失礼」と慌てて言い添える。
「いいよ、その通りだもの」
「ブラッドリー先輩に話をした方が早いと思う」
さっと顔色の変わったアレンを、フレデリックは表情を変えることなく見据えて言葉を継いだ。
「僕が話をつけてくるよ。きみは心配しないで」
これまで吉野がしてきたことだ。そして今は、僕に託されている。
口で言うのはたやすい。だが言ってしまってから、彼はその重みに圧し潰されそうな圧迫感を自覚していた。無理に唇の端をあげ、笑みを形づくる。
「とはいっても、ブラッドリー先輩とはそもそも面識がないからなぁ。先輩方のどなたかに取り持っていただかないと。フレミング寮長だね、先輩と同期に当たるのは――」
懐かしい名前に緊張を解き、アレンは勢いこんで身を乗りだした。
「ハロルド寮長とアボット寮長が、ブラッドリー先輩とは特別親しかったって。小学校の幼なじみなんだってヨシノが教えてくれた」
「ハロルド先輩か。アボット先輩にはつい先日お逢いしたばかりだし、頼みやすいかな」
フレデリックも懐かしげに目を細めて、アレンに力強く頷き返した。
そういえばアボット先輩は、ブラッドリー先輩と一緒に、サウードの催したパーティーに来られたのではなかったか――。
何のために? なぜ彼らはあの場にいたのか?
あの時は疑問にも思わなかった根本的な問いが、フレデリックの胸の内に重く垂れこめていた。
「ごめん、考え事してた」
やるせないアレンの笑みに、フレデリックもどう返していいものか迷いながら、「僕も同じかな。彼の背中を見送るのはいつだってつらいよ。次はいつ逢えるんだろう、って思うよね」
「うん。いや、そうじゃなくてね。そうだ、相談にのってくれる、フレッド」
このままいつものように鬱状態に入っていくのかと思いきや、アレンは意外にも嬉しそうな、だが困惑しているようにも見える複雑な表情を湛えてフレデリックの袖をひいた。
「いいよ。僕もまだ時間が早いんだ。カフェにでも入ろうか」
講義の時間にはかなり間がある。承知の上で吉野に合わせてフラットを出たアレンに、フレデリックもまた合わせていたのだ。吉野はハワード教授にお逢いした後すぐにロンドンへ戻り、またしばらくはいつ逢えるとも覚束なくなるに違いない。この先の見えない未来がアレンをどれほど不安にさせているか、彼は解っていないのだろうか――。せめて自分は、そんなアレンの理解者でありたいと、過剰な庇護欲がフレデリックをかき立てていた。
二人は連れ立ってカレッジからほど近い裏通りにある小さなカフェに入った。ドアと同じくセージグリーンで塗装された窓枠が、額縁のように店内からの風景を切り取ってみせる。アレンの好きそうな内装だな、と引っ張られるままに初めてこの店を訪れたフレデリックは、さりげなく店内を見回している。
ほぼ白一色で統一された壁や販売棚、透明プラスチックのテーブルセットは、アレンの部屋にいるのとそう変わらない錯覚さえ覚える。棚に並ぶオーガニック商品の品揃えもまた、彼好みだ。出不精で引きこもりがちな彼が、自分に馴染みやすい世界からであっても、こうして知らない間に少しづつテリトリーを広げている。些細なことかもしれないが、フレデリックにはそれが無性に嬉しかった。
「フレッド、何にする? ここはね、ケーキが美味しいよ」
「あ、パニーニもあるんだ? それにする。お腹空いてるんだ」
しばらくして運ばれてきたハムとチーズのパニーニにはサラダもついている。だがフレデリックはそれよりも、アレンの前に置かれた大きな緑色のケーキに目を奪われた。
「抹茶のケーキ?」
「ズッキーニなんだ。珍しいでしょ」
味の想像がつかない――。と絶句しているフレデリックの眼前で、アレンは頬をほころばせている。フレデリックも口許を緩ませて、ここに至るまで道々続いていた話題を再開させた。
「きみは社交家だから、姉の噂を何か聴いているかな、って」
時おりケーキをつまみながら、アレンは慎重に声を低めた。フレデリックはなんともいえない様子で苦笑を湛える。
「申し訳ない。こうして他所から聴く前に、僕からきみに話せば良かったね」
没落したとはいえ、フレデリックも貴族の出自だ。それに作家としてデヴューしてからのさまざまな集まりで、多種多様な人たちと出逢う機会も増えている。それでなくともエリオット出身の彼には、ヘンリーを筆頭とするソールスベリー家に関する噂は逐一耳に入ってくる。もちろんそこには彼の妹であるキャルこと、キャロライン・フェイラーの話題も含まれていた。そして、今はそれ以上の時の人といっていい、次期首相の呼び声高いブラッドリー大臣の嫡男セドリックのことも。だからこそよけいに、エリオット出身の友人たちは、アレンの前ではこの話題を避けていたのもあったのだ――。
「でも、決してきみが考えているような、怪しい仲として噂されているわけではないんだよ。ブラッドリー先輩もそこまで愚かじゃないよ。自分の立場も弁えておられる。あくまで仲間内でのつき合いで、」
「当たり前だよ! 変なことになるわけないだろ、あの二人の間で!」
自分を遮って眉をしかめたアレンを宥めるように、フレデリックは優しく微笑み返す。
「つまり、きみやヨシノが心配しているのは、あの話?」
彼らの母親と大臣の過去の恋愛沙汰、そしてその結末――。
今、もっとも注目されている大臣と、英国をリードする最先端企業CEOとして躍進するヘンリーの歩みに水を差しかねないスキャンダルだ。
口許を引きしめたアレンに、フレデリックは深く頷いてみせた。
「きみのお姉さん、これまでのことを鑑みると、きみの言うことを素直に聴くような人じゃないよね」
くっと吹き出したアレンに、「失礼」と慌てて言い添える。
「いいよ、その通りだもの」
「ブラッドリー先輩に話をした方が早いと思う」
さっと顔色の変わったアレンを、フレデリックは表情を変えることなく見据えて言葉を継いだ。
「僕が話をつけてくるよ。きみは心配しないで」
これまで吉野がしてきたことだ。そして今は、僕に託されている。
口で言うのはたやすい。だが言ってしまってから、彼はその重みに圧し潰されそうな圧迫感を自覚していた。無理に唇の端をあげ、笑みを形づくる。
「とはいっても、ブラッドリー先輩とはそもそも面識がないからなぁ。先輩方のどなたかに取り持っていただかないと。フレミング寮長だね、先輩と同期に当たるのは――」
懐かしい名前に緊張を解き、アレンは勢いこんで身を乗りだした。
「ハロルド寮長とアボット寮長が、ブラッドリー先輩とは特別親しかったって。小学校の幼なじみなんだってヨシノが教えてくれた」
「ハロルド先輩か。アボット先輩にはつい先日お逢いしたばかりだし、頼みやすいかな」
フレデリックも懐かしげに目を細めて、アレンに力強く頷き返した。
そういえばアボット先輩は、ブラッドリー先輩と一緒に、サウードの催したパーティーに来られたのではなかったか――。
何のために? なぜ彼らはあの場にいたのか?
あの時は疑問にも思わなかった根本的な問いが、フレデリックの胸の内に重く垂れこめていた。
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