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九章
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「ヨシノは、殿下共々ロンドンに戻ったそうだよ」
今朝マクレガーから聞いたばかりの伝言をふと思いだして、ヘンリーは傍らのアーネストに告げた。連日の商談やミーティングでさすがの彼も辟易としており、その整った顔は若干疲労の色が浮かんでいる。
「みたいだね。あの子から電話をもらったよ」
アーネストは、眼前に浮かぶTS画面に視線を据えたまま相槌を打つ。
「そろそろ判決も下りるのだったね?」
「ああ、そのことじゃなくて。うちの発表がカールトンに漏れていたルートのことだよ。スパイは殿下経由だったって」
「殿下? サウード殿下が?」
「の側近。アレンたちの会話をさ、小耳にでも挟んでいたんじゃないかって」
サウード殿下の、というよりも、精鋭揃いの殿下の身辺警護者ですら、いまだアブド元大臣の息のかかった者がいるということだ。
ヘンリーは息をつき、車窓に視線を向ける。ラスベガスの乾いた空気は彼の国を思わせる。事なきを得たというアブドルアジーズと吉野の交渉にせよ、パーティー会場で小耳に挟んだジェームズ・テイラーの突然の訪問にせよ、吉野の周りは気がかりが絶えない。飛鳥にしてもさぞ気を揉んでいることだろう、とヘンリーの杞憂の種も尽きることがない。早くつまらない商談など終わらせて英国に帰りたい。そんな想いばかりに心を持っていかれている。
だが傍らのアーネストは彼とは異なるようで、今日も淡々と雑務をこなしている。ヘンリーは申し訳なさに若干の揶揄も混ぜてそんな彼に笑みを向けた。
「きみはいつも平常心だな」
「おたおたしても仕方がないからね」ヘンリーに一瞥くれるとアーネストは眼鏡をはずし目頭を揉んだ。
「僕はあの子自らジュニアにでも吹きこんだのかと疑っていたからねぇ。殿下の近衛の再編成を兼ねての帰国だそうだよ」
「帰国? ロンドンに戻るのではないの?」
「いったんロンドン、それからすぐに砂漠行きだってさ。アッシャムスの後始末もあるんだろうね。きみはロレンツォからは何も聞いていないの?」
「ああ、確かに」
そんな話はしていた。吉野の名は出ていなかっただけで。迂闊だった。破綻させたアッシャムスの後継はルベリーニ一族に任せて、このまま手を引くのだとばかり思っていたのだ。破綻の発表からまだひと月も経っていないとはいえ、公表された時点ではすでにその後の道成は仕上がっていたのだから。
不満げにセレストブルーを曇らせるヘンリーに、アーネストは宥めるように言葉を継いだ。
「ジム・テイラーが来たそうじゃないか。プラントに投資させるんじゃないの? あの子のことだからさ」
「彼に逢ったの?」
「あの子に逢いにきていた、って話だよ。本人からの情報ではないけどねぇ」
「米国を介入させるかな――」
「英国に偏りすぎないようにバランスを取るんじゃないかな、金でさ」
英国からは労働人口を、ジム率いる米国の投資家からは巨額投資を――。
いかにも吉野の考えそうなことだ、とヘンリーはため息をついた。ここにきてジム・テイラーの名が出でてくるなどと、飛鳥が知ったら気が気ではないだろうに。吉野を彼に奪われることをあれほどに恐れているのに。兄の想いを解っているようで、何も解っていないのだ、あの未熟な子は――。
そんなヘンリーの想いを察するかのように、アーネストは目を細めてどこか投げやりな微笑を湛えた。彼にとって杜月兄弟のことは、いつからか考えても仕方ない、自身の思惑の枠内では動かせない存在となっている。裏切らないのであればそれでいい。どのような道筋を通ろうと、目指す場所さえ違わなければそれでいいのだ。整わない道を整え、決して美しいとはいえないその道を、後から見る者には魅力的に見えるように舗装するのが自分の役割だと彼は心得ている。そうでなければ、心臓がいくつあってもたりはしない。このヘンリーにしても吉野にしても、その背中を追っていくのは――。
「突き抜けるような青空ってものも、かえって何もないようで、淋しいねぇ。ロンドンの灰色の重さが恋しいよ」
どこに続いているのか判らないこの空の透明な行き先に、そんな覚束なさを感じて――。
アーネストは至極真面目な顔をして傍らの友人を振り返った。
「ビジネスランチが済んだらカジノにでも行こうか? 憂さ晴らしにさ。あーあ、あの子がいれば良かった!」
「入れないよ。21歳からだ」
「知ってるって! ご教授願えればってことだよ」
「通信で尋ねればいい」
「それも何だかだねぇ……」
おどけて唇を突きだし、肩をすくめてみせるアーネストに、ヘンリーはクスクスと笑みを零した。これから会う相手との、砂を噛むような時間を思えば、彼の気持ちも解らないではなかったのだ。
まったく、吉野はカールトン・Jr.などという、とんだお荷物を押しつけていってくれたのだから――。
今朝マクレガーから聞いたばかりの伝言をふと思いだして、ヘンリーは傍らのアーネストに告げた。連日の商談やミーティングでさすがの彼も辟易としており、その整った顔は若干疲労の色が浮かんでいる。
「みたいだね。あの子から電話をもらったよ」
アーネストは、眼前に浮かぶTS画面に視線を据えたまま相槌を打つ。
「そろそろ判決も下りるのだったね?」
「ああ、そのことじゃなくて。うちの発表がカールトンに漏れていたルートのことだよ。スパイは殿下経由だったって」
「殿下? サウード殿下が?」
「の側近。アレンたちの会話をさ、小耳にでも挟んでいたんじゃないかって」
サウード殿下の、というよりも、精鋭揃いの殿下の身辺警護者ですら、いまだアブド元大臣の息のかかった者がいるということだ。
ヘンリーは息をつき、車窓に視線を向ける。ラスベガスの乾いた空気は彼の国を思わせる。事なきを得たというアブドルアジーズと吉野の交渉にせよ、パーティー会場で小耳に挟んだジェームズ・テイラーの突然の訪問にせよ、吉野の周りは気がかりが絶えない。飛鳥にしてもさぞ気を揉んでいることだろう、とヘンリーの杞憂の種も尽きることがない。早くつまらない商談など終わらせて英国に帰りたい。そんな想いばかりに心を持っていかれている。
だが傍らのアーネストは彼とは異なるようで、今日も淡々と雑務をこなしている。ヘンリーは申し訳なさに若干の揶揄も混ぜてそんな彼に笑みを向けた。
「きみはいつも平常心だな」
「おたおたしても仕方がないからね」ヘンリーに一瞥くれるとアーネストは眼鏡をはずし目頭を揉んだ。
「僕はあの子自らジュニアにでも吹きこんだのかと疑っていたからねぇ。殿下の近衛の再編成を兼ねての帰国だそうだよ」
「帰国? ロンドンに戻るのではないの?」
「いったんロンドン、それからすぐに砂漠行きだってさ。アッシャムスの後始末もあるんだろうね。きみはロレンツォからは何も聞いていないの?」
「ああ、確かに」
そんな話はしていた。吉野の名は出ていなかっただけで。迂闊だった。破綻させたアッシャムスの後継はルベリーニ一族に任せて、このまま手を引くのだとばかり思っていたのだ。破綻の発表からまだひと月も経っていないとはいえ、公表された時点ではすでにその後の道成は仕上がっていたのだから。
不満げにセレストブルーを曇らせるヘンリーに、アーネストは宥めるように言葉を継いだ。
「ジム・テイラーが来たそうじゃないか。プラントに投資させるんじゃないの? あの子のことだからさ」
「彼に逢ったの?」
「あの子に逢いにきていた、って話だよ。本人からの情報ではないけどねぇ」
「米国を介入させるかな――」
「英国に偏りすぎないようにバランスを取るんじゃないかな、金でさ」
英国からは労働人口を、ジム率いる米国の投資家からは巨額投資を――。
いかにも吉野の考えそうなことだ、とヘンリーはため息をついた。ここにきてジム・テイラーの名が出でてくるなどと、飛鳥が知ったら気が気ではないだろうに。吉野を彼に奪われることをあれほどに恐れているのに。兄の想いを解っているようで、何も解っていないのだ、あの未熟な子は――。
そんなヘンリーの想いを察するかのように、アーネストは目を細めてどこか投げやりな微笑を湛えた。彼にとって杜月兄弟のことは、いつからか考えても仕方ない、自身の思惑の枠内では動かせない存在となっている。裏切らないのであればそれでいい。どのような道筋を通ろうと、目指す場所さえ違わなければそれでいいのだ。整わない道を整え、決して美しいとはいえないその道を、後から見る者には魅力的に見えるように舗装するのが自分の役割だと彼は心得ている。そうでなければ、心臓がいくつあってもたりはしない。このヘンリーにしても吉野にしても、その背中を追っていくのは――。
「突き抜けるような青空ってものも、かえって何もないようで、淋しいねぇ。ロンドンの灰色の重さが恋しいよ」
どこに続いているのか判らないこの空の透明な行き先に、そんな覚束なさを感じて――。
アーネストは至極真面目な顔をして傍らの友人を振り返った。
「ビジネスランチが済んだらカジノにでも行こうか? 憂さ晴らしにさ。あーあ、あの子がいれば良かった!」
「入れないよ。21歳からだ」
「知ってるって! ご教授願えればってことだよ」
「通信で尋ねればいい」
「それも何だかだねぇ……」
おどけて唇を突きだし、肩をすくめてみせるアーネストに、ヘンリーはクスクスと笑みを零した。これから会う相手との、砂を噛むような時間を思えば、彼の気持ちも解らないではなかったのだ。
まったく、吉野はカールトン・Jr.などという、とんだお荷物を押しつけていってくれたのだから――。
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