659 / 753
九章
7
しおりを挟む
「きみは、今も高みから地上を見下ろしているんだね」
淡々としたサウードの声に、吉野は窓に向けていた面をおもむろに返した。
「別に眺めていたわけじゃない。考えていただけだよ」
何を? と問うようにサウードは軽く眉根を持ちあげる。
「こんな地面から離れたところでばかり暮らしているとさ、頭ん中も地に足つかなくなってふらふらしちまうものなのかな、って思ってさ」
「翼を持つきみが、そんなことを言うのかい?」
ソファーの背もたれにゆったりともたれかかったまま、サウードはくすくすと笑った。いつだってこの地上のしがらみから逃げるように大樹の枝に腰かけていた、黒いローブを瞼裏に浮かべていたのだ。その頃と同じ表情で下界を眺めていたではないか、と。
「そんなもの持てたことなんてないよ。自由が欲しいから空を眺めていたにすぎないよ」
「誰しもが、きみの中に自由を見ていたのに?」
「錯覚だよ」
サウードは少し考え込むように押し黙る。やがて間をおいて立ちあがると、彼は巨大な一枚ガラスの窓に両手をつき、下界を覗きおろした。
「きっと、きみのいう自由は果てしなく遠く、広いのだろうね。僕の望む自由なんて、ちっぽけな箱の中のものにすぎないけれど。そして僕の住むその箱は、きみの手のひらに握られている。きみの目に映る世界は、この景色よりも、もっと遠くまで広がっているのかな?」
高層ホテルのペントハウスから臨む窓外には、個性的な趣向を凝らした数々の高層建築が立ち並び、広い道路にはひっきりなしに車が連なる。だがその奥には乾いた砂漠が広がっている。
既視感に襲われ、サウードは吐き捨てるように呟いた。
「眩暈がしそうだ」
「そうだろ」
「え?」
「人はたぶん、地面から離れて生きちゃいけないんだ」
何を見つめているのか判らない、遠い目をして呟いた吉野を、サウードは訝しげに見つめ返していた。
欲望の街、ラスベガス――。カジノだけではない。この街はショービジネスの中心地でもある。国際見本市でのヘンリーの講演後、アーカシャーHDの展示ブースには、常に新しい刺激を求めている、ラスベガス中のホテルアトラクション関係者が殺到したという。低コストで多種多様に消費できる娯楽として、この会社の提案はこの国に受け入れられ、歓迎されたのだ。その確かな手応えに、ヘンリーと一部スタッフたちは帰国を伸ばしてこの地にいまだ留まっている。この成功に問題があるわけではない。理に適っている、と吉野にしても理解している。
だが、吉野は今、それ以降の世界の行く末を考え試算していた。アーカシャーの提案した新事業がどれほど世界を変革させ、他業種の仕事を奪い失業者を生みだすことになるのか――。それが時代の流れというもの。必要な痛みだということも解っている。その痛みに逆恨みされ、傷つけられることのないように最大限の防衛を築くこと。それが現在の彼の最大の関心ごとなのだ。
この流れの行き着く先が本当に正しいのかどうか、それは吉野にも判らない。どうであれ、すでに怒涛の如き流れを堰き止める術はない。進むしかないのだ。おそらくこの来たるべき未来を、自分が気に入ることはない、と解っていても――。
「サウード」
ガラス窓に背を預けて自分を見つめていた彼に、吉野はにっと笑みを見せた。
「ロンドンに帰るぞ」
同時にほっと緊張を緩めた彼の様子に、吉野は声をたてて笑った。
「喜ぶなよ。ここが安全とはいえないから帰るんだからさ。イスハークを呼んでくれ。対策を立て直さなきゃいけない」
「まったく、笑いごとじゃないんだぞ!」
厳しい声音で呼びつけたイスハークに今朝の出来事を話す吉野を、横で聞いていたサウードは遠慮なく腹を抱えて笑っている。
「残念だな。僕もぜひお会いしたかったよ。伝説のカリスマクウォンツって輩に!」
「一度会ってるだろ。ニューヨークでさ」
「ああ、そうだったね。ちょっと独特な風貌の御仁だったね」
サウードは記憶を探るように目を細める。
「お前の居場所が知られているのは、毎晩のように人目もはばからずに遊びまわっているからだろう」
相変わらずの無表情で、だがどこか苦々しげな口調でイスハークが口を挟む。いや、口を挟んだのはサウードの方だ。今、吉野は警備責任者である彼と向き合っているのだから。
「ジムの情報網だからな。どこに隠れようと何をしていようと、俺の居場所くらい把握してるよ。問題はそこじゃない。ここまで入ってきた、そのルートなんだ。王様に頼んだまでは想定内だ。その後だよ。たかだか一介の米国人が、アル=マルズーク王家を動かせることが問題なんだ。イスハーク、お前の一族内の領分だ。このルートを切ってくれ」
イスハークはわずかに眉根をあげて頷いた。吉野の意味するところを理解し、自分の血族で固められている警護に関する指揮系統を思い浮かべる。吉野に接近できるということは、サウードにも容易に近づくことができるということなのだ。今回は害意のないものだったから事なきを得たというものの――。
肝心の陛下があてになるお方ではないから――。
お年を召されたからなのか、それとも抑えていた気質に抗えなくなってしまわれたのか。その偉大さを常に聞かされ成長したイスハークにとって無念ではあった。だが彼はすでに次に王となるべき主君を得ている。彼は、降りかかる火の粉を払うべく自分がすべきことは何かを充分に心得た従者だった。
*****
クオンツ(Quants)…… 高度な金融工学の手法を用い、株式市場(マーケット)の動向などに対して分析や予測を行う業務、またはその専門家のことをいう。
淡々としたサウードの声に、吉野は窓に向けていた面をおもむろに返した。
「別に眺めていたわけじゃない。考えていただけだよ」
何を? と問うようにサウードは軽く眉根を持ちあげる。
「こんな地面から離れたところでばかり暮らしているとさ、頭ん中も地に足つかなくなってふらふらしちまうものなのかな、って思ってさ」
「翼を持つきみが、そんなことを言うのかい?」
ソファーの背もたれにゆったりともたれかかったまま、サウードはくすくすと笑った。いつだってこの地上のしがらみから逃げるように大樹の枝に腰かけていた、黒いローブを瞼裏に浮かべていたのだ。その頃と同じ表情で下界を眺めていたではないか、と。
「そんなもの持てたことなんてないよ。自由が欲しいから空を眺めていたにすぎないよ」
「誰しもが、きみの中に自由を見ていたのに?」
「錯覚だよ」
サウードは少し考え込むように押し黙る。やがて間をおいて立ちあがると、彼は巨大な一枚ガラスの窓に両手をつき、下界を覗きおろした。
「きっと、きみのいう自由は果てしなく遠く、広いのだろうね。僕の望む自由なんて、ちっぽけな箱の中のものにすぎないけれど。そして僕の住むその箱は、きみの手のひらに握られている。きみの目に映る世界は、この景色よりも、もっと遠くまで広がっているのかな?」
高層ホテルのペントハウスから臨む窓外には、個性的な趣向を凝らした数々の高層建築が立ち並び、広い道路にはひっきりなしに車が連なる。だがその奥には乾いた砂漠が広がっている。
既視感に襲われ、サウードは吐き捨てるように呟いた。
「眩暈がしそうだ」
「そうだろ」
「え?」
「人はたぶん、地面から離れて生きちゃいけないんだ」
何を見つめているのか判らない、遠い目をして呟いた吉野を、サウードは訝しげに見つめ返していた。
欲望の街、ラスベガス――。カジノだけではない。この街はショービジネスの中心地でもある。国際見本市でのヘンリーの講演後、アーカシャーHDの展示ブースには、常に新しい刺激を求めている、ラスベガス中のホテルアトラクション関係者が殺到したという。低コストで多種多様に消費できる娯楽として、この会社の提案はこの国に受け入れられ、歓迎されたのだ。その確かな手応えに、ヘンリーと一部スタッフたちは帰国を伸ばしてこの地にいまだ留まっている。この成功に問題があるわけではない。理に適っている、と吉野にしても理解している。
だが、吉野は今、それ以降の世界の行く末を考え試算していた。アーカシャーの提案した新事業がどれほど世界を変革させ、他業種の仕事を奪い失業者を生みだすことになるのか――。それが時代の流れというもの。必要な痛みだということも解っている。その痛みに逆恨みされ、傷つけられることのないように最大限の防衛を築くこと。それが現在の彼の最大の関心ごとなのだ。
この流れの行き着く先が本当に正しいのかどうか、それは吉野にも判らない。どうであれ、すでに怒涛の如き流れを堰き止める術はない。進むしかないのだ。おそらくこの来たるべき未来を、自分が気に入ることはない、と解っていても――。
「サウード」
ガラス窓に背を預けて自分を見つめていた彼に、吉野はにっと笑みを見せた。
「ロンドンに帰るぞ」
同時にほっと緊張を緩めた彼の様子に、吉野は声をたてて笑った。
「喜ぶなよ。ここが安全とはいえないから帰るんだからさ。イスハークを呼んでくれ。対策を立て直さなきゃいけない」
「まったく、笑いごとじゃないんだぞ!」
厳しい声音で呼びつけたイスハークに今朝の出来事を話す吉野を、横で聞いていたサウードは遠慮なく腹を抱えて笑っている。
「残念だな。僕もぜひお会いしたかったよ。伝説のカリスマクウォンツって輩に!」
「一度会ってるだろ。ニューヨークでさ」
「ああ、そうだったね。ちょっと独特な風貌の御仁だったね」
サウードは記憶を探るように目を細める。
「お前の居場所が知られているのは、毎晩のように人目もはばからずに遊びまわっているからだろう」
相変わらずの無表情で、だがどこか苦々しげな口調でイスハークが口を挟む。いや、口を挟んだのはサウードの方だ。今、吉野は警備責任者である彼と向き合っているのだから。
「ジムの情報網だからな。どこに隠れようと何をしていようと、俺の居場所くらい把握してるよ。問題はそこじゃない。ここまで入ってきた、そのルートなんだ。王様に頼んだまでは想定内だ。その後だよ。たかだか一介の米国人が、アル=マルズーク王家を動かせることが問題なんだ。イスハーク、お前の一族内の領分だ。このルートを切ってくれ」
イスハークはわずかに眉根をあげて頷いた。吉野の意味するところを理解し、自分の血族で固められている警護に関する指揮系統を思い浮かべる。吉野に接近できるということは、サウードにも容易に近づくことができるということなのだ。今回は害意のないものだったから事なきを得たというものの――。
肝心の陛下があてになるお方ではないから――。
お年を召されたからなのか、それとも抑えていた気質に抗えなくなってしまわれたのか。その偉大さを常に聞かされ成長したイスハークにとって無念ではあった。だが彼はすでに次に王となるべき主君を得ている。彼は、降りかかる火の粉を払うべく自分がすべきことは何かを充分に心得た従者だった。
*****
クオンツ(Quants)…… 高度な金融工学の手法を用い、株式市場(マーケット)の動向などに対して分析や予測を行う業務、またはその専門家のことをいう。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる