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九章
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シルバーで統一されたこのリビングは、雪景色に似ている――。
アレンは床にじかに座りソファーの背面にもたれて、窓外をちらちらと舞う白い雪を見ていた。
この降りようでは、雪は膜を張るように被るだけだろう。積もることはない。明日になればきっと夢ででもあったかのように跡形もなく消えてしまう。今だけだ――。
暖房のきいた温かな室内なのに、ここは戸外の景色に侵食されたかと思えるほど寒々しい。無彩色で無機質なインテリアのせいかもしれない。だが逆にそれこそが、彼にとっては心が鎮められるようで好ましかった。冷たい自分には冷たい空間が相応しい、とそう実感せずにはいられないのだ。
「いたんだね」
背後のソファーからいきなりのぞきこんできたフレデリックに驚いて、アレンは身をのけ反らせていた。
「ああ、びっくりした。きみが帰っているのに気がつかなかったよ」
「また頭の中でピアノを弾いていたんだろ? それとも真っ白な雪景色に彩色していたのかな?」
「そう思う?」
「うん。そんな顔していたよ」
誰かのことで思い煩っているのではなく――。
そう言いたげな友人の諦めたような瞳を見つめ返して、アレンはもどかしげな微笑を浮かべる。
「お茶を淹れようか。寒かっただろ?」
おもむろに立ちあがったアレンがそう口にしたとたん、「え!」と、素っ頓狂な声があがった。フレデリックとは思えないその反応に、アレンの方が目を見開いてきょとんとしている。
「どうしたの?」
「いや、きみがお茶を淹れるなんて――」
「失礼だな。できるよ、そのくらい」
できるのかもしれないけど、しないだろ? フレデリックの瞳がそう問いかけている。アレンはプンと唇を尖らせた。
「もう大学生だし、共同生活の秘訣は上手にお茶を淹れることだよ、ってここに住むのが決まった時、兄が教えてくださったんだ」
十月に大学が始まってからとしても、今はもう一月も終わろうとしている。フレデリックは怪訝そうに首を傾げてつい口を滑らせてしまった。
「そんな前に……」
「だから、練習していたんだってば」
マーカスに教えを請い、久しぶりにゆっくりとすごす時間をとってくれた吉野にもコツを伝授してもらい、そうこうしている間にもいろんなことがあって――。アレンにしてみれば、なんとなく、その機会を持てなかっただけなのだ。
けれど「ありがとう」と、すぐに嬉しそうな笑みを湛えたフレデリックに、アレンは機嫌を直してキッチンへとスタスタと移動する。
お湯を沸かし、茶葉やカップの用意をしながら、アレンはふっと思い返していた。
そうだった。兄はこんな細やかな事でさえ、自分を思い遣って下さっていたのだ、と。吉野と同じように――。彼が落ちこむ度に、吉野が温かな飲み物でもって冷えきった心を温め直してくれたように、きみも温もりを差しだせるようになるんだよ、と示唆して下さったに違いない。文字通り、上手にお茶を淹れる事ばかりに囚われて、今まで誰かのためにそうしようとした事がなかったなんて――。
「はい、どうぞ」
アレンはマーカスに教わった通りにお茶を淹れ、吉野に教わった美味しくなる呪文を唱えた。完璧――、のはずだ。
「うん、美味しいよ」
返ってきた称賛の言葉に、アレンの頬がほっとほころぶ。固い蕾がほころぶように笑みが咲く。
「雪が好きなんだよ」
唐突に告げられたその言葉に、フレデリックはただ「うん」と頷いた。
「初めて兄の館に行った日も雪が降っていたんだ」
吉野が僕を誘ってくれたのだ。兄はアレンを迎えいれ、何よりも大切な彼女に逢わせてくれた。それこそが奇跡だと思っていたはずなのに――。
いつの間に、あの時の思いを忘れてしまっていたのだろう。与えられる優しさを当たり前のように受け取り、どんどん貪欲になっていった。お茶の一杯を差し出すことさえ忘れて――。
「雪は僕の醜さを純白のベールで覆い隠してくれる。その冷たさに感覚は麻痺して、自分自身の冷ややかさをも忘れさせてくれる。安心するんだ。ずっとそう思っていた。ついさっきまで」
語られた告白に、悲しげに唇を引き結ぶフレデリックの空になったカップに、アレンはお茶を継ぎ足した。
「でも、こうしてきみのためにお茶を淹れて思いだしたよ。そんな想いで凍りついていた僕を、いつもヨシノが溶かしてくれていた。苦いコーヒーと、それに負けない苦くて甘い、優しさで。僕も彼のように在りたかったのに、たった一杯のお茶を淹れることさえ今までしてこなかったんだね」
「それは、」
「甘えてたんだ。ずっと誰かが与えてくれるのを口を開けて待っていただけだった。だからこれからは、できる事から始めようと思うんだ」
「まずはこの一杯のお茶から、だね。最善で最高の選択だと思うよ」
自嘲的に微笑んでいる、けれど決して自分を卑下しているわけではない冬の空気のように澄んだ瞳に、フレデリックは安心したような微笑みを返す。
「飲み終える前に教えてくれよ。きみが初めて淹れてくれた貴重な一杯を充分に味わえなかったじゃないか。この二杯目は心していただかないと、ね」
彼は微笑んでカップを口許に運び、ゆっくりと飲みほす。
「美味しいよ。――ヨシノに負けないくらい。彼が帰ってきたら淹れてあげるといい。きっと喜ぶよ」
「ヨシノにお茶――、だなんて考えるだけで凍りつきそうだよ」
アレンは神妙な顔つきでぶるりと身震いする。
「意外に彼、だされたものには文句をつけないよ」
「手もつけないけどね」
目と目を見合わせた二人は、どちらからというでもなく吹きだした。
そう、吉野のお眼鏡に適うことからして難関なのだ。審美眼の高い兄と、そんなところが似ているのかもしれない。嗜好はまるで違うにしても。
兄に認められるということは、吉野にも認めてもらえるということなのだろうか――。少しづつでも、近づけているのだろうか。いつか彼自身を潤すことができるだろうか。
今はまだそこまでは望めなくとも、一歩、一歩、きみに――。
「もう一杯どう、フレッド?」
香しい芳香に酔ったように頬を染めているアレンに、フレデリックは、柔らかな、どこかやるせない微笑を浮かべて頷き返した。
アレンは床にじかに座りソファーの背面にもたれて、窓外をちらちらと舞う白い雪を見ていた。
この降りようでは、雪は膜を張るように被るだけだろう。積もることはない。明日になればきっと夢ででもあったかのように跡形もなく消えてしまう。今だけだ――。
暖房のきいた温かな室内なのに、ここは戸外の景色に侵食されたかと思えるほど寒々しい。無彩色で無機質なインテリアのせいかもしれない。だが逆にそれこそが、彼にとっては心が鎮められるようで好ましかった。冷たい自分には冷たい空間が相応しい、とそう実感せずにはいられないのだ。
「いたんだね」
背後のソファーからいきなりのぞきこんできたフレデリックに驚いて、アレンは身をのけ反らせていた。
「ああ、びっくりした。きみが帰っているのに気がつかなかったよ」
「また頭の中でピアノを弾いていたんだろ? それとも真っ白な雪景色に彩色していたのかな?」
「そう思う?」
「うん。そんな顔していたよ」
誰かのことで思い煩っているのではなく――。
そう言いたげな友人の諦めたような瞳を見つめ返して、アレンはもどかしげな微笑を浮かべる。
「お茶を淹れようか。寒かっただろ?」
おもむろに立ちあがったアレンがそう口にしたとたん、「え!」と、素っ頓狂な声があがった。フレデリックとは思えないその反応に、アレンの方が目を見開いてきょとんとしている。
「どうしたの?」
「いや、きみがお茶を淹れるなんて――」
「失礼だな。できるよ、そのくらい」
できるのかもしれないけど、しないだろ? フレデリックの瞳がそう問いかけている。アレンはプンと唇を尖らせた。
「もう大学生だし、共同生活の秘訣は上手にお茶を淹れることだよ、ってここに住むのが決まった時、兄が教えてくださったんだ」
十月に大学が始まってからとしても、今はもう一月も終わろうとしている。フレデリックは怪訝そうに首を傾げてつい口を滑らせてしまった。
「そんな前に……」
「だから、練習していたんだってば」
マーカスに教えを請い、久しぶりにゆっくりとすごす時間をとってくれた吉野にもコツを伝授してもらい、そうこうしている間にもいろんなことがあって――。アレンにしてみれば、なんとなく、その機会を持てなかっただけなのだ。
けれど「ありがとう」と、すぐに嬉しそうな笑みを湛えたフレデリックに、アレンは機嫌を直してキッチンへとスタスタと移動する。
お湯を沸かし、茶葉やカップの用意をしながら、アレンはふっと思い返していた。
そうだった。兄はこんな細やかな事でさえ、自分を思い遣って下さっていたのだ、と。吉野と同じように――。彼が落ちこむ度に、吉野が温かな飲み物でもって冷えきった心を温め直してくれたように、きみも温もりを差しだせるようになるんだよ、と示唆して下さったに違いない。文字通り、上手にお茶を淹れる事ばかりに囚われて、今まで誰かのためにそうしようとした事がなかったなんて――。
「はい、どうぞ」
アレンはマーカスに教わった通りにお茶を淹れ、吉野に教わった美味しくなる呪文を唱えた。完璧――、のはずだ。
「うん、美味しいよ」
返ってきた称賛の言葉に、アレンの頬がほっとほころぶ。固い蕾がほころぶように笑みが咲く。
「雪が好きなんだよ」
唐突に告げられたその言葉に、フレデリックはただ「うん」と頷いた。
「初めて兄の館に行った日も雪が降っていたんだ」
吉野が僕を誘ってくれたのだ。兄はアレンを迎えいれ、何よりも大切な彼女に逢わせてくれた。それこそが奇跡だと思っていたはずなのに――。
いつの間に、あの時の思いを忘れてしまっていたのだろう。与えられる優しさを当たり前のように受け取り、どんどん貪欲になっていった。お茶の一杯を差し出すことさえ忘れて――。
「雪は僕の醜さを純白のベールで覆い隠してくれる。その冷たさに感覚は麻痺して、自分自身の冷ややかさをも忘れさせてくれる。安心するんだ。ずっとそう思っていた。ついさっきまで」
語られた告白に、悲しげに唇を引き結ぶフレデリックの空になったカップに、アレンはお茶を継ぎ足した。
「でも、こうしてきみのためにお茶を淹れて思いだしたよ。そんな想いで凍りついていた僕を、いつもヨシノが溶かしてくれていた。苦いコーヒーと、それに負けない苦くて甘い、優しさで。僕も彼のように在りたかったのに、たった一杯のお茶を淹れることさえ今までしてこなかったんだね」
「それは、」
「甘えてたんだ。ずっと誰かが与えてくれるのを口を開けて待っていただけだった。だからこれからは、できる事から始めようと思うんだ」
「まずはこの一杯のお茶から、だね。最善で最高の選択だと思うよ」
自嘲的に微笑んでいる、けれど決して自分を卑下しているわけではない冬の空気のように澄んだ瞳に、フレデリックは安心したような微笑みを返す。
「飲み終える前に教えてくれよ。きみが初めて淹れてくれた貴重な一杯を充分に味わえなかったじゃないか。この二杯目は心していただかないと、ね」
彼は微笑んでカップを口許に運び、ゆっくりと飲みほす。
「美味しいよ。――ヨシノに負けないくらい。彼が帰ってきたら淹れてあげるといい。きっと喜ぶよ」
「ヨシノにお茶――、だなんて考えるだけで凍りつきそうだよ」
アレンは神妙な顔つきでぶるりと身震いする。
「意外に彼、だされたものには文句をつけないよ」
「手もつけないけどね」
目と目を見合わせた二人は、どちらからというでもなく吹きだした。
そう、吉野のお眼鏡に適うことからして難関なのだ。審美眼の高い兄と、そんなところが似ているのかもしれない。嗜好はまるで違うにしても。
兄に認められるということは、吉野にも認めてもらえるということなのだろうか――。少しづつでも、近づけているのだろうか。いつか彼自身を潤すことができるだろうか。
今はまだそこまでは望めなくとも、一歩、一歩、きみに――。
「もう一杯どう、フレッド?」
香しい芳香に酔ったように頬を染めているアレンに、フレデリックは、柔らかな、どこかやるせない微笑を浮かべて頷き返した。
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