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九章
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「そんなに落ち着かないんなら、先にロンドンに戻ってろよ」
少し離れたソファーに腰掛けたそんな吉野の言葉も、サウードの耳には入らないらしい。スイートルームの広いリビング内を、苛々、ぐるぐると歩き回っている。
朝からずっとこんな様子のサウードを宥めることが、さすがの吉野も面倒になってきている。
まるで飼い主に叱られるのを恐れて怯えているペットみたいだ、と吉野は目を眇めてサウードを眺め、舌打ちしていた。彼の醸しだすキリキリと尖った空気が彼自身を傷つけている、その痛々しさが堪らないのだ。普段のサウードからは想像もつかなかった。これは吉野の誤算だ。
サウードは今、父王からロンドンの別宅への謹慎を命じられている。国有企業アッシャムスを破綻させた咎への沙汰が決定するまでの一時的な処置だった。だがこれは形式上のことであり、国際世論に対して示しをつけるためのものでしかない。だからそのことで彼が心を軋ませている、ということではない。彼の抑圧は今いる場所がロンドンではなく、ラスベガスのホテルの一室だということだ。同じく謹慎処分中の吉野に同行するために自身の意志で縛めを破ったことが、サウードの心を苛んでいる。
初めて父王に逆らったから――、そう言い換えてもいいのかもしれない。
サウードにしろ、もう幼い頃のように父王を神のように崇め奉っている訳ではない。父の人間としての欠点も、王としてあるまじき贅沢癖、倫理観から逸脱した性癖等も理解しているし憂いている。だから吉野にも判らなかった。父の命令に従わない、たかがそれだけのことがこうも彼の心から平静さを奪うなどと。
どれほど口先で、頭の中で、父を軽蔑しようとしても、サウードにとって父王は絶対的な専制君主であり、彼の支配者なのだ。
この感覚は、吉野には理解できないものだった。
アブド・H・アル=マルズークを活かすことに決めたのも、サウードの意向に沿ったものだった。彼は王族の血の神聖さを信じている。もっというなら、内心ではアブドが王位を継ぐことこそが正統であるとさえ思っている。彼がその残虐さを捨てて正道を歩んでくれさえすれば、と。
頭ではどれほど「解った」を繰り返したところで、心の奥底に植えつけられた価値観はそうそう揺らぐものではないらしい。自らに流れる血の正当性を統治者としての存在の根拠にしている以上、今のこの反応は自分でも制御不能なのかもしれない。などと、自分で自分を持てあましているサウードの挙動を吉野は分析している。
「イスハーク、」
吉野は入り口に立つサウード直属の近衛でもある彼に呼びかけ、立ち上がった。
「行ってくる。後は頼んだぞ」
「ヨシノ!」
とたんにサウードは鋭く叫んで駆け寄った。
「僕も行く。きみにばかり危険な交渉をさせる訳にはいかない。僕も同席する」
「その件はもう話しただろ? この話し合いは交渉なんてものじゃない。決定だ。俺は決定事項を伝えにいくだけ。危険なんてない。お前の出る幕もない。だから心配いらない。もう何も言うな、任せとけ」
「でも、彼はきみを恨んでいる」
「アブドに逢う訳じゃない。テーブルに着くのは兄貴の方だ」
「同じことだ」
「な、訳ないだろ。アブドルアジーズは純粋に、ただの投資家だよ」
吉野はサウードの両肩に手をかけ、その一方にキスを落とした。
「お前とは違う。お前は王になるんだ。じっとしていろ。自ら動こうとするな。王らしく俺の帰りを待て」
もう一度ぐっとその手に力を入れすっと背中を向ける。
「アリーは?」
「控えている」
イスハークの肩をぽんと叩き引き寄せて何事か囁くと、吉野はもう振り返ることなく部屋を後にした。
「彼は何て?」
「お茶を用意させるように、と」
「甘い菓子と?」
苦笑するサウードに、イスハークは無言のまま頷く。
「僕はいつまでたっても、子ども扱いだな」
彼の邪魔にならないこと。それが第一の誓いであったはずなのに。
吉野と歩む道が決して整えられた平坦なものではないことは、覚悟していたつもりだった。
けれど、ふと気づくことがある。
足下の断崖絶壁に。眩暈を起こす。果てなく底のない深淵に。吹きつける強風に。眩しすぎる光に――。
そんな時、横を歩いているはずの吉野の姿を見失う。広大な砂漠に我一人立ち尽くしている。そんな気になるのだ。
サウードは軽く頭を振り嘆息する。
傀儡の王に心などいらない。解っている。解っているのに、なぜこうも苦しいのか――。
「ミルクティーにしてくれ。英国式の」
あの香りに包まれて瞼を落とせば、学び舎に戻れる。恐れなど何も知らなかったあの頃に――。仲間と、ただ笑い合っていた時に。
考えるな。今は、何も考えるな。
「イスハーク、そういえば、見本市の中継はもう始まっているのだったかな? ヘンリー卿の基調講演があるのではなかったかい?」
「ご覧になられますか、殿下? すでに始まっておりますが」
イスハークは正面に置かれたテレビのスイッチを入れた。レポーターの抑揚のない声が流れ始める。
サウードはどこか虚ろに、その瞳を画面に据えた。
少し離れたソファーに腰掛けたそんな吉野の言葉も、サウードの耳には入らないらしい。スイートルームの広いリビング内を、苛々、ぐるぐると歩き回っている。
朝からずっとこんな様子のサウードを宥めることが、さすがの吉野も面倒になってきている。
まるで飼い主に叱られるのを恐れて怯えているペットみたいだ、と吉野は目を眇めてサウードを眺め、舌打ちしていた。彼の醸しだすキリキリと尖った空気が彼自身を傷つけている、その痛々しさが堪らないのだ。普段のサウードからは想像もつかなかった。これは吉野の誤算だ。
サウードは今、父王からロンドンの別宅への謹慎を命じられている。国有企業アッシャムスを破綻させた咎への沙汰が決定するまでの一時的な処置だった。だがこれは形式上のことであり、国際世論に対して示しをつけるためのものでしかない。だからそのことで彼が心を軋ませている、ということではない。彼の抑圧は今いる場所がロンドンではなく、ラスベガスのホテルの一室だということだ。同じく謹慎処分中の吉野に同行するために自身の意志で縛めを破ったことが、サウードの心を苛んでいる。
初めて父王に逆らったから――、そう言い換えてもいいのかもしれない。
サウードにしろ、もう幼い頃のように父王を神のように崇め奉っている訳ではない。父の人間としての欠点も、王としてあるまじき贅沢癖、倫理観から逸脱した性癖等も理解しているし憂いている。だから吉野にも判らなかった。父の命令に従わない、たかがそれだけのことがこうも彼の心から平静さを奪うなどと。
どれほど口先で、頭の中で、父を軽蔑しようとしても、サウードにとって父王は絶対的な専制君主であり、彼の支配者なのだ。
この感覚は、吉野には理解できないものだった。
アブド・H・アル=マルズークを活かすことに決めたのも、サウードの意向に沿ったものだった。彼は王族の血の神聖さを信じている。もっというなら、内心ではアブドが王位を継ぐことこそが正統であるとさえ思っている。彼がその残虐さを捨てて正道を歩んでくれさえすれば、と。
頭ではどれほど「解った」を繰り返したところで、心の奥底に植えつけられた価値観はそうそう揺らぐものではないらしい。自らに流れる血の正当性を統治者としての存在の根拠にしている以上、今のこの反応は自分でも制御不能なのかもしれない。などと、自分で自分を持てあましているサウードの挙動を吉野は分析している。
「イスハーク、」
吉野は入り口に立つサウード直属の近衛でもある彼に呼びかけ、立ち上がった。
「行ってくる。後は頼んだぞ」
「ヨシノ!」
とたんにサウードは鋭く叫んで駆け寄った。
「僕も行く。きみにばかり危険な交渉をさせる訳にはいかない。僕も同席する」
「その件はもう話しただろ? この話し合いは交渉なんてものじゃない。決定だ。俺は決定事項を伝えにいくだけ。危険なんてない。お前の出る幕もない。だから心配いらない。もう何も言うな、任せとけ」
「でも、彼はきみを恨んでいる」
「アブドに逢う訳じゃない。テーブルに着くのは兄貴の方だ」
「同じことだ」
「な、訳ないだろ。アブドルアジーズは純粋に、ただの投資家だよ」
吉野はサウードの両肩に手をかけ、その一方にキスを落とした。
「お前とは違う。お前は王になるんだ。じっとしていろ。自ら動こうとするな。王らしく俺の帰りを待て」
もう一度ぐっとその手に力を入れすっと背中を向ける。
「アリーは?」
「控えている」
イスハークの肩をぽんと叩き引き寄せて何事か囁くと、吉野はもう振り返ることなく部屋を後にした。
「彼は何て?」
「お茶を用意させるように、と」
「甘い菓子と?」
苦笑するサウードに、イスハークは無言のまま頷く。
「僕はいつまでたっても、子ども扱いだな」
彼の邪魔にならないこと。それが第一の誓いであったはずなのに。
吉野と歩む道が決して整えられた平坦なものではないことは、覚悟していたつもりだった。
けれど、ふと気づくことがある。
足下の断崖絶壁に。眩暈を起こす。果てなく底のない深淵に。吹きつける強風に。眩しすぎる光に――。
そんな時、横を歩いているはずの吉野の姿を見失う。広大な砂漠に我一人立ち尽くしている。そんな気になるのだ。
サウードは軽く頭を振り嘆息する。
傀儡の王に心などいらない。解っている。解っているのに、なぜこうも苦しいのか――。
「ミルクティーにしてくれ。英国式の」
あの香りに包まれて瞼を落とせば、学び舎に戻れる。恐れなど何も知らなかったあの頃に――。仲間と、ただ笑い合っていた時に。
考えるな。今は、何も考えるな。
「イスハーク、そういえば、見本市の中継はもう始まっているのだったかな? ヘンリー卿の基調講演があるのではなかったかい?」
「ご覧になられますか、殿下? すでに始まっておりますが」
イスハークは正面に置かれたテレビのスイッチを入れた。レポーターの抑揚のない声が流れ始める。
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