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九章
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久しぶりに言葉を交わした吉野は、あの頃のまま無邪気で屈託がなく、まっ直ぐな澄んだ瞳をしている。噂なんて、所詮烏合の衆の戯言にすぎないのだ、とケネス・アボットは記憶よりもずっと大人びた彼を、胸をなでおろしつつ眺めていた。数年前には確かにあった、自分に対する意固地なかまえも、子どもっぽい反抗心も今は感じられない。そのくせ、近況を訊かれて応えた内容に、ずけずけと軽い嫌味ともとれる返答だ。相変わらずの物怖じのなさ、遠慮のなさに苦笑を滲ませながらも、昔のままのその姿にケネスはこの再会を心から喜んでいた。
「それで、先輩の妹さんはどちらに?」
「ああ、兄妹睦まじく話してるんじゃないか」吉野は素知らぬ顔でうそぶいている。
「兄の相手なんて退屈で嫌だそうだよ。きみをご指名だ」
背後からぽんと肩に手を置かれ、吉野は小さくため息を漏らす。
「もう少しくらい、あいつの相手してやれよ。久しぶりに逢ったんだろ」
「不運なことにね」
歯に衣着せないヘンリーの言いぶりに、吉野は呆れて肩をすくめる。
「ケネス、久しぶりだね」
打って変わって、にこやかな笑みとともに差しだされた右手を、ケネスは力強く握り返し、て相好を崩す。
「きみたち、すまないが彼を少し借りるよ」と、ヘンリーは握手を終えたばかりの腕をそのまま彼の背中に回した。
「お構いなく」
「また後で」
ケネスは特に驚いた様子もなく、すぐにヘンリーと連れだって人混みに紛れていった。
「意外な人に逢えるのは嬉しいけど、ゆっくり話もできないねぇ」
残念そうに息を継ぐクリスに、フレデリックも同意するように頷き、「きみもあちこちから引っ張りだこだしね」と、吉野に若干の同情を込めて微笑みかけた。
ヘンリーに言われたにもかかわらず、吉野はいまだにその場を動かないままで、露骨に顔をしかめているのだ。「面倒くせぇ」聞こえるか、聞こえないかの小声で呟かれた愚痴を、隣にいたクリスが耳聡く聴きつけてぶっと噴きだした。
「女性を待たせるものじゃないよ、ヨシノ」
「じゃ、代わりに行ってくれよ」
「きみをご指名なんだろ?」
「あー、もう用は済んだんだ。そうだ! あいつに頼んでくるよ、ボブにさ。まだあの玩具で遊んでるんだろ?」
鬱陶しげに眉を寄せ、吉野はヘンリーのTS映像のいる辺りを肩越しに振り返る。
ひと気のないバルコニーへとケネスを誘い、フロアの喧騒をガラス戸で閉じ込めたところで、ヘンリーは親密なくだけた調子で、さっそく話を切りだした。
「率直に話させてもらうよ。きみのことだからね、彼から当然、聴いているんだろ? 本人に面と向かって訊ねてみても、何も言わなくて困ってるんだ。セディは僕に何を望んでいるの?」
「何とお答えするべきなのでしょうね」
ケネスは微苦笑を浮かべて、ヘンリーの真意を探るような鋭い視線を彼に返す。
セドリック・ブラッドリーの幼馴染として、また、ヘンリーの後輩として、ケネスにしても彼らの確執は理解している。彼らの表には出せない特殊な事情にしてもだ。
彼の動揺するさまが、ケネスには目に浮かぶようだった。セドリックは、ここでヘンリーに遭遇するなどと、想像だにしていなかったのだ。ヘンリーは毎年恒例の自社パーティー出席のため、新年は米国で迎えている。おそらく突然の邂逅に、彼を前にしてセドリックはしどろもどろなまま、何も言えなかった。何の他意もない、それだけのことなのだ。笑ってそう答えようとした矢先、「アレンの次はキャルかい? これは僕への脅迫なの?」と、続けられた彼の冷ややかな言葉に、ケネスは目を瞠ることとなる。ヘンリーの整った面に浮かぶ皮肉に歪められた口許を、信じられない思いで見入ってしまった。
「断じて違います!」
けれど話して理解してもらえるのだろうか、とそんな不安がケネスの脳裏をよぎっていた。
どれほどセドリックがヘンリーのことを慕っているか。そして自分のその想いを、同じ強さでもって嫌悪している。それでも彼は、ヘンリーに忠実な自分で在りたいのだ。
そんな葛藤を、はたしてこの完璧で、潔癖な、眼前の彼に理解してもらえるのだろうか――。
「セディがミス・フェイラーに面会を申し込んだのは、両家の再婚話の進展いかんにかかわらず、彼女を陰ながら支援すると伝えたかったからで、」
「なるほど、父が死ぬのを待っているんだね」
「そんな、」
「母が離婚して大臣に乗り換えるとでも思っているのなら、とんだお門違いだ。これはセディにも伝えたけどね。僕は血縁関係を盾に、僕の私生活にまで首を突っ込まれるのは不愉快なんだ」
これが、今の政治情勢を踏まえての言葉であるなら……。
否、彼のことだから全てを総合的に判断しての言葉なのだろう。
「すまないね、ケネス。彼とは話にならなかったんだ。きみから、もう一度僕の言葉を彼に伝えて欲しい。肉親の情に溺れる前に、自分の罪と向き合え、ってね」
冷たく響くヘンリーの声音の言わんとする本来の意味を察し、そしてセドリックの心中を推し量り、ケネスは唇を噛んでいた。
「フェイラーは、アレン・フェイラーは、」
「ヨシノが選んだのはキャルじゃない。アレンだ。そして僕は今も変わらずあの子の保護者だよ。そう、セドリックに伝えておいてくれないか? 時間を取らせてしまって悪かったね」
軽く肩を叩き、ヘンリーは悠然と歩み去った。
一人その場に残され、今さら自分を包む夜気の切れるような冷たさを肌に感じ、ケネスはぶるりと身震いする。
「先輩には、敵わないな」
セドリックは、自分のささやかな行動が巻きおこす憶測、そこから発展していくであろう駆け引きになど、気づきもしなかったのだ。
ただたんに、結婚話が具体化しさらに遠い存在となりつつある血の繋がった義妹に逢い、言葉を交わし、励ましと祝いの言葉を贈りたかったにすぎないのだ。
その軽率さを、ヘンリーに釘を刺されたのだ。ケネスには、何も言い返すことはできなかった。友人としてセドリックの想いが理解できたから、そのリスクを考えなかったわけではなかったにのに、止めることはしなかったのだ。
それにしても、事態は思った以上に深刻のようだ。まさかヘンリーが、フェイラー家のお家騒動の一環として、セドリックの行為を捉えてくる、とまでは彼にしても推測できなかった。
自分の浅はかさに臍を噛み、ケネスは、まずは頭を冷やさねばと、白く凍りつく息を、深く、長く吐きだした。
「それで、先輩の妹さんはどちらに?」
「ああ、兄妹睦まじく話してるんじゃないか」吉野は素知らぬ顔でうそぶいている。
「兄の相手なんて退屈で嫌だそうだよ。きみをご指名だ」
背後からぽんと肩に手を置かれ、吉野は小さくため息を漏らす。
「もう少しくらい、あいつの相手してやれよ。久しぶりに逢ったんだろ」
「不運なことにね」
歯に衣着せないヘンリーの言いぶりに、吉野は呆れて肩をすくめる。
「ケネス、久しぶりだね」
打って変わって、にこやかな笑みとともに差しだされた右手を、ケネスは力強く握り返し、て相好を崩す。
「きみたち、すまないが彼を少し借りるよ」と、ヘンリーは握手を終えたばかりの腕をそのまま彼の背中に回した。
「お構いなく」
「また後で」
ケネスは特に驚いた様子もなく、すぐにヘンリーと連れだって人混みに紛れていった。
「意外な人に逢えるのは嬉しいけど、ゆっくり話もできないねぇ」
残念そうに息を継ぐクリスに、フレデリックも同意するように頷き、「きみもあちこちから引っ張りだこだしね」と、吉野に若干の同情を込めて微笑みかけた。
ヘンリーに言われたにもかかわらず、吉野はいまだにその場を動かないままで、露骨に顔をしかめているのだ。「面倒くせぇ」聞こえるか、聞こえないかの小声で呟かれた愚痴を、隣にいたクリスが耳聡く聴きつけてぶっと噴きだした。
「女性を待たせるものじゃないよ、ヨシノ」
「じゃ、代わりに行ってくれよ」
「きみをご指名なんだろ?」
「あー、もう用は済んだんだ。そうだ! あいつに頼んでくるよ、ボブにさ。まだあの玩具で遊んでるんだろ?」
鬱陶しげに眉を寄せ、吉野はヘンリーのTS映像のいる辺りを肩越しに振り返る。
ひと気のないバルコニーへとケネスを誘い、フロアの喧騒をガラス戸で閉じ込めたところで、ヘンリーは親密なくだけた調子で、さっそく話を切りだした。
「率直に話させてもらうよ。きみのことだからね、彼から当然、聴いているんだろ? 本人に面と向かって訊ねてみても、何も言わなくて困ってるんだ。セディは僕に何を望んでいるの?」
「何とお答えするべきなのでしょうね」
ケネスは微苦笑を浮かべて、ヘンリーの真意を探るような鋭い視線を彼に返す。
セドリック・ブラッドリーの幼馴染として、また、ヘンリーの後輩として、ケネスにしても彼らの確執は理解している。彼らの表には出せない特殊な事情にしてもだ。
彼の動揺するさまが、ケネスには目に浮かぶようだった。セドリックは、ここでヘンリーに遭遇するなどと、想像だにしていなかったのだ。ヘンリーは毎年恒例の自社パーティー出席のため、新年は米国で迎えている。おそらく突然の邂逅に、彼を前にしてセドリックはしどろもどろなまま、何も言えなかった。何の他意もない、それだけのことなのだ。笑ってそう答えようとした矢先、「アレンの次はキャルかい? これは僕への脅迫なの?」と、続けられた彼の冷ややかな言葉に、ケネスは目を瞠ることとなる。ヘンリーの整った面に浮かぶ皮肉に歪められた口許を、信じられない思いで見入ってしまった。
「断じて違います!」
けれど話して理解してもらえるのだろうか、とそんな不安がケネスの脳裏をよぎっていた。
どれほどセドリックがヘンリーのことを慕っているか。そして自分のその想いを、同じ強さでもって嫌悪している。それでも彼は、ヘンリーに忠実な自分で在りたいのだ。
そんな葛藤を、はたしてこの完璧で、潔癖な、眼前の彼に理解してもらえるのだろうか――。
「セディがミス・フェイラーに面会を申し込んだのは、両家の再婚話の進展いかんにかかわらず、彼女を陰ながら支援すると伝えたかったからで、」
「なるほど、父が死ぬのを待っているんだね」
「そんな、」
「母が離婚して大臣に乗り換えるとでも思っているのなら、とんだお門違いだ。これはセディにも伝えたけどね。僕は血縁関係を盾に、僕の私生活にまで首を突っ込まれるのは不愉快なんだ」
これが、今の政治情勢を踏まえての言葉であるなら……。
否、彼のことだから全てを総合的に判断しての言葉なのだろう。
「すまないね、ケネス。彼とは話にならなかったんだ。きみから、もう一度僕の言葉を彼に伝えて欲しい。肉親の情に溺れる前に、自分の罪と向き合え、ってね」
冷たく響くヘンリーの声音の言わんとする本来の意味を察し、そしてセドリックの心中を推し量り、ケネスは唇を噛んでいた。
「フェイラーは、アレン・フェイラーは、」
「ヨシノが選んだのはキャルじゃない。アレンだ。そして僕は今も変わらずあの子の保護者だよ。そう、セドリックに伝えておいてくれないか? 時間を取らせてしまって悪かったね」
軽く肩を叩き、ヘンリーは悠然と歩み去った。
一人その場に残され、今さら自分を包む夜気の切れるような冷たさを肌に感じ、ケネスはぶるりと身震いする。
「先輩には、敵わないな」
セドリックは、自分のささやかな行動が巻きおこす憶測、そこから発展していくであろう駆け引きになど、気づきもしなかったのだ。
ただたんに、結婚話が具体化しさらに遠い存在となりつつある血の繋がった義妹に逢い、言葉を交わし、励ましと祝いの言葉を贈りたかったにすぎないのだ。
その軽率さを、ヘンリーに釘を刺されたのだ。ケネスには、何も言い返すことはできなかった。友人としてセドリックの想いが理解できたから、そのリスクを考えなかったわけではなかったにのに、止めることはしなかったのだ。
それにしても、事態は思った以上に深刻のようだ。まさかヘンリーが、フェイラー家のお家騒動の一環として、セドリックの行為を捉えてくる、とまでは彼にしても推測できなかった。
自分の浅はかさに臍を噛み、ケネスは、まずは頭を冷やさねばと、白く凍りつく息を、深く、長く吐きだした。
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