637 / 753
九章
邂逅1
しおりを挟む
バルコニーの手摺りに身を屈めてテムズ川を眺めながら夜風に当たっていた広い背中が、ガラス戸の開かれる音に、特に驚いた様子もなく振り返る。
高圧的なヒールの音を響かせ歩みよるなり一言の言葉もなく差しだされた白皙の指先に、優雅に身を屈めて唇を寄せる。
「ああ、本当に先輩によく似ておいでだ」
滑らかな所作で面をあげ、柔らかく細められた碧の瞳に、キャルはようやくゆるやかに口許を緩ませた。
「そうでしょう? よく言われるの。自分でもそう思うわ。あなたとは似ていなくて良かったわ」
こんなところで――。
パーティーの行われているフロアからガラス戸で仕切られ、周囲には誰もいないとはいえ、相手の思惑も解らないうちから口にすべき言葉ではないだろうが。
吉野は二人の会話が聞きとれる程度に距離を置いた位置で手摺りにもたれ、浅はかな女だな、と内心舌打ちする。
だがそんな事は実際問題としては大したことじゃない。要はこの男が、このセドリック・ブラッドリーが――、あれからどれほど変わっているかだ。
そして、キャルに偶然を装った邂逅を申し込んできたその理由。一部で噂されているような、父親の意を汲んでのものなのか、それとも近い将来に備えてより優位な立場で立ち回れるようにとの地盤固めなのか。理由はいくらでも考えられるけれど、この男に限っては、吉野の思惑を超えた損得勘定のない別の感情が動いた可能性も考えられるのだ。
今さら、互いの存在を確認する理由は何なのか知りたい、と相応しい場をセッティングしてくれ、とのキャルの依頼を吉野は不承不承受けたのだった。この二人が絡めばアレンが嫌な思いをするであろうことは、容易に想像が及んだのだが。知らぬところで、知らぬ間に、無益な方向に話が進んでいくよりはましだと考え直した。
もっとも、キャルにしてみれば同じ学校出身じゃないか、という程度の軽い思いつきでのことでしかないのだが。
決してにこやかに同じテーブルにつけるような相手ではない自分が仲介に立ったことを、この男は、内心どう思っていることやら。
適度な距離を保ち、自分自身は会話に参加することもなく、吉野はじっと時を待った。セドリックの思惑など、一瞬でどうでもよいものに変え得る、彼の出番を――。
コツコツと、控え目にガラス戸を叩く音がする。
さぁ、真打のご登場だ。
ガラス戸が開き、室内の喧騒とともに、にこやかな笑みを湛えたヘンリーが現れた。ガラスが音もなく閉ざされると同時に、ぴんと張りつめた静寂が戻る。
「お邪魔だったかな? 妹と、きみの姿が見えたものだからね」
キャルが嬉しそうに、ヘンリーの腕に自分の腕を絡める。
吉野は内心ほくそ笑んでいた。みるみる内に緊張で引き締まるセドリックの横顔を、観察するかのように見つめていた。
「久しぶりだね」
「お久しぶりです、先輩」
ヘンリーの柔らかな物言いに、セドリックはほっとしたように顔をほころばせている。だが段々と、鮮やかな花が日の翳りとともにゆっくりと萎んでいくように笑みを消し、いつまでたっても差しだされないヘンリーの右手に哀しげな目線を据え、唇を噛む。キャルが訝しげに兄を見上げている。
許している訳ではないのだ、と吉野もまた、この二人の間に流れる殺伐とした空気を眺めていた。
やがて充分な満足を得ると、彼はこの場で初めてにっこりと微笑んだ。
「子爵、ヘンリーが待ってるぞ」
吉野は馴れ馴れしげにセドリックの肩に手をかけ、耳打ちしてやった。言われた本人は怪訝そうに吉野を見、そしてヘンリーに恐る恐る視線を移す。
「もう学生じゃないんだ。そうだろ?」
「しかし、先輩、」
「僕はかまわないよ」
自分に向けられたにこやかな笑みに応えるように、セドリックはおずおずと右手を差しだす。ヘンリーはそれをさらりと握り返す。
なんとも冷ややかな握手だな、と吉野はまたもや笑いを押し殺す羽目になる。
身分はセドリックの方が上なのだ。学生時代の先輩、後輩の上下関係は持ちださない。一見そう示しながら、ヘンリーは、お前は自分がその手を差しだすに値しない男だと、暗に圧力をかけているのだ。どれほど身分が上であろうと、セドリック・ブラッドリーという男は、ヘンリー・ソールスベリーの上に立てる様な高尚な人間ではないのだ、と。
なんとも執念深いことだ、と呆れもするが、ヘンリーがアレンのことを決して無下に思っているのではないことを感じられ、吉野は胸がすく想いだった。
直前までこのパーティーへの出席を明かさなかったヘンリーの思惑通り、この邂逅はセドリックに予想以上の衝撃を与えている。彼にとってのこの五年という歳月は何の意味もなさなかったのだ。
今でもセドリックはヘンリーに精神的に支配され、雁字搦めに縛られている。それを確認できただけで、この場を設けた意味があった、と吉野はほくそ笑んでいた。
高圧的なヒールの音を響かせ歩みよるなり一言の言葉もなく差しだされた白皙の指先に、優雅に身を屈めて唇を寄せる。
「ああ、本当に先輩によく似ておいでだ」
滑らかな所作で面をあげ、柔らかく細められた碧の瞳に、キャルはようやくゆるやかに口許を緩ませた。
「そうでしょう? よく言われるの。自分でもそう思うわ。あなたとは似ていなくて良かったわ」
こんなところで――。
パーティーの行われているフロアからガラス戸で仕切られ、周囲には誰もいないとはいえ、相手の思惑も解らないうちから口にすべき言葉ではないだろうが。
吉野は二人の会話が聞きとれる程度に距離を置いた位置で手摺りにもたれ、浅はかな女だな、と内心舌打ちする。
だがそんな事は実際問題としては大したことじゃない。要はこの男が、このセドリック・ブラッドリーが――、あれからどれほど変わっているかだ。
そして、キャルに偶然を装った邂逅を申し込んできたその理由。一部で噂されているような、父親の意を汲んでのものなのか、それとも近い将来に備えてより優位な立場で立ち回れるようにとの地盤固めなのか。理由はいくらでも考えられるけれど、この男に限っては、吉野の思惑を超えた損得勘定のない別の感情が動いた可能性も考えられるのだ。
今さら、互いの存在を確認する理由は何なのか知りたい、と相応しい場をセッティングしてくれ、とのキャルの依頼を吉野は不承不承受けたのだった。この二人が絡めばアレンが嫌な思いをするであろうことは、容易に想像が及んだのだが。知らぬところで、知らぬ間に、無益な方向に話が進んでいくよりはましだと考え直した。
もっとも、キャルにしてみれば同じ学校出身じゃないか、という程度の軽い思いつきでのことでしかないのだが。
決してにこやかに同じテーブルにつけるような相手ではない自分が仲介に立ったことを、この男は、内心どう思っていることやら。
適度な距離を保ち、自分自身は会話に参加することもなく、吉野はじっと時を待った。セドリックの思惑など、一瞬でどうでもよいものに変え得る、彼の出番を――。
コツコツと、控え目にガラス戸を叩く音がする。
さぁ、真打のご登場だ。
ガラス戸が開き、室内の喧騒とともに、にこやかな笑みを湛えたヘンリーが現れた。ガラスが音もなく閉ざされると同時に、ぴんと張りつめた静寂が戻る。
「お邪魔だったかな? 妹と、きみの姿が見えたものだからね」
キャルが嬉しそうに、ヘンリーの腕に自分の腕を絡める。
吉野は内心ほくそ笑んでいた。みるみる内に緊張で引き締まるセドリックの横顔を、観察するかのように見つめていた。
「久しぶりだね」
「お久しぶりです、先輩」
ヘンリーの柔らかな物言いに、セドリックはほっとしたように顔をほころばせている。だが段々と、鮮やかな花が日の翳りとともにゆっくりと萎んでいくように笑みを消し、いつまでたっても差しだされないヘンリーの右手に哀しげな目線を据え、唇を噛む。キャルが訝しげに兄を見上げている。
許している訳ではないのだ、と吉野もまた、この二人の間に流れる殺伐とした空気を眺めていた。
やがて充分な満足を得ると、彼はこの場で初めてにっこりと微笑んだ。
「子爵、ヘンリーが待ってるぞ」
吉野は馴れ馴れしげにセドリックの肩に手をかけ、耳打ちしてやった。言われた本人は怪訝そうに吉野を見、そしてヘンリーに恐る恐る視線を移す。
「もう学生じゃないんだ。そうだろ?」
「しかし、先輩、」
「僕はかまわないよ」
自分に向けられたにこやかな笑みに応えるように、セドリックはおずおずと右手を差しだす。ヘンリーはそれをさらりと握り返す。
なんとも冷ややかな握手だな、と吉野はまたもや笑いを押し殺す羽目になる。
身分はセドリックの方が上なのだ。学生時代の先輩、後輩の上下関係は持ちださない。一見そう示しながら、ヘンリーは、お前は自分がその手を差しだすに値しない男だと、暗に圧力をかけているのだ。どれほど身分が上であろうと、セドリック・ブラッドリーという男は、ヘンリー・ソールスベリーの上に立てる様な高尚な人間ではないのだ、と。
なんとも執念深いことだ、と呆れもするが、ヘンリーがアレンのことを決して無下に思っているのではないことを感じられ、吉野は胸がすく想いだった。
直前までこのパーティーへの出席を明かさなかったヘンリーの思惑通り、この邂逅はセドリックに予想以上の衝撃を与えている。彼にとってのこの五年という歳月は何の意味もなさなかったのだ。
今でもセドリックはヘンリーに精神的に支配され、雁字搦めに縛られている。それを確認できただけで、この場を設けた意味があった、と吉野はほくそ笑んでいた。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる