胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

邂逅1

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バルコニーの手摺りに身を屈めてテムズ川を眺めながら夜風に当たっていた広い背中が、ガラス戸の開かれる音に、特に驚いた様子もなく振り返る。
 高圧的なヒールの音を響かせ歩みよるなり一言の言葉もなく差しだされた白皙の指先に、優雅に身を屈めて唇を寄せる。

「ああ、本当に先輩によく似ておいでだ」
 滑らかな所作で面をあげ、柔らかく細められた碧の瞳に、キャルはようやくゆるやかに口許を緩ませた。
「そうでしょう? よく言われるの。自分でもそう思うわ。あなたとは似ていなくて良かったわ」

 こんなところで――。

 パーティーの行われているフロアからガラス戸で仕切られ、周囲には誰もいないとはいえ、相手の思惑も解らないうちから口にすべき言葉ではないだろうが。
 吉野は二人の会話が聞きとれる程度に距離を置いた位置で手摺りにもたれ、浅はかな女だな、と内心舌打ちする。

 だがそんな事は実際問題としては大したことじゃない。かなめはこの男が、このセドリック・ブラッドリーが――、あれからどれほど変わっているかだ。
 そして、キャルに偶然を装った邂逅を申し込んできたその理由。一部で噂されているような、父親の意を汲んでのものなのか、それとも近い将来に備えてより優位な立場で立ち回れるようにとの地盤固めなのか。理由はいくらでも考えられるけれど、この男に限っては、吉野の思惑を超えた損得勘定のない別の感情が動いた可能性も考えられるのだ。

 今さら、互いの存在を確認する理由は何なのか知りたい、と相応しい場をセッティングしてくれ、とのキャルの依頼を吉野は不承不承受けたのだった。この二人が絡めばアレンが嫌な思いをするであろうことは、容易に想像が及んだのだが。知らぬところで、知らぬ間に、無益な方向に話が進んでいくよりはましだと考え直した。
 もっとも、キャルにしてみれば同じ学校エリオット出身じゃないか、という程度の軽い思いつきでのことでしかないのだが。
 決してにこやかに同じテーブルにつけるような相手ではない自分が仲介に立ったことを、この男は、内心どう思っていることやら。

 適度な距離を保ち、自分自身は会話に参加することもなく、吉野はじっと時を待った。セドリックの思惑など、一瞬でどうでもよいものに変え得る、彼の出番を――。



 コツコツと、控え目にガラス戸を叩く音がする。

 さぁ、真打のご登場だ。


 ガラス戸が開き、室内の喧騒とともに、にこやかな笑みを湛えたヘンリーが現れた。ガラスが音もなく閉ざされると同時に、ぴんと張りつめた静寂が戻る。

「お邪魔だったかな? 妹と、きみの姿が見えたものだからね」

 キャルが嬉しそうに、ヘンリーの腕に自分の腕を絡める。

 吉野は内心ほくそ笑んでいた。みるみる内に緊張で引き締まるセドリックの横顔を、観察するかのように見つめていた。

「久しぶりだね」
「お久しぶりです、先輩」

 ヘンリーの柔らかな物言いに、セドリックはほっとしたように顔をほころばせている。だが段々と、鮮やかな花が日の翳りとともにゆっくりと萎んでいくように笑みを消し、いつまでたっても差しだされないヘンリーの右手に哀しげな目線を据え、唇を噛む。キャルが訝しげに兄を見上げている。
 
 許している訳ではないのだ、と吉野もまた、この二人の間に流れる殺伐とした空気を眺めていた。

 やがて充分な満足を得ると、彼はこの場で初めてにっこりと微笑んだ。

「子爵、ヘンリーが待ってるぞ」

 吉野は馴れ馴れしげにセドリックの肩に手をかけ、耳打ちしてやった。言われた本人は怪訝そうに吉野を見、そしてヘンリーに恐る恐る視線を移す。

「もう学生じゃないんだ。そうだろ?」
「しかし、先輩、」
「僕はかまわないよ」

 自分に向けられたにこやかな笑みに応えるように、セドリックはおずおずと右手を差しだす。ヘンリーはそれをさらりと握り返す。

 なんとも冷ややかな握手だな、と吉野はまたもや笑いを押し殺す羽目になる。


 身分はセドリックの方が上なのだ。学生時代の先輩、後輩の上下関係は持ちださない。一見そう示しながら、ヘンリーは、お前は自分がその手を差しだすに値しない男だと、暗に圧力をかけているのだ。どれほど身分が上であろうと、セドリック・ブラッドリーという男は、ヘンリー自分・ソールスベリーの上に立てる様な高尚な人間ではないのだ、と。

 なんとも執念深いことだ、と呆れもするが、ヘンリーがアレンのことを決して無下に思っているのではないことを感じられ、吉野は胸がすく想いだった。

 直前までこのパーティーへの出席を明かさなかったヘンリーの思惑通り、この邂逅はセドリックに予想以上の衝撃を与えている。彼にとってのこの五年という歳月は何の意味もなさなかったのだ。
 今でもセドリックはヘンリーに精神的に支配され、雁字搦がんじがらめに縛られている。それを確認できただけで、この場を設けた意味があった、と吉野はほくそ笑んでいた。





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