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九章
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「アスカちゃん! どうしたの、珍しい!」
アーカシャーHDロンドン本店の重厚なドアをくぐり、店内をゆっくりと見回す飛鳥に、聞き慣れた頓狂な声がかかる。
「あれ、デイヴ、来てたんだ? 休暇中だと思ってたよ」と、飛鳥は声の主のいるイベント・コーナーに足を向けた。
初期はフラットだったこのコーナーも、今では度重なる乱入者にサークル状の手摺りが置かれ、内側の映像を鑑賞する形に変えられている。デヴィッドはその手摺りの前で、人目もはばからず手を振っている。
「この時期にそうそう休んでなんていられないって」
大袈裟なため息に、飛鳥は曖昧な笑みを浮かべて顔を強張らせる。自分の不調のしわ寄せが周囲に波及しているのでは、とそんな申し訳なさで身のすくむ思いだった。
「アスカちゃんは? わざわざ出てくるなんて、何かあるの?」
「近くまで来たからさ、久しぶりに店舗の様子を見にきただけだよ」
柔らかなBGMの流れる店内は、そこそこの客入りで賑わっている。だが、ロンドン恒例のクリスマス明けバーゲンセールは行っていないので、この通りの並びにある他店のように、人でごった返すというほどでもない。他の買い物のついでに寄った、という感じだろうか。
「また睡蓮池に戻したんだね」
そういえば、今年はクリスマス時期にあわせた新作のTS映像を作らなかったな、と飛鳥はデヴィッドと並び手摺りに手を添えて、眼前の透き通る羽を背にしたアレンの映像を感慨深げに眺める。
「十二月はこれのリクエストが多くてねぇ。月末まではこれ! 年明け用の新作はあがっているんだ。でも、今ひとつ気に入らなくてさぁ」
腕組みしてデヴィッドは、映像を睨みつけるように厳しく見据えている。
「どんなの? 君たちの初仕事になるんだろ? 楽しみにしているんだ」
インテリア部門に進出が決まり、デヴィッドが責任者としてチームを作り進めていくになった。企画は任せるとはいっても、技術面での飛鳥の負担がこれまで以上に大きくなるのは想像に難くない。そのためこういった店舗ディスプレイや規模の小さなTS映像制作は、飛鳥の手を離れデヴィッドやアレンのデザインを基に、本社技術班が制作することになったのだ。
まだ正式発表には至っていないインテリア部門に先駆けて、このイベント・コーナーが、彼ら初の映像作品発表の場となる予定なのだ。
「完成度は高いと思うんだけどさ、物足りないんだよ! アスカちゃん、時間あるなら見てくれる?」
デヴィッドたちの作品に口を出すような真似はしたくない。だが、技術的に自分が手伝えることがあればと、飛鳥はまず躊躇し、それから「もちろん」と快諾した。
その場を離れ、二階に続くプライベートエリアへのドアに手をかけた時、「アスカ・トヅキだ! 本物だ!」と、またもや頓狂な声に呼び止められた。思わず驚いて振り返ったが、飛鳥はその声の主には覚えがない。
自分がメディアに顔をだしたのは、まだ学生時分の、この本店オープン時にヘンリーの代理で出席した記者会見だけだ。それ以降はヘンリーの意向で写真や映像さえ晒すことはなく、一般で自分を知る者は限られているはずなのに――。
訝しんで見つめる相手は、満面の笑顔で大股で飛鳥に歩みより、差し出されてもいないその手を両手で握りしめる。
「やぁ、光栄だなぁ! ロンドンに来るなりあなたに逢えるなんて! 僕は本当にラッキーだ!」
「はぁ、どうも」
とりあえず呟いた飛鳥だったが、その肩をデヴィッドが背中から腕を回して抱えこむ。露骨に目の前の男への警戒感を示していた。
「初めまして。カールトンさん。握手を求めるのなら、まず名乗るのが英国流なのですがね。アメリカ人のあなたがご存知なくても仕方がないことかも知れませんが」
ことさらケンブリッジ・アクセントを強調して発せられた、デヴィッドらしくない物言いと、冷たい声音。そしてなによりも、呼びかけられた目前の青年のその名前に、飛鳥の背中は凍りついた。
この男が、リック・カールトンの息子……。
ヘンリーに写真を見せてもらったはずなのに、記憶の片隅にも残っていなかった。もともと飛鳥は人の顔と名前を覚えるのは苦手である。だがそのせいだけではない。喧しく積極的であるにも拘わらず、この人物は、記憶にも残らないような凡庸な印象しか与えないのだ。宿敵ともいえる彼の父親、リック・カールトンと違って。
ぼんやりと彼に関するヘンリーとの会話の記憶を探っている間も、デヴィッドはこのいささか図々しいともいえる珍客を、皮肉交じりの言葉であしらっている。だが、相手はまるで堪えた様子も見せず、いや、嫌味を言われている事にすら気づいていないのかも知れないが、デヴィッドをほぼ無視して飛鳥に話かけているのだ。
「ラスベガスの見本市で、今のTSの原型ともいえるタブレット端末の発表を見た時から、ずっとあなたのファンだったんですよ!」
「はぁ、それはどうも……」
確かヘンリーは、この彼と吉野が共同事業を立ちあげる話をしてはいなかったか?だが、つい今しがた聞いてきたばかりのサウード殿下の許では、そんな話は出なかった。吉野の口からも。
飛鳥はついそのことに捉われ、尋ねようと口に出す。
「あの、吉野ときみは、」
「そうそう! 僕たちは本当に気の合う友人同士でね、お兄さん。こうして、英国くんだりまで、わざわざ彼に逢いにきたんですよ! で、彼、どこにいるんですか?」
狐に摘ままれたような顔をしている飛鳥の横で、デヴィッドは露骨に顔をしかめている。
「カールトンさん、申し訳ないが仕事中なんだ。失礼するよ」と飛鳥の肩を抱いたまま、デヴィッドは強引に踵を返した。
「あの天使! 彼の弟もここにいるんですよね! ついでに、キャルと一緒に逢いにいきますよ! 未来の弟にそう伝えておいて下さい!」
バタンと大きな音を立てて閉まるドアの向こう側で、彼はまだ何か叫んでいる。掴まれた肩の痛みに顔をしかめ、飛鳥はデヴィッドを恐々と見上げた。唇をわななかせて、彼は、これまでの飛鳥が見たことがないほど、ヘーゼルの瞳を黄金色にたぎらせていた。
アーカシャーHDロンドン本店の重厚なドアをくぐり、店内をゆっくりと見回す飛鳥に、聞き慣れた頓狂な声がかかる。
「あれ、デイヴ、来てたんだ? 休暇中だと思ってたよ」と、飛鳥は声の主のいるイベント・コーナーに足を向けた。
初期はフラットだったこのコーナーも、今では度重なる乱入者にサークル状の手摺りが置かれ、内側の映像を鑑賞する形に変えられている。デヴィッドはその手摺りの前で、人目もはばからず手を振っている。
「この時期にそうそう休んでなんていられないって」
大袈裟なため息に、飛鳥は曖昧な笑みを浮かべて顔を強張らせる。自分の不調のしわ寄せが周囲に波及しているのでは、とそんな申し訳なさで身のすくむ思いだった。
「アスカちゃんは? わざわざ出てくるなんて、何かあるの?」
「近くまで来たからさ、久しぶりに店舗の様子を見にきただけだよ」
柔らかなBGMの流れる店内は、そこそこの客入りで賑わっている。だが、ロンドン恒例のクリスマス明けバーゲンセールは行っていないので、この通りの並びにある他店のように、人でごった返すというほどでもない。他の買い物のついでに寄った、という感じだろうか。
「また睡蓮池に戻したんだね」
そういえば、今年はクリスマス時期にあわせた新作のTS映像を作らなかったな、と飛鳥はデヴィッドと並び手摺りに手を添えて、眼前の透き通る羽を背にしたアレンの映像を感慨深げに眺める。
「十二月はこれのリクエストが多くてねぇ。月末まではこれ! 年明け用の新作はあがっているんだ。でも、今ひとつ気に入らなくてさぁ」
腕組みしてデヴィッドは、映像を睨みつけるように厳しく見据えている。
「どんなの? 君たちの初仕事になるんだろ? 楽しみにしているんだ」
インテリア部門に進出が決まり、デヴィッドが責任者としてチームを作り進めていくになった。企画は任せるとはいっても、技術面での飛鳥の負担がこれまで以上に大きくなるのは想像に難くない。そのためこういった店舗ディスプレイや規模の小さなTS映像制作は、飛鳥の手を離れデヴィッドやアレンのデザインを基に、本社技術班が制作することになったのだ。
まだ正式発表には至っていないインテリア部門に先駆けて、このイベント・コーナーが、彼ら初の映像作品発表の場となる予定なのだ。
「完成度は高いと思うんだけどさ、物足りないんだよ! アスカちゃん、時間あるなら見てくれる?」
デヴィッドたちの作品に口を出すような真似はしたくない。だが、技術的に自分が手伝えることがあればと、飛鳥はまず躊躇し、それから「もちろん」と快諾した。
その場を離れ、二階に続くプライベートエリアへのドアに手をかけた時、「アスカ・トヅキだ! 本物だ!」と、またもや頓狂な声に呼び止められた。思わず驚いて振り返ったが、飛鳥はその声の主には覚えがない。
自分がメディアに顔をだしたのは、まだ学生時分の、この本店オープン時にヘンリーの代理で出席した記者会見だけだ。それ以降はヘンリーの意向で写真や映像さえ晒すことはなく、一般で自分を知る者は限られているはずなのに――。
訝しんで見つめる相手は、満面の笑顔で大股で飛鳥に歩みより、差し出されてもいないその手を両手で握りしめる。
「やぁ、光栄だなぁ! ロンドンに来るなりあなたに逢えるなんて! 僕は本当にラッキーだ!」
「はぁ、どうも」
とりあえず呟いた飛鳥だったが、その肩をデヴィッドが背中から腕を回して抱えこむ。露骨に目の前の男への警戒感を示していた。
「初めまして。カールトンさん。握手を求めるのなら、まず名乗るのが英国流なのですがね。アメリカ人のあなたがご存知なくても仕方がないことかも知れませんが」
ことさらケンブリッジ・アクセントを強調して発せられた、デヴィッドらしくない物言いと、冷たい声音。そしてなによりも、呼びかけられた目前の青年のその名前に、飛鳥の背中は凍りついた。
この男が、リック・カールトンの息子……。
ヘンリーに写真を見せてもらったはずなのに、記憶の片隅にも残っていなかった。もともと飛鳥は人の顔と名前を覚えるのは苦手である。だがそのせいだけではない。喧しく積極的であるにも拘わらず、この人物は、記憶にも残らないような凡庸な印象しか与えないのだ。宿敵ともいえる彼の父親、リック・カールトンと違って。
ぼんやりと彼に関するヘンリーとの会話の記憶を探っている間も、デヴィッドはこのいささか図々しいともいえる珍客を、皮肉交じりの言葉であしらっている。だが、相手はまるで堪えた様子も見せず、いや、嫌味を言われている事にすら気づいていないのかも知れないが、デヴィッドをほぼ無視して飛鳥に話かけているのだ。
「ラスベガスの見本市で、今のTSの原型ともいえるタブレット端末の発表を見た時から、ずっとあなたのファンだったんですよ!」
「はぁ、それはどうも……」
確かヘンリーは、この彼と吉野が共同事業を立ちあげる話をしてはいなかったか?だが、つい今しがた聞いてきたばかりのサウード殿下の許では、そんな話は出なかった。吉野の口からも。
飛鳥はついそのことに捉われ、尋ねようと口に出す。
「あの、吉野ときみは、」
「そうそう! 僕たちは本当に気の合う友人同士でね、お兄さん。こうして、英国くんだりまで、わざわざ彼に逢いにきたんですよ! で、彼、どこにいるんですか?」
狐に摘ままれたような顔をしている飛鳥の横で、デヴィッドは露骨に顔をしかめている。
「カールトンさん、申し訳ないが仕事中なんだ。失礼するよ」と飛鳥の肩を抱いたまま、デヴィッドは強引に踵を返した。
「あの天使! 彼の弟もここにいるんですよね! ついでに、キャルと一緒に逢いにいきますよ! 未来の弟にそう伝えておいて下さい!」
バタンと大きな音を立てて閉まるドアの向こう側で、彼はまだ何か叫んでいる。掴まれた肩の痛みに顔をしかめ、飛鳥はデヴィッドを恐々と見上げた。唇をわななかせて、彼は、これまでの飛鳥が見たことがないほど、ヘーゼルの瞳を黄金色にたぎらせていた。
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