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九章
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サウード皇太子殿下が飛鳥に指定したのは、吉野が滞在しているというハムステッドの彼の私邸ではなく、テムズ川沿いの高級ホテルだった。
フロントで要件を告げると、直ぐにアラブの民族服を着た殿下の部下らしい男が現れ、優雅な身のこなしで飛鳥を部屋まで引率してくれた。
ドアを開けるとまず飛び込んでくる大きな窓と、その向こうにそびえ立つ大観覧車に圧倒される。吉野の話していた通りの風景が眼前に広がる。白と金で統一された上品なインテリアに囲まれたサウード殿下が、にこやかな笑みを湛えて腕を広げ、自分を歓待してくれている。
これが吉野の日常なのか、と飛鳥は緊張に身を強張らせながら、顔に笑みを貼りつかせる。
ヘンリーのマナー・ハウスだって、そう変わらないじゃないか。
上品で鷹揚な笑みを浮かべる皇太子に、ヘンリーの姿を重ねて思いだす。彼もまた王族である彼と並び立っても遜色ない、次期伯爵なのであった、と。とてもじゃないが、なぜこの殿下の傍らにいるのが吉野なのか。今さらながら思わずにはいられない。ヘンリーの横に立つのが自分である不思議と同じように。
初めて彼に逢ったのは吉野の行きつけのパブだった。その頃は皆、同じエリオットの生徒で。自分とヘンリーも同じ。学校という不思議な器が本来なら関わりあうことのない者同士を結びつけた。
飛鳥は抗い難い運命というものを、それにただ流されるままに過ぎない卑小な自分を自覚しながら、穏やかな佇まいのサウードに向きあっていた。穏やかでありながら、彼の生きる、静謐な無音の世界である砂漠を連想させる乾いた空気に身が引き締まる。
「先日はお越しいただき、ありがとうございました。あの場ではゆっくりお話しできずじまいで、こうして僕の我がままにお時間を割いてくださり感謝の念にたえません」
「僕の方こそ、あなたとゆっくりお話ししたかったのです。ヨシノが敬愛し、尊敬してやまない方なのですから」
「その吉野のことで、率直にお訊ねしたいことがあり、こうしてまいりました。それで、」
飛鳥はサウードの背後に控える側近にちらりと目をやる。
「彼は僕の腹心です。聴かれて困る事は一切ありません。もし彼を下がらせるなら、あなたが帰られた後、僕はここでした会話をもう一度再現しなければならなくなるでしょう」
彼ほどの身分になると、プライバシーなどあってないようなものなのだろう、と飛鳥は緊張に身を固くしながらぐっと自分の膝を掴み、頷く。
だが、吉野のプライバシーは?
吉野の王宮での立ち位置はどうなっているのだ?
殿下が吉野を信任してくれているのは解るが、はたしてそれは王宮の意志でもあるのか――。
サウード本人を目の前にして、これまで自分を突き動かしていた吉野への疑惑が萎えていくのを、飛鳥は唐突に感じていた。
王宮での吉野の仕事ぶりを教えて欲しいという飛鳥の願いに、サウードは笑みを湛えて誇らしげに、その業務や、国を挙げて推進中のプロジェクトについて答えてくれた。杜月吉野という才能に出逢えたことは、神が自分に与えてくれた最大の恵みである、と。
人を相手にするのは、数字を相手にするのとは違う。
いくら多感な少年期をともに過ごした学友であるとはいえ、国を背負うサウードが、いまだ一学生にすぎない吉野をこうも信頼し、未来への希望に瞳を輝かせて語るとは、飛鳥には予想外のことだった。
サウード殿下と吉野とでは、あまりにも違いすぎる。この堂々として、決して向きあう者に弱みを晒すことのない毅然とした皇太子を、あの吉野が自分の私欲のために騙すなどと、そしてこの殿下が騙されるなどと、想像した自分が愚かだった、と飛鳥はそう思わざるをえなかった。
国を想う殿下の真摯な姿勢に吉野が打たれ、あらん限りの知恵を絞ってその夢をともに生きている。そういうことなのだと信じずにはいられない。邪な想いなど初めからなかったのだ、と。
「以前よりは落ち着いたとはいっても、僕の国はいまだ政情不安の中にあります。お兄上のご心痛はいかばかりかと常々憂いておりました。ですが、これだけはお約束いたします。彼の命、彼の身辺だけは何があろうと守りぬきます。どうかもうしばらく、彼の身柄を僕たちに預からせてください」
皇太子殿下自ら請われ、いやだめだ、などと言えるだろうか?
こうまで信頼され求められている吉野は、自分の知らない間に、自身の生きる場所を得て心のままに歩める道を見つけたのだ。
その事実を認めるのが嫌で、自分は吉野の高潔な想いを懐疑的に貶めていただけなのだ。
飛鳥は、いつまでも自分の眼の届く範囲にいる手のかかる弟であって欲しい、と願う自分の心の内の身勝手な願いに苦笑せずにはいられなくなった。その口許を、そして居住まいを正してサウードに向きあい頭を下げる。
「それがあいつの意志でもあるのなら、僕はいつだってあいつを応援してやりたいと思っています。吉野をよろしくお願いします」
固くアラブ式の抱擁を交わして飛鳥が帰った後、閉め切られた扉をぼんやりと眺めてサウードは深く息を継いだ。
「イスハーク、彼は心の綺麗な人だね」
「彼の兄とはとても思えない」
「似ているよ。真っ直ぐな瞳が、とても似ている」
そのままゴロリと横になり、サウードは小さな声で含み笑った。
「これでヨシノの憂いは晴れたかな? ヤレヤレだよ。彼は誰の味方なんだろうね? 英国かな? アラブ世界ではないだろう? でも、日本でないことだけは確かだね。ヨシノにしても――」
「自分を守ってくれる者が何なのか、骨身に染みて解っているからだろう」
「そうだね。そういう面では、彼は僕たちと同じだ」
目を閉じて、サウードは薄らと微笑んだ。
胸の内で、今日のこの会談をアレンが知ったならどうするだろう? あの美しい顔を歪めてまた一人泣くのだろうか、と、微かな高揚感を覚えながら。
フロントで要件を告げると、直ぐにアラブの民族服を着た殿下の部下らしい男が現れ、優雅な身のこなしで飛鳥を部屋まで引率してくれた。
ドアを開けるとまず飛び込んでくる大きな窓と、その向こうにそびえ立つ大観覧車に圧倒される。吉野の話していた通りの風景が眼前に広がる。白と金で統一された上品なインテリアに囲まれたサウード殿下が、にこやかな笑みを湛えて腕を広げ、自分を歓待してくれている。
これが吉野の日常なのか、と飛鳥は緊張に身を強張らせながら、顔に笑みを貼りつかせる。
ヘンリーのマナー・ハウスだって、そう変わらないじゃないか。
上品で鷹揚な笑みを浮かべる皇太子に、ヘンリーの姿を重ねて思いだす。彼もまた王族である彼と並び立っても遜色ない、次期伯爵なのであった、と。とてもじゃないが、なぜこの殿下の傍らにいるのが吉野なのか。今さらながら思わずにはいられない。ヘンリーの横に立つのが自分である不思議と同じように。
初めて彼に逢ったのは吉野の行きつけのパブだった。その頃は皆、同じエリオットの生徒で。自分とヘンリーも同じ。学校という不思議な器が本来なら関わりあうことのない者同士を結びつけた。
飛鳥は抗い難い運命というものを、それにただ流されるままに過ぎない卑小な自分を自覚しながら、穏やかな佇まいのサウードに向きあっていた。穏やかでありながら、彼の生きる、静謐な無音の世界である砂漠を連想させる乾いた空気に身が引き締まる。
「先日はお越しいただき、ありがとうございました。あの場ではゆっくりお話しできずじまいで、こうして僕の我がままにお時間を割いてくださり感謝の念にたえません」
「僕の方こそ、あなたとゆっくりお話ししたかったのです。ヨシノが敬愛し、尊敬してやまない方なのですから」
「その吉野のことで、率直にお訊ねしたいことがあり、こうしてまいりました。それで、」
飛鳥はサウードの背後に控える側近にちらりと目をやる。
「彼は僕の腹心です。聴かれて困る事は一切ありません。もし彼を下がらせるなら、あなたが帰られた後、僕はここでした会話をもう一度再現しなければならなくなるでしょう」
彼ほどの身分になると、プライバシーなどあってないようなものなのだろう、と飛鳥は緊張に身を固くしながらぐっと自分の膝を掴み、頷く。
だが、吉野のプライバシーは?
吉野の王宮での立ち位置はどうなっているのだ?
殿下が吉野を信任してくれているのは解るが、はたしてそれは王宮の意志でもあるのか――。
サウード本人を目の前にして、これまで自分を突き動かしていた吉野への疑惑が萎えていくのを、飛鳥は唐突に感じていた。
王宮での吉野の仕事ぶりを教えて欲しいという飛鳥の願いに、サウードは笑みを湛えて誇らしげに、その業務や、国を挙げて推進中のプロジェクトについて答えてくれた。杜月吉野という才能に出逢えたことは、神が自分に与えてくれた最大の恵みである、と。
人を相手にするのは、数字を相手にするのとは違う。
いくら多感な少年期をともに過ごした学友であるとはいえ、国を背負うサウードが、いまだ一学生にすぎない吉野をこうも信頼し、未来への希望に瞳を輝かせて語るとは、飛鳥には予想外のことだった。
サウード殿下と吉野とでは、あまりにも違いすぎる。この堂々として、決して向きあう者に弱みを晒すことのない毅然とした皇太子を、あの吉野が自分の私欲のために騙すなどと、そしてこの殿下が騙されるなどと、想像した自分が愚かだった、と飛鳥はそう思わざるをえなかった。
国を想う殿下の真摯な姿勢に吉野が打たれ、あらん限りの知恵を絞ってその夢をともに生きている。そういうことなのだと信じずにはいられない。邪な想いなど初めからなかったのだ、と。
「以前よりは落ち着いたとはいっても、僕の国はいまだ政情不安の中にあります。お兄上のご心痛はいかばかりかと常々憂いておりました。ですが、これだけはお約束いたします。彼の命、彼の身辺だけは何があろうと守りぬきます。どうかもうしばらく、彼の身柄を僕たちに預からせてください」
皇太子殿下自ら請われ、いやだめだ、などと言えるだろうか?
こうまで信頼され求められている吉野は、自分の知らない間に、自身の生きる場所を得て心のままに歩める道を見つけたのだ。
その事実を認めるのが嫌で、自分は吉野の高潔な想いを懐疑的に貶めていただけなのだ。
飛鳥は、いつまでも自分の眼の届く範囲にいる手のかかる弟であって欲しい、と願う自分の心の内の身勝手な願いに苦笑せずにはいられなくなった。その口許を、そして居住まいを正してサウードに向きあい頭を下げる。
「それがあいつの意志でもあるのなら、僕はいつだってあいつを応援してやりたいと思っています。吉野をよろしくお願いします」
固くアラブ式の抱擁を交わして飛鳥が帰った後、閉め切られた扉をぼんやりと眺めてサウードは深く息を継いだ。
「イスハーク、彼は心の綺麗な人だね」
「彼の兄とはとても思えない」
「似ているよ。真っ直ぐな瞳が、とても似ている」
そのままゴロリと横になり、サウードは小さな声で含み笑った。
「これでヨシノの憂いは晴れたかな? ヤレヤレだよ。彼は誰の味方なんだろうね? 英国かな? アラブ世界ではないだろう? でも、日本でないことだけは確かだね。ヨシノにしても――」
「自分を守ってくれる者が何なのか、骨身に染みて解っているからだろう」
「そうだね。そういう面では、彼は僕たちと同じだ」
目を閉じて、サウードは薄らと微笑んだ。
胸の内で、今日のこの会談をアレンが知ったならどうするだろう? あの美しい顔を歪めてまた一人泣くのだろうか、と、微かな高揚感を覚えながら。
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