胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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 門から姿を追えなくなる程度に離れると、吉野はすっとアレンの肩から腕を外した。ふっと軽くなった肩を、アレンは心許無い様子でわずかに強張らせる。

 何も言ってくれない吉野がもどかしい。けれど、自分から訊ねる事はできなかった。キャルに関する話はもう済んでいるのだ。何度も蒸し返すなんて吉野が嫌がる。でも――。
 心中のいかんともし難い葛藤を映した瞳を伏せ、アレンは足元ばかりを見つめている。

 玄関口まで来たところで、吉野は思案げに煌々とした灯りを湛えた館を見上げ、立ち止まった。アレンもまた。だが彼は、吉野とは逆に薄闇色の地面に目を据えたままだ。全身の神経を逆立てて、吉野の方から何か言ってくれるのを待っているように、じっと動かない。

「お前、何だか変だな」
 苦笑気味の声音で降ってきたのは、そんな言葉で。
「変かな?」
 アレンはぎこちなく笑いながら首をかしげる。
「そんな気になるなら訊けよ。そんなふうに黙り込まれると、俺って信用ないんだな、って虚しくなる」
 そっと見上げた吉野の瞳は、苛立たしげに空を睨んでいる。
「信じているから訊けないんだよ。だって、キャルの話はもう済んでいるじゃないか」
「あいつは俺に逢いにきたんじゃないからな」

 吉野の吐き捨てるような口調に、アレンは「え?」と、戸惑いを隠せず呟いた。じゃあ、何で? まさか本当にサラのお祝いにきたとでもいうのだろうか?

「ニューイヤーパーティーのエスコートを頼まれているんだ。逢いたいやつに逢うためのさ」

 キャルの逢いたい相手……。

 きみしか考えられない。と、喉元まで出かかった時、吉野にうなじをぐっと掴まれた。驚いて反射的に向けた訝しむ瞳を真っ直ぐに覗き込まれ、告げられ名前に全身の力が抜ける。

 セドリック・ブラッドリー。

 うなじから肩に滑らされた吉野の腕が自分を支えてくれているのを感じて、アレンは思い切り息を吸い込んで姿勢を正した。

「それは、どんな集まりなの?」
 平静さを装ったつもりでも、声は掠れて力なかった。
「うちの大使館主催のパーティーだよ」

 ――。わずかな言葉が癇に障る。吉野との距離を思い知らされる。手を伸ばせば触れあえるほど傍にいるというのに。

 アレンはすいっと身体を避け、玄関に足を向け歩きだした。
「兄は知っているの? きみのこと、」

 言いかけて口を噤んだ。ヘンリーが吉野の行動を疑っているなんて、自分の口から漏らして良いはずがない。

「今から話す。場合によっちゃあ、あいつにも来てもらうかも知れないしな」
「僕も行っていい?」

 肩越しに向けられているアレンの色のない面を、吉野は眉を寄せて見つめ返した。

「だめだ」
「どうして?」
「言わせるのか、俺に?」

 アレンは薄く笑みを刷いて、身体ごと吉野に向き直る。

「サウードの国のパーティーなら、キャルはフェイラーを代表して行くんだろ? それなら僕の方が相応しいはずだよ。サウードとの円満な交友関係だってアピールできるし」
「だめだ」

 なぜ、とは繰り返さず、首を軽くかしげたアレンに、吉野は厳しく結ばれた口許を無理にこじ開けるように引きつらせた。

「俺が辛い」
「僕は平気だよ」
「俺が、嫌なんだ」

 アレンの頬がふわりと微笑む。吉野はくしゃりとその頭を平手で小突いた。


「やっぱさぁ、ヘンリーは俺のこと信じてないんだろ? ホント、面倒くせーなぁ、あいつ」

 そのままアレンの肩に腕を投げかけ歩きだしながら、吉野は唐突にぼやき始めた。

「まさに英国人ブリティッシュだよなぁ。なぁ、お前、そう思わないか?」
「そう? 兄は兄だよ。英国人って括りで意識したことはないけどなぁ」

 ――英国人。

 ふと、その言葉が引っ掛かった。今日、二度目だ。一度目は、クリス。あれは、どういう意味だったのだろう? と、気に掛かりはしたものの、珍しく兄のことを愚痴る吉野に気を取られ、その断片はすぐに記憶の海に呑み込まれてしまった。

 それよりも、急にこの地を訪れた姉のこと、ブラッドリーのこと、そしてサウード。次々と積み上がっていく、整理しきれない現実に眩暈がしそうだ。

 吉野がいてくれても。
 こうして支えてくれていても。

 考えなければならないのは自分自身で、これは自分の問題なのだと、アレンはきゅっと奥歯を噛みしめる。

 他人の思惑に流されていてはだめなのだ。

 吉野を誰にも渡したくないと感じている自分を、アレンは初めて痛烈に意識していた。それは今まで感じたことのない、自分自身の底から湧き上がってくるような激しく熱を持った想いで、そのくせ甘やかでやるせなく、抵抗できないほどにアレン自身を捉えていた。突然の心境の変化に戸惑いながら、その感情に身を浸している自分に確かな悦楽を感じて、アレンは傍らの吉野に悟られまいと表情を引きしめる。


 和やかな空気に包まれた居間に吉野と並んで足を踏み入れながら、アレンは、これまで以上に緊張した面持ちで、その場にいる面々を眺めまわした。


 

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