617 / 753
九章
5
しおりを挟む
門から姿を追えなくなる程度に離れると、吉野はすっとアレンの肩から腕を外した。ふっと軽くなった肩を、アレンは心許無い様子でわずかに強張らせる。
何も言ってくれない吉野がもどかしい。けれど、自分から訊ねる事はできなかった。キャルに関する話はもう済んでいるのだ。何度も蒸し返すなんて吉野が嫌がる。でも――。
心中のいかんともし難い葛藤を映した瞳を伏せ、アレンは足元ばかりを見つめている。
玄関口まで来たところで、吉野は思案げに煌々とした灯りを湛えた館を見上げ、立ち止まった。アレンもまた。だが彼は、吉野とは逆に薄闇色の地面に目を据えたままだ。全身の神経を逆立てて、吉野の方から何か言ってくれるのを待っているように、じっと動かない。
「お前、何だか変だな」
苦笑気味の声音で降ってきたのは、そんな言葉で。
「変かな?」
アレンはぎこちなく笑いながら首をかしげる。
「そんな気になるなら訊けよ。そんなふうに黙り込まれると、俺って信用ないんだな、って虚しくなる」
そっと見上げた吉野の瞳は、苛立たしげに空を睨んでいる。
「信じているから訊けないんだよ。だって、キャルの話はもう済んでいるじゃないか」
「あいつは俺に逢いにきたんじゃないからな」
吉野の吐き捨てるような口調に、アレンは「え?」と、戸惑いを隠せず呟いた。じゃあ、何で? まさか本当にサラのお祝いにきたとでもいうのだろうか?
「ニューイヤーパーティーのエスコートを頼まれているんだ。逢いたいやつに逢うためのさ」
キャルの逢いたい相手……。
きみしか考えられない。と、喉元まで出かかった時、吉野にうなじをぐっと掴まれた。驚いて反射的に向けた訝しむ瞳を真っ直ぐに覗き込まれ、告げられ名前に全身の力が抜ける。
セドリック・ブラッドリー。
うなじから肩に滑らされた吉野の腕が自分を支えてくれているのを感じて、アレンは思い切り息を吸い込んで姿勢を正した。
「それは、どんな集まりなの?」
平静さを装ったつもりでも、声は掠れて力なかった。
「うちの大使館主催のパーティーだよ」
うちの――。わずかな言葉が癇に障る。吉野との距離を思い知らされる。手を伸ばせば触れあえるほど傍にいるというのに。
アレンはすいっと身体を避け、玄関に足を向け歩きだした。
「兄は知っているの? きみのこと、」
言いかけて口を噤んだ。ヘンリーが吉野の行動を疑っているなんて、自分の口から漏らして良いはずがない。
「今から話す。場合によっちゃあ、あいつにも来てもらうかも知れないしな」
「僕も行っていい?」
肩越しに向けられているアレンの色のない面を、吉野は眉を寄せて見つめ返した。
「だめだ」
「どうして?」
「言わせるのか、俺に?」
アレンは薄く笑みを刷いて、身体ごと吉野に向き直る。
「サウードの国のパーティーなら、キャルはフェイラーを代表して行くんだろ? それなら僕の方が相応しいはずだよ。サウードとの円満な交友関係だってアピールできるし」
「だめだ」
なぜ、とは繰り返さず、首を軽くかしげたアレンに、吉野は厳しく結ばれた口許を無理にこじ開けるように引きつらせた。
「俺が辛い」
「僕は平気だよ」
「俺が、嫌なんだ」
アレンの頬がふわりと微笑む。吉野はくしゃりとその頭を平手で小突いた。
「やっぱさぁ、ヘンリーは俺のこと信じてないんだろ? ホント、面倒くせーなぁ、あいつ」
そのままアレンの肩に腕を投げかけ歩きだしながら、吉野は唐突にぼやき始めた。
「まさに英国人だよなぁ。なぁ、お前、そう思わないか?」
「そう? 兄は兄だよ。英国人って括りで意識したことはないけどなぁ」
――英国人。
ふと、その言葉が引っ掛かった。今日、二度目だ。一度目は、クリス。あれは、どういう意味だったのだろう? と、気に掛かりはしたものの、珍しく兄のことを愚痴る吉野に気を取られ、その断片はすぐに記憶の海に呑み込まれてしまった。
それよりも、急にこの地を訪れた姉のこと、ブラッドリーのこと、そしてサウード。次々と積み上がっていく、整理しきれない現実に眩暈がしそうだ。
吉野がいてくれても。
こうして支えてくれていても。
考えなければならないのは自分自身で、これは自分の問題なのだと、アレンはきゅっと奥歯を噛みしめる。
他人の思惑に流されていてはだめなのだ。
吉野を誰にも渡したくないと感じている自分を、アレンは初めて痛烈に意識していた。それは今まで感じたことのない、自分自身の底から湧き上がってくるような激しく熱を持った想いで、そのくせ甘やかでやるせなく、抵抗できないほどにアレン自身を捉えていた。突然の心境の変化に戸惑いながら、その感情に身を浸している自分に確かな悦楽を感じて、アレンは傍らの吉野に悟られまいと表情を引きしめる。
和やかな空気に包まれた居間に吉野と並んで足を踏み入れながら、アレンは、これまで以上に緊張した面持ちで、その場にいる面々を眺めまわした。
何も言ってくれない吉野がもどかしい。けれど、自分から訊ねる事はできなかった。キャルに関する話はもう済んでいるのだ。何度も蒸し返すなんて吉野が嫌がる。でも――。
心中のいかんともし難い葛藤を映した瞳を伏せ、アレンは足元ばかりを見つめている。
玄関口まで来たところで、吉野は思案げに煌々とした灯りを湛えた館を見上げ、立ち止まった。アレンもまた。だが彼は、吉野とは逆に薄闇色の地面に目を据えたままだ。全身の神経を逆立てて、吉野の方から何か言ってくれるのを待っているように、じっと動かない。
「お前、何だか変だな」
苦笑気味の声音で降ってきたのは、そんな言葉で。
「変かな?」
アレンはぎこちなく笑いながら首をかしげる。
「そんな気になるなら訊けよ。そんなふうに黙り込まれると、俺って信用ないんだな、って虚しくなる」
そっと見上げた吉野の瞳は、苛立たしげに空を睨んでいる。
「信じているから訊けないんだよ。だって、キャルの話はもう済んでいるじゃないか」
「あいつは俺に逢いにきたんじゃないからな」
吉野の吐き捨てるような口調に、アレンは「え?」と、戸惑いを隠せず呟いた。じゃあ、何で? まさか本当にサラのお祝いにきたとでもいうのだろうか?
「ニューイヤーパーティーのエスコートを頼まれているんだ。逢いたいやつに逢うためのさ」
キャルの逢いたい相手……。
きみしか考えられない。と、喉元まで出かかった時、吉野にうなじをぐっと掴まれた。驚いて反射的に向けた訝しむ瞳を真っ直ぐに覗き込まれ、告げられ名前に全身の力が抜ける。
セドリック・ブラッドリー。
うなじから肩に滑らされた吉野の腕が自分を支えてくれているのを感じて、アレンは思い切り息を吸い込んで姿勢を正した。
「それは、どんな集まりなの?」
平静さを装ったつもりでも、声は掠れて力なかった。
「うちの大使館主催のパーティーだよ」
うちの――。わずかな言葉が癇に障る。吉野との距離を思い知らされる。手を伸ばせば触れあえるほど傍にいるというのに。
アレンはすいっと身体を避け、玄関に足を向け歩きだした。
「兄は知っているの? きみのこと、」
言いかけて口を噤んだ。ヘンリーが吉野の行動を疑っているなんて、自分の口から漏らして良いはずがない。
「今から話す。場合によっちゃあ、あいつにも来てもらうかも知れないしな」
「僕も行っていい?」
肩越しに向けられているアレンの色のない面を、吉野は眉を寄せて見つめ返した。
「だめだ」
「どうして?」
「言わせるのか、俺に?」
アレンは薄く笑みを刷いて、身体ごと吉野に向き直る。
「サウードの国のパーティーなら、キャルはフェイラーを代表して行くんだろ? それなら僕の方が相応しいはずだよ。サウードとの円満な交友関係だってアピールできるし」
「だめだ」
なぜ、とは繰り返さず、首を軽くかしげたアレンに、吉野は厳しく結ばれた口許を無理にこじ開けるように引きつらせた。
「俺が辛い」
「僕は平気だよ」
「俺が、嫌なんだ」
アレンの頬がふわりと微笑む。吉野はくしゃりとその頭を平手で小突いた。
「やっぱさぁ、ヘンリーは俺のこと信じてないんだろ? ホント、面倒くせーなぁ、あいつ」
そのままアレンの肩に腕を投げかけ歩きだしながら、吉野は唐突にぼやき始めた。
「まさに英国人だよなぁ。なぁ、お前、そう思わないか?」
「そう? 兄は兄だよ。英国人って括りで意識したことはないけどなぁ」
――英国人。
ふと、その言葉が引っ掛かった。今日、二度目だ。一度目は、クリス。あれは、どういう意味だったのだろう? と、気に掛かりはしたものの、珍しく兄のことを愚痴る吉野に気を取られ、その断片はすぐに記憶の海に呑み込まれてしまった。
それよりも、急にこの地を訪れた姉のこと、ブラッドリーのこと、そしてサウード。次々と積み上がっていく、整理しきれない現実に眩暈がしそうだ。
吉野がいてくれても。
こうして支えてくれていても。
考えなければならないのは自分自身で、これは自分の問題なのだと、アレンはきゅっと奥歯を噛みしめる。
他人の思惑に流されていてはだめなのだ。
吉野を誰にも渡したくないと感じている自分を、アレンは初めて痛烈に意識していた。それは今まで感じたことのない、自分自身の底から湧き上がってくるような激しく熱を持った想いで、そのくせ甘やかでやるせなく、抵抗できないほどにアレン自身を捉えていた。突然の心境の変化に戸惑いながら、その感情に身を浸している自分に確かな悦楽を感じて、アレンは傍らの吉野に悟られまいと表情を引きしめる。
和やかな空気に包まれた居間に吉野と並んで足を踏み入れながら、アレンは、これまで以上に緊張した面持ちで、その場にいる面々を眺めまわした。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる