胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
614 / 745
九章

しおりを挟む
 おおよその打ち合わせを終え、吉野は飛鳥を庭の散歩に誘った。居間からテラスに出て階段をあがっていく。夜ともなると外気は一段と冷えこんでいて、思いのほか寒い。
「飛鳥、風邪ひくなよ」
 横を歩く飛鳥は、思った通り首を縮こまらせて背中を丸めている。
「早足で歩いていると温かいよ」
 飛鳥は白い息を吐きながら笑みを零す。

「綺麗だろ。今年もゴードンさんが飾りつけてくれたんだ」
 薔薇園を通りすぎたころに現れたコニファーの木立には、小さな電球が星のように瞬いている。
「これを見るとクリスマスなんだな、って気になるよ」
 吉野も白く濁る息を楽しむかのように笑っている。


「吉野、」
「うん?」
「……僕はね、」
「うん」

 どうも言いだす決心がつかない様子の飛鳥を尻目に、吉野は地上の星々の瞬く樹々の切れ目から広がる空を仰ぎ、足を止めた。

「やっぱり、電球よりも天然だな。飛鳥、温室よっていくか?」
「うん」

 飛鳥もまた空を仰ぎみて息を継ぎ、立ち止まっていた道を外れ、空き地の奥へと足を進める。



 ぽっと仄かに光るしっとりとした苔室こけむろに、膝を並べて腰をおろした。
「そういえば、おまえとここに来たことなかったね」
「そうだったかな」
「アレンとはよくここでお茶を飲むんだ」
「そうか」
「ヘンリーとサラは来ないな」
「あいつら湿度を嫌がるもんな」
「僕は、僕よりもおまえの方がサラと気が合うんじゃないかと、思っていたんだ」

 ぼんやりと視線を漂わせていた吉野は、じっと前方を見つめる飛鳥の横顔に眼をやった。

「なんだ、そんな事を気にしていたのか」
「気にするだろ、普通」
「あいつとは金勘定の話しかしないのに?」

 くっくっ、と喉の奥で含み笑う弟を、飛鳥は膨れっ面で振り返る。

「金勘定って、おまえ……」
「あいつ、飛鳥以上に数字が好きだからな。まぁ、そのおかげでアーカシャーは湯水のように研究開発費を使うことができるんだから、いいんだけどさ。あいつの金融取引のやり口を知ったらさ、飛鳥、百年の恋も一瞬で覚めるぞ。もう、すっげぇ怖いからさ」
「吉野!」
「別に悪口じゃないぞ。知っておけよ。これから結婚しようって相手なんだからさ」

 しかめっ面をして口をへの字に曲げた飛鳥の背中を、吉野はバンッと叩く。

「飛鳥は相変わらずだな。祖父ちゃん譲りだ」
「融通が利かない?」
「そうだな」

 震える吐息が、飛鳥の口から漏れる。

「お前は誰に似たんだ?」
「ジム・テイラー。実質俺を育てたのは木村のおっちゃんとジムだ。だから飛鳥が気に病むことはない。飛鳥の責任じゃない」
「僕が、お前をほったらかしにしていたからだろ?」
「違うよ」

 静まり返ったガラス張りの室内なのに、自分の声は大地に沈み、染みいるようだな、と吉野は膝に肘をつき、若干俯き加減に視線を地面に落としていた。その姿勢のまま、くぐもった声で話し続ける。

「飛鳥が工場を手伝って生活を支えてくれていたように、俺も一刻でも早く大人になりたかったんだよ。飛鳥のように、家の支えになりたかったんだ」

 吉野は飛鳥の面から目を逸らしたままだったが、兄の膝の上でぐっと拳が握られるのを視界の端で捉えていた。

「飛鳥、ヘンリーと歩み続けるなら、覚悟を決めろよ。もう町工場の技師には戻れないんだ。サラはガキの頃から国際市場で闘い続けているんだ。そういう女だよ、あれは。見た目通りのガキじゃないんだ」
「おまえはもう戻れないんだね、昔には……」

 絞りだされた声に、吉野は面をあげ、にっと笑って白い歯を見せた。

「変わらないよ、俺は。飛鳥の弟だ。父さんと母さんの子どもだよ。それに恥じるようなまねだけは、絶対にしない」
「恥……」
「そう教えてくれたのは、祖父ちゃんと飛鳥だろ? 信じろよ、俺を」

 この無邪気な笑顔で判らなくなる。吉野が他人ひとを傷つけるわけがないと信じたくなる。自分の直感よりも、洞察よりも、たどりついたどんな根拠よりも、目の前の吉野を信じたくなる。騙されていると判っていても、信じたくなるのだ。

「殿下は……」
「飛鳥の婚約披露に呼んだ。内輪だしな。不安があるなら本人に訊けばいい。決して俺があいつを操っているわけじゃないって納得できるよ」

 薄らと刷いた笑みを絶やさぬまま、自分から視線を逸らさない吉野の顔を真っすぐに見つめ返した。その頬に残る傷痕が、自分が作った映像の砂漠の赤い月のようだと思った。その傷に手を伸ばして、包みこむように触れた。

「もう危険なまねはするなよ。寿命が縮まる。僕はサラのためにも長生きしたいんだからさ」
「六つも年上だもんな」

 くすぐったげに笑い、吉野は頭を振る。

「俺、忙しいんだ。ハワード教授がぶつくさ言っててさ、カレッジの晩餐ばんさんだろ、研究室にも顔出さなきゃだし、アレンのデザインしたインテリアってのも見たいしさ、それから……」
「アレンの部屋のサンプルならコンサバトリーで見られるよ。これから見る?」

 勢いよく飛鳥は立ちあがる。

「いつまでもおまえを独占して、アレンを落ちこませるところだった!」
「そんなことで落ちこむかよ!」
「解ってないね、おまえは!」

 ほら、と温室のガラス戸を開ける。とたんに浴びる冷気に、飛鳥は「寒!」と首をすくめる。

「お茶でも飲みながら見ようか。アレンはまだ起きてるかな?」
「まだ宵の口だろ? こっちは日が暮れるのが早過ぎて感覚が狂うよなぁ」

 吉野もぶるりと震え肩をすくめて夜空を仰ぐ。

「その分夜が長い。アレンに電話するよ」

 凍てついた大地を踏みしめて、二人はまた整備された歩道に足を戻した。ぽっぽっとガーデンライトが一足ごとに夜道を照らす。

 この灯に導かれるまま進めば、やがてコンサバトリーに行きつく。きっとアレンが温かいお茶を用意して待っていてくれるだろう。今までずっとそうしてきたように。

 応答するアレンに、軽い口調で呼びかけている兄の背中をぼんやりと見やりながら、吉野は変わらない自分と、変わりゆく兄の間に、なぜか果てしなく広がる距離を感じていた。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

生意気な女の子久しぶりのお仕置き

恩知らずなわんこ
現代文学
久しくお仕置きを受けていなかった女の子彩花はすっかり調子に乗っていた。そんな彩花はある事から久しぶりに厳しいお仕置きを受けてしまう。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...