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九章
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キッチンカウンターにぺったりと顔をつけてつっぷしているアレンを見て、フレデリックは心配そうに眉根を寄せた。
「貧血? 顔色が良くないよ」
虚ろな視線を漂わせていたアレンは、その声にゆっくりと半身を起こす。
「平気。考え事をしていたら何だかのぼせちゃって。頭を冷やしていたんだ」
「大理石のカウンターで?」くすりとフレデリックは微笑む。
「お茶を淹れようか? それとも、もう充分かな?」
カウンターに置かれた二つのカップとティーポットを一瞥して、彼はやかんを火にかける。
「デヴィッド卿は、もう出かけられたんだね。入れ違いになっちゃったな」
だが本当は、到着してからもなかなか車から降りてこず、やっと車から出てきた二人のぎこちない様子を窓から窺っていたのだ。その後も、自室のある階上には上がってこない二人に、深刻な話でもしているのではないかと推測し、今までキッチンを使うのも遠慮していたのだ。デヴィッドの車が発車するのを確かめてから、素知らぬ振りをしてこうして下りてきたのだった。
そんなフレデリックの気遣いを知ってか知らずか、アレンは頬杖をついたままぼんやりとしている。心ここに在らずの彼を深く追求することもなく、フレデリックはいつも通りに朝食の用意を始める。
ピーッ、と、沸騰を知らせるやかんが甲高い音を立てる。
ビクリと痙攣し顔をあげたアレンは、「僕も、コーヒーをもらってもいいかな?」と、大きな目を瞬かせて訊ねた。
「もちろん」
用意していたティーポットを脇にやり、フレデリックはコーヒーをセットする。
やがて立ち昇る薄らと漂う湯気を眺めながら、アレンはなんだか泣いているような笑みを浮かべた。
「いい香りだね」
その香しさを味わうように、大きく息を吸い込む。
「昔は、コーヒーが嫌いだったのに」
口許に笑みを刻んだまま、カチャリと置かれたカップを昏い瞳で見つめている。
「もうこれの無い生活なんて考えられない」
「アレン、」
彼の言わんとすることを察して、フレデリックは遮るように名前を呼んだ。彼には解っていたのだ。彼にこんな顔をさせるのは、この世に一人しかいないということを。
「きみの予想通りだったよ。キャルの父親はブラッドリーだった」
フレデリックは、表情を引き締めて頷く。
その可能性に行き着いた時は、まだ半信半疑だったのだ。まさか、という思いの方が強かった。そんな偶然があるはずがないと。だが、あり得ないと否定しきることもできなかった。貴族階級の人間の生きる世界は、驚くほど狭いのだ。友人、知人、親戚――、どこでどう繋がっていても不思議ではない。間違いであって欲しいと、自分の推察を否定したい想いの方が強かったのに。
「ヨシノもそのことを知っているだろうって。知らなかったのは僕だけで、セドリックも、子どもの頃から知っていたそうだよ。米国に腹違いの義妹がいること。僕がその弟だってこと……」
「アレン、」
この繊細な友人を傷つけたくて、フレデリックはあんな憶測を話した訳ではなかった。知らずに更に深く傷つけられることになるのなら、知った上での対策を練る方がマシに思えたのだ。
「セドリック・ブラッドリーは、僕を踏み躙ることで、満足できたのかな? そして、そしてヨシノは、」
そのまま続けることができず、きつく唇を噛んで顔を伏せたアレンの、カウンター上に置かれた同じようにきつく結ばれた拳に、フレデリックは自分の掌を重ねる。
「それは違う。きみの想像するようなことはないよ。ヨシノがきみを助けたのは、そんな打算からじゃない。あの頃の彼が、そこまで内情に通じていたはずがないよ」
「でも、今の彼は違う。それで説明がつくんだ。ヨシノがロスにいる理由が」
その可能性を案じていたのはフレデリックの方だ。まだ確定的ではないとはいえ、現政権が汚職問題を囁かれ揺れている今、キャルの存在は、ブラッドリー大臣の致命的なスキャンダルとなりかねない。
アブド大臣失脚後、サウードと吉野の推し進める太陽光発電プロジェクトへの英国の技術援助を始め、労働力の輸出協力等、あまりにも不自然で不透明な条約がスムーズに交わされすぎている気がするのだ。
だが事はブラッドリー大臣ひとりの問題ではない。これはソールスベリー家、そしてフェイラー家のスキャンダルでもある。そう簡単に触れられるはずがない。それがたとえ、吉野であっても。
「ブラッドリーは、父が死ぬのを待っているのだそうだよ。まだ母のことを諦めていないんだって」
吐き捨てるように言われたアレンの言葉に、背筋が凍りつく。
「母が応えるかどうかも定かではないのに。僕にはあの男の血は流れていなくてほっとしたよ。厄介なのは母の血だけで沢山だ。――ブラッドリーなんて、母の取り巻きの一人に過ぎないのに。解っていないんだね」
昏い瞳に怒りすら滾らせ、アレンは胸の内に溜まった汚濁を吐きだし続ける。
「以前、兄がアデル・マーレイに言っただろ。『罪深い僕の存在がきみの人生を狂わせた』って。誰に理解できなくても僕には解る。あの母の血が、他人を狂わせ破滅に導くんだ。兄にしろ、僕にしろ、この血に呪われているんだ」
堪らず、フレデリックは真摯な眼差しで頭を振った。
「ヨシノはそんなものに惑わされない。僕たちのヨシノは、どんな呪いだって打ち破ってくれる。そうだろ? だけどね、ヨシノに頼らなくたって、その力はきみの中にだってちゃんとあるんだ。僕がきみのお姉さんの父親の可能性をきみに話したのは、きみに頼まれたからだけじゃないよ」
アレンを取り囲む世界に数限りなくいる怪物たち。その怪物すら飼いならそうとする吉野。そんな彼に、これ以上翻弄されて欲しくなかったのだ。
「きみの置かれている世界をちゃんと見て。僕はきみの助けになりたい。きみにとって、信じるに足る存在になりたいんだ」
吉野のように。吉野の代わりに。例えそれが実現の見込みのない、独り善がりの願いであっても。
「信じてるよ、フレッド。きみは僕の親友だ」
自分の吐きだした毒を恥じるように、アレンは儚く笑った。そしておもむろにコーヒーカップを持ちあげ口に運ぶ。
その様子をフレデリックは、やるせない瞳で見つめている。
「気づいている、アレン? きみはヨシノへの想いが揺らぐ時だけ、コーヒーを飲むんだ。ヨシノのように、砂糖もミルクも入れずに。そして、疑う気持ちも、泣きたい想いも、顔をしかめて飲み干すんだ」
努めて落ち着いて聴こえるように話しながらも、フレデリックは両脇に下ろした自分の手をぐっと握りこんでいた。
「もう、やめよう」
「――僕は、好きでそうしているんだよ」
冷めかけたコーヒーを一気に煽り、アレンはカップをソーサーに戻す。
「ありがとう、フレッド。僕は絶対に、この忌まわしい血になんて負けない」
向けられた瞳は、いつもの、いやそれ以上に澄んだ朝焼けの空の色。吸い込まれそうなその瞳に見つめられるのが我慢できず、フレデリックはそっと瞼を伏せていた。
「貧血? 顔色が良くないよ」
虚ろな視線を漂わせていたアレンは、その声にゆっくりと半身を起こす。
「平気。考え事をしていたら何だかのぼせちゃって。頭を冷やしていたんだ」
「大理石のカウンターで?」くすりとフレデリックは微笑む。
「お茶を淹れようか? それとも、もう充分かな?」
カウンターに置かれた二つのカップとティーポットを一瞥して、彼はやかんを火にかける。
「デヴィッド卿は、もう出かけられたんだね。入れ違いになっちゃったな」
だが本当は、到着してからもなかなか車から降りてこず、やっと車から出てきた二人のぎこちない様子を窓から窺っていたのだ。その後も、自室のある階上には上がってこない二人に、深刻な話でもしているのではないかと推測し、今までキッチンを使うのも遠慮していたのだ。デヴィッドの車が発車するのを確かめてから、素知らぬ振りをしてこうして下りてきたのだった。
そんなフレデリックの気遣いを知ってか知らずか、アレンは頬杖をついたままぼんやりとしている。心ここに在らずの彼を深く追求することもなく、フレデリックはいつも通りに朝食の用意を始める。
ピーッ、と、沸騰を知らせるやかんが甲高い音を立てる。
ビクリと痙攣し顔をあげたアレンは、「僕も、コーヒーをもらってもいいかな?」と、大きな目を瞬かせて訊ねた。
「もちろん」
用意していたティーポットを脇にやり、フレデリックはコーヒーをセットする。
やがて立ち昇る薄らと漂う湯気を眺めながら、アレンはなんだか泣いているような笑みを浮かべた。
「いい香りだね」
その香しさを味わうように、大きく息を吸い込む。
「昔は、コーヒーが嫌いだったのに」
口許に笑みを刻んだまま、カチャリと置かれたカップを昏い瞳で見つめている。
「もうこれの無い生活なんて考えられない」
「アレン、」
彼の言わんとすることを察して、フレデリックは遮るように名前を呼んだ。彼には解っていたのだ。彼にこんな顔をさせるのは、この世に一人しかいないということを。
「きみの予想通りだったよ。キャルの父親はブラッドリーだった」
フレデリックは、表情を引き締めて頷く。
その可能性に行き着いた時は、まだ半信半疑だったのだ。まさか、という思いの方が強かった。そんな偶然があるはずがないと。だが、あり得ないと否定しきることもできなかった。貴族階級の人間の生きる世界は、驚くほど狭いのだ。友人、知人、親戚――、どこでどう繋がっていても不思議ではない。間違いであって欲しいと、自分の推察を否定したい想いの方が強かったのに。
「ヨシノもそのことを知っているだろうって。知らなかったのは僕だけで、セドリックも、子どもの頃から知っていたそうだよ。米国に腹違いの義妹がいること。僕がその弟だってこと……」
「アレン、」
この繊細な友人を傷つけたくて、フレデリックはあんな憶測を話した訳ではなかった。知らずに更に深く傷つけられることになるのなら、知った上での対策を練る方がマシに思えたのだ。
「セドリック・ブラッドリーは、僕を踏み躙ることで、満足できたのかな? そして、そしてヨシノは、」
そのまま続けることができず、きつく唇を噛んで顔を伏せたアレンの、カウンター上に置かれた同じようにきつく結ばれた拳に、フレデリックは自分の掌を重ねる。
「それは違う。きみの想像するようなことはないよ。ヨシノがきみを助けたのは、そんな打算からじゃない。あの頃の彼が、そこまで内情に通じていたはずがないよ」
「でも、今の彼は違う。それで説明がつくんだ。ヨシノがロスにいる理由が」
その可能性を案じていたのはフレデリックの方だ。まだ確定的ではないとはいえ、現政権が汚職問題を囁かれ揺れている今、キャルの存在は、ブラッドリー大臣の致命的なスキャンダルとなりかねない。
アブド大臣失脚後、サウードと吉野の推し進める太陽光発電プロジェクトへの英国の技術援助を始め、労働力の輸出協力等、あまりにも不自然で不透明な条約がスムーズに交わされすぎている気がするのだ。
だが事はブラッドリー大臣ひとりの問題ではない。これはソールスベリー家、そしてフェイラー家のスキャンダルでもある。そう簡単に触れられるはずがない。それがたとえ、吉野であっても。
「ブラッドリーは、父が死ぬのを待っているのだそうだよ。まだ母のことを諦めていないんだって」
吐き捨てるように言われたアレンの言葉に、背筋が凍りつく。
「母が応えるかどうかも定かではないのに。僕にはあの男の血は流れていなくてほっとしたよ。厄介なのは母の血だけで沢山だ。――ブラッドリーなんて、母の取り巻きの一人に過ぎないのに。解っていないんだね」
昏い瞳に怒りすら滾らせ、アレンは胸の内に溜まった汚濁を吐きだし続ける。
「以前、兄がアデル・マーレイに言っただろ。『罪深い僕の存在がきみの人生を狂わせた』って。誰に理解できなくても僕には解る。あの母の血が、他人を狂わせ破滅に導くんだ。兄にしろ、僕にしろ、この血に呪われているんだ」
堪らず、フレデリックは真摯な眼差しで頭を振った。
「ヨシノはそんなものに惑わされない。僕たちのヨシノは、どんな呪いだって打ち破ってくれる。そうだろ? だけどね、ヨシノに頼らなくたって、その力はきみの中にだってちゃんとあるんだ。僕がきみのお姉さんの父親の可能性をきみに話したのは、きみに頼まれたからだけじゃないよ」
アレンを取り囲む世界に数限りなくいる怪物たち。その怪物すら飼いならそうとする吉野。そんな彼に、これ以上翻弄されて欲しくなかったのだ。
「きみの置かれている世界をちゃんと見て。僕はきみの助けになりたい。きみにとって、信じるに足る存在になりたいんだ」
吉野のように。吉野の代わりに。例えそれが実現の見込みのない、独り善がりの願いであっても。
「信じてるよ、フレッド。きみは僕の親友だ」
自分の吐きだした毒を恥じるように、アレンは儚く笑った。そしておもむろにコーヒーカップを持ちあげ口に運ぶ。
その様子をフレデリックは、やるせない瞳で見つめている。
「気づいている、アレン? きみはヨシノへの想いが揺らぐ時だけ、コーヒーを飲むんだ。ヨシノのように、砂糖もミルクも入れずに。そして、疑う気持ちも、泣きたい想いも、顔をしかめて飲み干すんだ」
努めて落ち着いて聴こえるように話しながらも、フレデリックは両脇に下ろした自分の手をぐっと握りこんでいた。
「もう、やめよう」
「――僕は、好きでそうしているんだよ」
冷めかけたコーヒーを一気に煽り、アレンはカップをソーサーに戻す。
「ありがとう、フレッド。僕は絶対に、この忌まわしい血になんて負けない」
向けられた瞳は、いつもの、いやそれ以上に澄んだ朝焼けの空の色。吸い込まれそうなその瞳に見つめられるのが我慢できず、フレデリックはそっと瞼を伏せていた。
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