胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
607 / 753
九章

しおりを挟む
 翌日、アレンはヘンリーと顔を合わすこともなくフラットへと戻った。会社に向かう前に一度寄りたいから、と言うデヴィッド共々朝食も取らなかった。
 デヴィッドの運転する車内でも特に喋ることもなく、ぼんやりと、どこを見るわけでもなく視線を漂わせている。デヴィッドも、そんな彼に特に言葉をかけることもない。

 もうじきフラットに着くという段になってやっと、アレンはデヴィッドをじっと見据えて訊ねた。

「あなたも、ご存知だったのですか?」
「……うん」

 何を、とはデヴィッドは尋ね返したりはしなかった。そこに含まれる様々な意味を総括しての肯定であると、アレンは納得して蒼白な面をかすかに緩めて口角をあげた。

「ありがとうございます。――ヨシノだけじゃない、僕はずっと、兄やあなた方にこうして守られ、支えられていたのですね」

 喉の奥から絞りだされるような声だった。

「ヘンリーは、ヨシノみたいに判りやすく優しくはないだろ? 英国人ブリティッシュだからね。でも彼は、ちゃんと自分がきみの兄だって自覚は持っているよ」
「兄は優しいです」

 そして、あなたも。

 誇らしげな瞳を向け、アレンはにっこりと笑みを刷く。

 ずっと知らぬ振りをしていてくれた。顔色ひとつ変えることなく、ずっとソールスベリーの一員として接してくれていた。それがどれほど自分にとって誇らしく、支えとなっていたことか。
 己の出生のおぞましさを嫌悪し続けていた自分に、自分自身として生きるようにと言ってくれたのは、兄だった。兄の弟でも、フェイラーでもない、何者でもない自分を見出してくれたのが、吉野だった。
 
 そして今、自分の眼前には、こうして自分を気遣ってくれる人がいる。自分ではどうしようもなかった過去に一切触れることなく、けれどそのことを踏まえたうえで、尊重してくれる。


「キャルの父親は、キャルのことを知っているのでしょうか? それに、ヨシノも――」 

 深呼吸して心を落ち着けてから向けられたアレンの真摯な瞳に、デヴィッドは正面に視線を据えたまま淡々と応えた。
 もう誤魔化す必要はない。受け止める覚悟を持ってなされた問いには同じように真剣に応えなければならない。それが年長者としての自分の義務だと感じたのだ。

米国むこうじゃ、そう知られてないようだけれど、英国こっちの社交界じゃ、当時、結構なスキャンダルだったんだよ。口さがない連中は、ある事ない事言うからねぇ。だから君たちのお母さんは、それまではロンドンに住んでいたのを、出産を機に米国へ戻ってそれっきり、てわけ」

 フラットの前に車を停め、デヴィッドは力を抜いてドサリとシートの背面にもたれかかる。そしてふぅっとため息をつくと、それまで以上に慈悲深い憐れみを湛えた瞳をアレンに向けた。

「セディも知っている。ヘンリーが知ったよりもずっと以前から、彼はその事を知っていたんだ。あいつのヘンリーに対する愛憎入り交じる想いはとても、」

 言いかけて口籠り、デヴィッドはアレンの頭をくしゃくしゃと撫でた。その大きな掌の下で、アレンはきゅっと唇を結び眉を寄せている。

 自分でこの話題を切りだしたとは言っても、この名を聴くことすら嫌なのだ。当然の感覚だと、デヴィッドはさらに慎重に言葉を探した。

「ごめん。だからどうしろ、って話ではないんだ。キャルの件がきっかけで、僕の父はレイモンド・ブラッドリーとは絶交したんだ。今でも仲は修復されていない。リチャード叔父さんが許しても、僕の父は一生あの二人を許さないんじゃないかなぁ」

 そこには、もちろん自分も含まれるのだろう、とアレンはきゅっと唇を引き締める。そしてそんな親世代の確執に翻弄されることなく、自分と向き合ってくれているデヴィッドに今更ながら感謝と、申し訳なさを感じていた。そんなアレンの心を見透かしたように、デヴィッドは軽く顔をしかめてみせる。

「僕の父がなぜこれほどまでに怒っているのか知らないけれど、これは本来、リチャード叔父さんとブラッドリー、それにきみらのお母さんの問題だからね。きみもキャルも関係ないんだ。変に考えすぎて余計なものを背負い込むんじゃないよ」

 はっと伏せていた瞼を持ちあげたアレンに、デヴィッドは優しく微笑みかける。

「そういう訳でうちとブラッドリー家は、ずっと仲が悪いんだ。だから人から聴いた話も多い。信頼できる筋からだけどね」

 デヴィッドはちらりと時計を眺め、シートベルトを外した。

「きみが一番知りたいのは、どうしてブラッドリー政権への移行の話に、ヘンリーがヨシノの名前を出したかって事だろ? 本当に知りたいのなら、僕の知っていることは教えてあげる。そうしないと、きみがあの子と向き合うには、あまりにも分が悪いからねぇ」

 セドリックの名前が出てきた時以上に、アレンは躰を強張らせている。唇を震わせ早く返事をしようと見受けられるのに、声にならないようだった。

「降りようか。何か温かいものを飲もう。講義は何時から? 時間はまだいいんだろ? あ、別に今日じゃなくったっていいんだよ。直にクリスマス休暇だしね」

 深刻な空気を振り払うように口調を変え、デヴィッドは車のドアを開けた。降りようとするその腕を、アレンはとっさに掴んでいた。

「教えて下さい。お願いします」

 切迫したその声にデヴィッドは軽く頷いて、明るい笑みでウインクを返す。

「まず温まろう。朝食を食べながらね」

 彼は車の脇に立って目を細めて、この季節変わることのない曇天を白い息を吐きながら見あげて言った。


 

しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ビキニに恋した男

廣瀬純一
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あなたのサイコパス度が分かる話(短編まとめ)

ミィタソ
ホラー
簡単にサイコパス診断をしてみましょう

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

処理中です...