胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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 重厚な石造りの建物が並ぶオールド・ボンド・ストリートはすっかりクリスマスの装いで、車道をまたぐ空間に金や銀のシャボンのような光が、夜空を泳ぐように揺蕩っている。

 買い物に行くのなら日が落ちてからがいい。イルミネーションを楽しめるから、とのヘンリーの言葉に従ってここまで来てはみたものの、ウインドウの中の宝飾品よりもこの眩しいほどの光の装飾の方が、飛鳥には気になってしかたがない。TSなら低コストでもっと華やかな演出をできるのに、と頭の中で様々な光と色彩が乱舞を始めているのだ。

 今日は、そんなことを考えるためにここに来たのではないじゃないか、と頭を振ってため息をつき、飛鳥は延々と続く高級店を外から一件一件丁寧に覗きこむ。なかに入ればもっと色々とり揃えているのだろうが、どうもこういう店は庶民の飛鳥には敷居が高い。ウインドウに並ぶ宝石は、互いに競いあうような煌びやかな輝きで、どれも魅力的ではあるのだけれど――。だけど、サラには似合わない、とどうもしっくりとこないのだ。

 やはり、ヘンリーかデヴィッドについて来てもらえば良かった。いやこういうことには、ロレンツォの方が慣れているかも知れない。などと自分の不甲斐なさにため息をつきつつ足を進めていた飛鳥だったが、ついにその中の一件の宝飾店の前で立ち止まり、躊躇なくそのドアを開けた。




 翌日、呼びだされてマーシュコートからロンドンに出向いたヘンリーは、相変わらず落ち着きのない飛鳥にナイツブリッジの自宅で迎えられていた。

「話はおおむね理解できたし、役にたてると思うよ」
 ヘンリーは微笑を湛えて、申し訳なさそうに唇をすぼめる飛鳥の肩を、励ますようにポンッと叩く。
「売らない、ってことはないと思うんだ。展示用の品だからって言われただけだろう?」
「それ以前に、僕はいくらくらいお金を持っているのかな? それも確かめなくちゃならないんだ。その欲しい奴じゃなくて、店員に勧められた普通にショーケースに並んでいる指輪でも、ゼロの数がとんでもなかった。欲しくても買えないのなら、考え直さなきゃいけないし――」

 自分のことに無頓着な飛鳥は、給料に関してもすべてヘンリーにまかせっきりなのだ。ヘンリーの館に住んでいるのだから、家賃や食費はそこから引いてくれ、と銀行口座の管理もマーカスに丸投げしている。大学に在籍していた時期はそれでも現金を持ち歩いていたが、今は必要なものはすべてネットで揃えるし、口座の残高すら確認することもない。

 そんな飛鳥の困り果てたボヤキを、ヘンリーはくすくすと笑い飛ばす。

「婚約指輪を買うくらいの貯金はあるよ。きみは今まで、とりたてて何にも使うことはなかったんだから!」
「でも、」
「心配いらない。足りないようなら僕も協力するから。さぁ、善は急げだ。行こうか」

 玄関先の立ち話から、飛鳥にコートを取ってくるように促すと、ヘンリーは壁にもたれてふっと力を抜き、吐息を漏らした。

 自分の計画したことが、こうもスムーズに進んでいく。その虚しさの味を噛み締めていたのだ。砂を噛むような、とは言い得て妙だな、と――。




「これ?」

 飛鳥に案内された宝飾店は、ヘンリーも名前くらいは知っている有名店だ。だが飛鳥が指さしているクリスマス用にディスプレイされた白いサテン地の上にのるダイヤに、なぜこれなのか、と彼は納得がいかないのだ。
 眉根を寄せて訝しむヘンリーを、飛鳥は真剣に見つめ返した。

「婚約指輪なんだ。サラの誕生石や瞳の色に合わせた石の方が良くないかい?」
「これに決めたんだ」

 ヘンリーは唇を結ぶと、飛鳥の背に手を添えてこの店のドアをくぐった。

「表の、アーガイル・バイオレットの指輪を見せてください」

 初めての店だというのに、店員はヘンリーの顔を知っていた。すぐさま上司と思しき老齢の店員が呼ばれて応対された。聞けば、祖父の代でこの店とは懇意だったらしい。
 飛鳥が煌びやかな店内をぼんやりと見回している間に、話はとんとんと進んでいた。「アスカ」と呼ばれたときには、「ここにサインを」とすべてが完了していたのだ。



「サイズ直しがあるからね。受け取りはまだ先になるよ。でもクリスマスには間にあうそうだよ」

 帰り道々説明しながらヘンリーは飛鳥を振り返った。彼は満足そうに頷いていた。とても、幸せそうに。

「――でも、予想以上に高価だったよ。きみの口座残高がかなり目減りしてしまった。これからしっかり働いてもらわなくては」

 ヘンリーが冗談めかして肩をすくめてみせると、飛鳥は願ったりだとばかりに、にっこりする。その屈託のなさに微笑を返し、ヘンリーはすっと目を逸らした。多くの人が行き交う路上の果てに視点を彷徨わすような、そんな虚ろな眼差しで。




 そうしてしばらく黙ったまま歩いていたのだが、ヘンリーは思いだしたように口を開いた。

「でも、どうしてあれなの? バイオレット・ダイヤモンドなんてそうそう見るものでもないし、希少性で選んだの?」
「きみの瞳の色だったからだよ。セレストブルー、天上の色を映すきみの色は、アーカシャーのシンボルカラーだ。サラが一番好きで、一番安心する色だろ?」

 自分に遠慮しているのか、とヘンリーは傍らの飛鳥を振り返る。だが彼からはそんな素振りは微塵も見えない。

 シンボルカラー……。決めたのは、デヴィッドだったか、それともアーネストか。
 決して好きではないこの色が、いつしか自分の代名詞のように世に知れ渡っている。

 ふと、彼はマーシュコートのネモフィラの花畑を思い浮かべていた。

 彼の父の愛してくれたこの瞳の色を、サラも好きだと言ってくれた。だから彼は必要以上に自分を嫌悪せずにいられたのだ。
 そんな、セレストブルー……。

「サラは笑うんじゃないのかい? 結婚するっていうのに、まだ兄に見張られているみたいだって」
 苦笑するヘンリーを、飛鳥はからからと笑い飛ばす。
「きみの眼を意識していたら、僕もだらしない真似ができないからいいんだよ。それはもう、寮生活で骨身に沁みたからね」


 飛鳥のようには笑い飛ばすことはできないまま、ヘンリーはいつの間にか夕闇に包まれ、明かりの灯りだしたクリスマス・イルミネーションをぼんやりと見上げていた。充分な明るさを残す薄闇の中、いまだ輝きださないイルミネーションは、どこか滑稽で、哀れな、無用のもののように揺れていた。





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