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九章
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初めてこの館に連れてこられた日のことを、サラは昨日のことのようにまざまざと思いだしていた。
自室の窓枠に腰かけて外を覗くと、幾何学模様の生垣の向こうに続く芝生を二分する一本道のカーブは、湖のように広い池の傍をぬけている。
あの夏の日のように陽の光を弾くこともなく、池は澄んだ冬の空気に包まれて磨かれた鏡面のように灰色の空を映している。傍らに佇むゴールデンアカシアの巨木も、すっかり落葉して寒さに身を振るわせている。
父の結婚記念に、と聞いていたこの樹は、本当はヘンリーの誕生を祝って植えられたものだと後から知った。この樹の成長とともに、息子が健やかに育つように。あるいは自分がいなくなった後も、息子を見守り続けてくれるようにとの願いを込めて、父リチャードの手によって。
ヘンリーが謂れを誤解していたのか、それとも彼にちなんだ記念品で溢れかえるこの館のそこかしこをサラに告げるのを遠慮して別の謂れにすり替えたのか、それは彼女には解らなかったが。
ともかく、あのゴールデンアカシアの樹の下で、サラはヘンリーに出逢ったのだ。彼が額にキスをくれ、妹と呼んでくれたあの日から、ヘンリーはサラのすべてになった。
自分に託されたとはいえ、サラは、いまだにこの館もこの土地も、ここにあるものすべてがヘンリーのものだと思っている。彼がどう言おうと、自分には受け取れる資格などないのだ。ヘンリーがそう望むから、今は自分のものであるように振舞っているだけ。
ヘンリーの望むことならどんなことでも叶えてあげたい。どんな無茶なことでも。理不尽なことでも。彼が心から望むのであれば。
彼女はそう心に誓っている。
だから今回も、ヘンリーの望むようにしようと決めた。彼は、病床の父に代わるソールスベリー家の家長でもある。彼女が彼の意志に反するなどあり得ないのだ。
なぜ彼がサラにその意思を確認するのか、逆に彼女には不思議なくらいだ。ヘンリーの意志はサラの意志。ずっとそう告げてきているのに。
遠く白く続く道を向かってくる車が、段々とその形を露わにし始めると、サラは立ちあがり自室を後にした。まっすぐにヘンリーの部屋へ出向きノックする。
「ヘンリー、アスカがもうすぐ到着する。下で待っているから」
ドアを開けたヘンリーの深い疲労を湛えた蒼白い面に、サラはそっと掌を当てた。サラはこれまで知らなかったヘンリーの昏い瞳。その際にキスをあげる。
「心配しないで。大丈夫だから」
「あと少し休んだら顔をだす。そう伝えて」
柔らかく微笑んで、ヘンリーはサラの掌に口づけを返した。
サラを見送りほっと息を継いだヘンリーは、もう先ほどまでいたベッドの中には戻らなかった。飛鳥に逢うのに寝てなどいられない。
憂鬱な気怠さに身体はずんと重かったが、それが旅の疲れのせいではないことは重々承知している。自分の不甲斐なさが情けない。
吉野の告げた望みは、自分自身の望みでもあった。
飛鳥と吉野との関係がどうあろうと、彼はこれでもう自分の許を去ることはない。ここが彼の居場所となり彼を縛る鎖となる確実な方法。ヘンリーに異存はなかった。
サラの気持ちさえ問題なければ。
これでもう、飛鳥は日本へ帰りたい、などと言いだすことはないだろう。吉野との問題は、別の方法で解決を図ろうとするだろう。少なくとも、兄弟の確執にサラを巻きこむような真似を飛鳥はしない。
サラは、彼自身が拍子抜けするほど躊躇なく頷いてくれた。それは彼女の意志であると思えるほどに。疑問を差し挟む余地のない快諾に、ヘンリーの方が何度も問い直すほどだった。
これで万事解決だ。
それなのに、サラにすべてを打ち明けて彼女の返事を聴いても、ヘンリーの胸のつかえは軽くなるどころか、ますますどす黒く、重く、澱みを増していた。あまりにも正直な、ままならぬ自身の心に驚いたのは彼自身だった。
これは自分自身の望みでもあるのだ、と解っているはずなのに。いざ、ただの想像ではない現実を目の前にして、サラを目の前にして、地面が崩れるような眩暈を感じていた。これほどまでに執着しているのかと、自分でも信じられぬほどに。だからこそ、これがベストな手段なのだと自分自身に言い聞かせ、自分自身をねじ伏せたと思っていたのに。
こうして我慢できないほどの吐き気に襲われ、床に就いているありさまだ。
こうなると、自分で自分を嗤うしかない。こんなにも弱い器だったなんて。ヘンリー・ソールスベリーが自分自身を信用できないなど、あっていいはずがないものを――。
きっと飛鳥が心配する。心配してくれる。彼にまだわずかでも、自分を思い遣ってくれる心があるならば。だから―。
心配をかけるような真似を自分はしてはならないのだ。
まずシャワーを浴びよう。高めの温度で。せめて血色良く見えるように。それから明るい色目の服をマーカスに用意してもらって、それから……。
ため息が彼の思考の邪魔をする。
自分で自分を操れないもどかしさに、ヘンリーは目を瞑り、息を詰め、片手で顔を覆っていた。
自室の窓枠に腰かけて外を覗くと、幾何学模様の生垣の向こうに続く芝生を二分する一本道のカーブは、湖のように広い池の傍をぬけている。
あの夏の日のように陽の光を弾くこともなく、池は澄んだ冬の空気に包まれて磨かれた鏡面のように灰色の空を映している。傍らに佇むゴールデンアカシアの巨木も、すっかり落葉して寒さに身を振るわせている。
父の結婚記念に、と聞いていたこの樹は、本当はヘンリーの誕生を祝って植えられたものだと後から知った。この樹の成長とともに、息子が健やかに育つように。あるいは自分がいなくなった後も、息子を見守り続けてくれるようにとの願いを込めて、父リチャードの手によって。
ヘンリーが謂れを誤解していたのか、それとも彼にちなんだ記念品で溢れかえるこの館のそこかしこをサラに告げるのを遠慮して別の謂れにすり替えたのか、それは彼女には解らなかったが。
ともかく、あのゴールデンアカシアの樹の下で、サラはヘンリーに出逢ったのだ。彼が額にキスをくれ、妹と呼んでくれたあの日から、ヘンリーはサラのすべてになった。
自分に託されたとはいえ、サラは、いまだにこの館もこの土地も、ここにあるものすべてがヘンリーのものだと思っている。彼がどう言おうと、自分には受け取れる資格などないのだ。ヘンリーがそう望むから、今は自分のものであるように振舞っているだけ。
ヘンリーの望むことならどんなことでも叶えてあげたい。どんな無茶なことでも。理不尽なことでも。彼が心から望むのであれば。
彼女はそう心に誓っている。
だから今回も、ヘンリーの望むようにしようと決めた。彼は、病床の父に代わるソールスベリー家の家長でもある。彼女が彼の意志に反するなどあり得ないのだ。
なぜ彼がサラにその意思を確認するのか、逆に彼女には不思議なくらいだ。ヘンリーの意志はサラの意志。ずっとそう告げてきているのに。
遠く白く続く道を向かってくる車が、段々とその形を露わにし始めると、サラは立ちあがり自室を後にした。まっすぐにヘンリーの部屋へ出向きノックする。
「ヘンリー、アスカがもうすぐ到着する。下で待っているから」
ドアを開けたヘンリーの深い疲労を湛えた蒼白い面に、サラはそっと掌を当てた。サラはこれまで知らなかったヘンリーの昏い瞳。その際にキスをあげる。
「心配しないで。大丈夫だから」
「あと少し休んだら顔をだす。そう伝えて」
柔らかく微笑んで、ヘンリーはサラの掌に口づけを返した。
サラを見送りほっと息を継いだヘンリーは、もう先ほどまでいたベッドの中には戻らなかった。飛鳥に逢うのに寝てなどいられない。
憂鬱な気怠さに身体はずんと重かったが、それが旅の疲れのせいではないことは重々承知している。自分の不甲斐なさが情けない。
吉野の告げた望みは、自分自身の望みでもあった。
飛鳥と吉野との関係がどうあろうと、彼はこれでもう自分の許を去ることはない。ここが彼の居場所となり彼を縛る鎖となる確実な方法。ヘンリーに異存はなかった。
サラの気持ちさえ問題なければ。
これでもう、飛鳥は日本へ帰りたい、などと言いだすことはないだろう。吉野との問題は、別の方法で解決を図ろうとするだろう。少なくとも、兄弟の確執にサラを巻きこむような真似を飛鳥はしない。
サラは、彼自身が拍子抜けするほど躊躇なく頷いてくれた。それは彼女の意志であると思えるほどに。疑問を差し挟む余地のない快諾に、ヘンリーの方が何度も問い直すほどだった。
これで万事解決だ。
それなのに、サラにすべてを打ち明けて彼女の返事を聴いても、ヘンリーの胸のつかえは軽くなるどころか、ますますどす黒く、重く、澱みを増していた。あまりにも正直な、ままならぬ自身の心に驚いたのは彼自身だった。
これは自分自身の望みでもあるのだ、と解っているはずなのに。いざ、ただの想像ではない現実を目の前にして、サラを目の前にして、地面が崩れるような眩暈を感じていた。これほどまでに執着しているのかと、自分でも信じられぬほどに。だからこそ、これがベストな手段なのだと自分自身に言い聞かせ、自分自身をねじ伏せたと思っていたのに。
こうして我慢できないほどの吐き気に襲われ、床に就いているありさまだ。
こうなると、自分で自分を嗤うしかない。こんなにも弱い器だったなんて。ヘンリー・ソールスベリーが自分自身を信用できないなど、あっていいはずがないものを――。
きっと飛鳥が心配する。心配してくれる。彼にまだわずかでも、自分を思い遣ってくれる心があるならば。だから―。
心配をかけるような真似を自分はしてはならないのだ。
まずシャワーを浴びよう。高めの温度で。せめて血色良く見えるように。それから明るい色目の服をマーカスに用意してもらって、それから……。
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