胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
597 / 745
九章

切望1

しおりを挟む
 米国から無事帰国し、帰宅したヘンリーを、いつもと変わらぬ飛鳥の声が出迎える。今までのわだかまりが嘘のような自然なその声音に、ヘンリーはほっと息をつく。

「ただいま」
 にこやかに微笑んで、ヘンリーは飛鳥の座るソファーの向かいに腰をおろす。
「こっちは寒いだろ? もう冬だよ」
 薄手のスーツを着ている彼に飛鳥は肩をすくめてみせる。ヘンリーからは、「きみは一年中冬もので済ます気かい?」などと、よくからかわれるのだが、今回ばかりは気候の温暖なロスから戻ったばかりの彼の方が、ここケンブリッジの今の気候にはそぐわない。だからヘンリーも苦笑して頷いた。

「街路樹の葉がすっかり落ちていて驚いたよ」

 わずか一週間ばかりの留守だと思っていたのに、季節は慌ただしく駆けぬけていた。突きぬける青空の広がるロスから、見慣れた曇天が圧しかかる英国へ。夏から冬へ季節も飛び越えてきた気分だ。

「サラはまだマーシュコートだよ。メインのコズモスに手を加えたいからって」
「うん、聴いている。明日には僕も帰るつもりだ」

 穏やかな空気を壊さぬように、ヘンリーは細心の注意を払いつつ飛鳥を見つめている。

「きみはどうする? 一緒に来るかい?」
「どうして?」

 
 まだだ――。
 たかだか一週間くらいで、彼が一度決めたことを翻すわけがない、か。

 内心の苦笑はおくびにもださず、ヘンリーは穏やかに微笑んでみせる。

「ロスでヨシノに逢ってきたよ」
 
 微動だしない飛鳥に、彼は努めて明るく彼の様子を話してきかせた。早速ロスでも新しい友人たちに囲まれていたこと。IT企業の聖地ともいえる、シリコンバレーにも出向いていたらしいこと。

「相変わらず精力的に動く子だよ。それでね、新規事業について聴いてきたんだ。殿下の許でのじゃない。彼自身の事業だそうだよ」
「それで?」
「彼、新システムの構築をサラに依頼しているんだよ。きみはまだ聴いていなかったの?」

 むろん飛鳥が知るはずがない。彼にしても聴かされたばかりなのだ。サラは、その仕事を受けるかどうかは、ヘンリーを通してくれと吉野には返答している。だが承知の事として伝えることで、ヘンリーは飛鳥の素直な反応が見たかったのだ。加えてこの件に賛同する自身の姿勢を、彼に見せたかったのもあった。

 思惑通りの飛鳥の当惑した様子に内心安堵しつつ、ヘンリーは思案するように眉をひそめて見せる。

「ただその新規事業というのがね、曲者なんだ。彼は、ロバート・カールトンとの共同事業にすると言っているんだ」
「カールトン……」
「リック・カールトンの息子だ」

 さすがにこの名がでるとは予想できなかったのだろう。え、と息を呑む音が聞こえた。目を瞠る飛鳥に、ヘンリーはさも困っているようにため息をつく。

「サラにしてみれば、きみたちと同じ、かたきの息子だからね」
「吉野は……」

 きつく眉根をよせた飛鳥は、そのまま言葉を呑みこんだ。

 父親がどうであれ、その子どもにまで罪を負わせて憎むような真似を、飛鳥ならばするまい。ヘンリーは彼の鳶色の瞳に浮かびあがる葛藤を冷徹に見極めようと目を細めている。

「パーティーでの様子を見るかい? きみは彼のことをあまり知らないんじゃないかな。まだ学生だしね。ベンチャーの起業家なんだ」

 ヘンリーは努めて明るく言いながら自分のTSを立ちあげて、フェイラー家のパーティーでのスナップ写真を収めた空中画面を、くるりと飛鳥に向けた。
 当惑したままのぎこちない指先で、飛鳥は写真をスライドさせていく。

「吉野はタキシードが似合うよね」
 ぽつりと呟かれた第一声に、ヘンリーは思わずくすくすと笑ってしまった。
「そうだね。僕も会場で同じことを考えていたよ」

「一緒に写っているのは、きみの妹さんかな?」

 飛鳥はあのゴシップを知らないのだろうか? 

 今の不安定な飛鳥なら、そんなところへまで気が回っていないのかもしれない、とヘンリーは余計な事は告げるのは止め、「フェイラー家のパーティーだからね」といささか素っ気ない素振りで呟いた。
 だがまだ飛鳥は小首を傾げている。あの小説に書かれている事は事実である、という認識であれば、吉野がフェイラーのパーティーに出席できるはずがないからだろう。
 
 まったく見事としか言いようがない。吉野は動かずして飛鳥の疑念の一部を拭い取ってくれた。

「ヨシノはキャルとも親しくしているようだよ。ニューヨーク支店のイベントの時に面識があったらしいよ」
 
 そう聞いたのは本人からではなく、アレンからではあったが。

「きみはどう思う? やはり、ロバートとの事業は反対かい?」

 おそらく内心では新たに得た情報処理に必死であろう飛鳥に、ヘンリーは畳みかけるように問いかけた。少し心配そうに眉根をよせて。情に揺さぶられやすい飛鳥の気を惹きつけるように、物思わしげに。

「どうって、きみとサラが決めることだろ? 僕が口を挟めることじゃないよ」

 突き放すような言いぶりながら、飛鳥の口調は弱い。

「吉野はリックへの感情とは別に、真面目にこの事業の発展を考えているんだ。いずれはTSに続くアーカシャーの柱になるってね。きみだって無関係ってわけにはいかないだろ?」

 飛鳥の困惑が手に取るようだな、と思いながら、ヘンリーは流れるように話し続ける。

「細かな内容は僕よりもサラの方が詳しいんだ。だから、きみも一緒に来てほしい。サラはきみに遠慮しているんじゃないかと、僕は思っているんだ。相手はカールトンだからね。普通の事業のようには冷静に判断できないだろ?」

「僕はべつに……」

 べつにどうなのか――、飛鳥は答えられなかった。






しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

生意気な女の子久しぶりのお仕置き

恩知らずなわんこ
現代文学
久しくお仕置きを受けていなかった女の子彩花はすっかり調子に乗っていた。そんな彩花はある事から久しぶりに厳しいお仕置きを受けてしまう。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...