594 / 751
九章
6
しおりを挟む
互いの要件を終えるとすぐに、ニューヨークへとんぼ返りしたアーネストといれ違いに、ウィリアムがヘンリーの部屋のドアを叩く。もう夜も更けている。「明日になさいますか?」と問う従者を、ヘンリーは頭を振って招きいれた。
高層階の窓からは、こんな時間でも星空を落としたような煌びやかなネオンの海が広がっている。ソファーの背もたれに肘をかけ、ヘンリーは身体を捻るようにしてそのさんざめく光の連なりに視線を据えたまま、ウィリアムの報告を聞いていた。
「本当の目的は、キャルでもフェイラーでもない、っていうことでいいんだね?」
自分自身に問いなおしているような呟きに、ウィリアムは慎重に頷いた。
「まさか、アッシャムスをこんなことに使ってこようとはね」
深い吐息とともに向き直り、ヘンリーは嫌悪感を露わにしたセレストブルーの瞳でウィリアムを静かに叱咤する。
「お前がついていて、よくもこんな愚かな真似をさせるなんて」
「あなたも、そう望まれるかと思いました」
「僕を見くびるなよ」
見つめ返した彼の黒い瞳の下の、コンタクトに覆われた本来の色がヘンリーの脳裏をよぎっていた。確かに、復讐――、にはなるのかも知れない。だが、これはあまりにも筋が違うではないか。
「それで、あの馬鹿息子と、取り巻き連中は乗り気なの?」
返事を聞くまでもなかった。パーティでも話題の中心は株だの投資だのの金儲けの内容ばかりだったのだ。自分の財産を増やすことと、いかに使うかしか興味のない連中だ。祖父の周りにはそんな人間しかいない。キャルの婚約者候補のロバート・カールトンにしても御多聞に漏れず、といったところか。
それにしても、いくら相手がカールトンの息子だからといって、吉野のやりくちは見すごせるものではない。もう数か月のうちに倒産することが決定している国営企業、アッシャムスへの投資を持ちかけるなどと。
いったいどれだけの額を取りつけるつもりなのか――。
ロバートのあの能天気な様子からして、彼は自分の父親と杜月家の確執など、知る由もないのだろう。それどころかウィリアムの話によると、このわずかな期間に、本来ならばキャルを巡ってのライバルであるはずの吉野に心酔しきっているのだという。
「彼もシリコンバレーで自分の会社を立ちあげているのだったかな?」
「尊敬する起業家は、父親ではなくあなただそうですよ。先進性とそれを支える高度な技術力、そして父親とは違う、透明性の高いフェアトレードに憧れてやまないそうです」
「それは皮肉で言っているの?」
世にその名を知らぬ者などない、高名な父親に対する青臭い反抗心だ。そのために自分の名を使われるなんて御免こうむりたい、とばかりにヘンリーは口の端で嗤った。
「それよりも、あの子、どういうつもりなんだろうね。メリットが見えないよ。いくらリック・カールトンの子どもだからって、たかだか学生起業家だろ? 無意味な投資に誘ったところで破産するまではいかないだろうに。そんな容易い手に引っかかる馬鹿でも、いずれはカールトンの財産を継ぐ身であることには変わらない。彼の地位は揺らがないさ。せいぜい、一時の笑い者にして終わりじゃないか」
馬鹿馬鹿しい、とばかりの呆れ顔の主人に、ウィリアムは柔らかな笑みを浮かべて問うた。
「どうなさいますか?」
「ロバートに逢えるかな? できれば偶然を装って。ヨシノにはもちろんないしょでね」
「アッシャムスへの投資を止めるよう、助言されるのでしょうか?」
「ヒントくらいは教えてやるかもしれない。それよりも、ヨシノがこんな稚拙な罠を仕掛ける意図を知りたいんだ」
「了解いたしました」
納得した様子でウィリアムは頷く。
「アレンから連絡をもらったんだ」
立ちさりかけたウィリアムを、ヘンリーの物憂げな声音が引き留めた。怪訝な視線で座り直した彼から顔を背けたまま、ヘンリーは喋り続ける。
「アスカの帰国希望の理由だよ」
「ヨシノは考えがあると」
「ヨシノは――、あの子、今どこの会社に投資しているの? それとも、てっとり早く買収してるのかな?」
ヘンリーの声は抑揚がなく、どこか冷たい。
「お前は、あの子のヴィジョンに賛同するの?」
「仰られる意味が判りかねます」
「ロレンツォに先に問い質すべきなのかな?」
おもむろに向き直ったヘンリーの冷ややかな瞳を、ウィリアムはまっすぐに見つめ返した。
「お前は、動じないんだね」
まさか、このウィリアムまでが吉野に懐柔されようとは――。
そんな内心の苛立ちをよそに、ヘンリーはゆるりと笑みを浮かべた。
「ヨシノのこと、頼んだよ。お祖父さまだって、そうそう指を銜えて見ていては下さらない。とくに、鼻先にこんな美味しい餌がぶら下がっている時にはね」
ウィリアムもまた、微笑でもって主人に応えた。
「承知いたしました」
高層階の窓からは、こんな時間でも星空を落としたような煌びやかなネオンの海が広がっている。ソファーの背もたれに肘をかけ、ヘンリーは身体を捻るようにしてそのさんざめく光の連なりに視線を据えたまま、ウィリアムの報告を聞いていた。
「本当の目的は、キャルでもフェイラーでもない、っていうことでいいんだね?」
自分自身に問いなおしているような呟きに、ウィリアムは慎重に頷いた。
「まさか、アッシャムスをこんなことに使ってこようとはね」
深い吐息とともに向き直り、ヘンリーは嫌悪感を露わにしたセレストブルーの瞳でウィリアムを静かに叱咤する。
「お前がついていて、よくもこんな愚かな真似をさせるなんて」
「あなたも、そう望まれるかと思いました」
「僕を見くびるなよ」
見つめ返した彼の黒い瞳の下の、コンタクトに覆われた本来の色がヘンリーの脳裏をよぎっていた。確かに、復讐――、にはなるのかも知れない。だが、これはあまりにも筋が違うではないか。
「それで、あの馬鹿息子と、取り巻き連中は乗り気なの?」
返事を聞くまでもなかった。パーティでも話題の中心は株だの投資だのの金儲けの内容ばかりだったのだ。自分の財産を増やすことと、いかに使うかしか興味のない連中だ。祖父の周りにはそんな人間しかいない。キャルの婚約者候補のロバート・カールトンにしても御多聞に漏れず、といったところか。
それにしても、いくら相手がカールトンの息子だからといって、吉野のやりくちは見すごせるものではない。もう数か月のうちに倒産することが決定している国営企業、アッシャムスへの投資を持ちかけるなどと。
いったいどれだけの額を取りつけるつもりなのか――。
ロバートのあの能天気な様子からして、彼は自分の父親と杜月家の確執など、知る由もないのだろう。それどころかウィリアムの話によると、このわずかな期間に、本来ならばキャルを巡ってのライバルであるはずの吉野に心酔しきっているのだという。
「彼もシリコンバレーで自分の会社を立ちあげているのだったかな?」
「尊敬する起業家は、父親ではなくあなただそうですよ。先進性とそれを支える高度な技術力、そして父親とは違う、透明性の高いフェアトレードに憧れてやまないそうです」
「それは皮肉で言っているの?」
世にその名を知らぬ者などない、高名な父親に対する青臭い反抗心だ。そのために自分の名を使われるなんて御免こうむりたい、とばかりにヘンリーは口の端で嗤った。
「それよりも、あの子、どういうつもりなんだろうね。メリットが見えないよ。いくらリック・カールトンの子どもだからって、たかだか学生起業家だろ? 無意味な投資に誘ったところで破産するまではいかないだろうに。そんな容易い手に引っかかる馬鹿でも、いずれはカールトンの財産を継ぐ身であることには変わらない。彼の地位は揺らがないさ。せいぜい、一時の笑い者にして終わりじゃないか」
馬鹿馬鹿しい、とばかりの呆れ顔の主人に、ウィリアムは柔らかな笑みを浮かべて問うた。
「どうなさいますか?」
「ロバートに逢えるかな? できれば偶然を装って。ヨシノにはもちろんないしょでね」
「アッシャムスへの投資を止めるよう、助言されるのでしょうか?」
「ヒントくらいは教えてやるかもしれない。それよりも、ヨシノがこんな稚拙な罠を仕掛ける意図を知りたいんだ」
「了解いたしました」
納得した様子でウィリアムは頷く。
「アレンから連絡をもらったんだ」
立ちさりかけたウィリアムを、ヘンリーの物憂げな声音が引き留めた。怪訝な視線で座り直した彼から顔を背けたまま、ヘンリーは喋り続ける。
「アスカの帰国希望の理由だよ」
「ヨシノは考えがあると」
「ヨシノは――、あの子、今どこの会社に投資しているの? それとも、てっとり早く買収してるのかな?」
ヘンリーの声は抑揚がなく、どこか冷たい。
「お前は、あの子のヴィジョンに賛同するの?」
「仰られる意味が判りかねます」
「ロレンツォに先に問い質すべきなのかな?」
おもむろに向き直ったヘンリーの冷ややかな瞳を、ウィリアムはまっすぐに見つめ返した。
「お前は、動じないんだね」
まさか、このウィリアムまでが吉野に懐柔されようとは――。
そんな内心の苛立ちをよそに、ヘンリーはゆるりと笑みを浮かべた。
「ヨシノのこと、頼んだよ。お祖父さまだって、そうそう指を銜えて見ていては下さらない。とくに、鼻先にこんな美味しい餌がぶら下がっている時にはね」
ウィリアムもまた、微笑でもって主人に応えた。
「承知いたしました」
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
双葉病院小児病棟
moa
キャラ文芸
ここは双葉病院小児病棟。
病気と闘う子供たち、その病気を治すお医者さんたちの物語。
この双葉病院小児病棟には重い病気から身近な病気、たくさんの幅広い病気の子供たちが入院してきます。
すぐに治って退院していく子もいればそうでない子もいる。
メンタル面のケアも大事になってくる。
当病院は親の付き添いありでの入院は禁止とされています。
親がいると子供たちは甘えてしまうため、あえて離して治療するという方針。
【集中して治療をして早く治す】
それがこの病院のモットーです。
※この物語はフィクションです。
実際の病院、治療とは異なることもあると思いますが暖かい目で見ていただけると幸いです。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる