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九章
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「ロバートと一緒に飯食ったんだって?」
腹を抱えて笑っている吉野に、ヘンリーは苦笑を浮かべて息をつく。
「そう笑ってばかりいないで、少しは僕の忍耐を褒めてくれたっていいんじゃないのかい?」
「確かにな。俺、そんな無謀な真似したことないもん」
吉野はまだ笑いが収まらないのか、語尾を震わせ揶揄うような目つきで目を細めている。
「あいつ、あんたのところから、まっすぐ俺んとこへ来たんだぞ。あんたがあいつに言ったこと、一言一句聞かされてさ。これから昼食のワインはブルゴーニュの白にするってさ。記念のコルクまで見せられたよ。そりゃ、俺だってあんたに同情したって!」
ヘンリーの帰国に際して、今、この場に吉野の方から見送りにきているのだ。まさかこの話をするためではあるまい、とヘンリーは先から彼が要件を切りだすのを待っているというのに。吉野はなかなかこの話題から離れようとしない。出立までそう長話ができるほどの時間もないというのに。ヘンリーの内心の焦りをよそに、吉野はのんびりとした口調で続ける。その不遜な顔つきは、わざと彼の苛立ちを楽しんでいるようにさえうかがえ、ますますヘンリーの不機嫌に拍車をかけている。
そのうえ、やっと笑い終えたところで、吉野はにっと口角をあげたまま、新たなこの男の話題を上乗せしてしてきたのだ。
「俺、あいつの会社を買い取ろうかと思ってるんだ」
一瞬のヘンリーの表情の変化に、吉野はまた声を立てて笑いだす。
「あんたでも、そんな顔をすることがあるんだな」
予想した上での言葉だろう――。
この話題は本人からも聞いてはいたが、ヘンリーは、彼の思いこみか、あるいは吉野の甘言程度にしか受け止めてはいなかったのだ。それがロバートの話以上の単なる投資ではなく買収となると、さすがに金をどぶに捨てるようなものとしか思えない。自分の耳を疑った、その驚愕がそのまま顔に出ていたのだ。
一呼吸おいて、ヘンリーは慎重に問い質した。
「そんな価値があると?」
「まあね。俺にはね」
楽しげな彼の様子は、冗談で言っているようには見えない。だがこの返事は、会社そのものではない付加価値を匂わせている。吉野自身、あの会社の中身に価値を見出しているわけではないのだろう。かといって、買収話で釣ってアッシャムスに投資させる、というような単純な駆け引きでもなさそうな吉野の一種残酷さを帯びた冷えた瞳に、ヘンリーは言葉を選んで問いを重ねた。
「それは、金をだすというだけでなく、きみが経営に乗りだすって意味かい?」
「どうしようかなぁ。まだ思案中だよ。サウードも、どこまで俺を自由にさせてくれるか判んないしね」
彼の国で逢ったときとは比べ物にならないほど生き生きしているな、とヘンリーは呆れ半分に彼を眺める。
アラブの白い民族服でもなく、正装でもない、久しぶりに見る吉野の私服は、初めて逢った頃のようなTシャツにジーンズ、スニーカーだ。高級ホテルの一室にあっても、この国にはこの方が馴染んで見える。英国にいるよりも砂漠の国にいるよりも、吉野には、よほどこの国の気風の方があっているのではないかとさえ思えてくる。
このロスでの狩りの獲物が、キャルでもフェイラーでもなく、カールトンであると知ることができたのは収穫ではあったが――。
眼前に座るこの男が、あのお気楽な起業家気取りをどう狩って、どう料理するつもりなのかまでは、見えなかった。
おそらくは、狙いはロバートですらなく父親の方なのであろう。不仲が噂されている息子から父親へどう繋いでいくのかすら見通せないなかで、吉野の脳裏にはきっと結末までの筋書きが描きあがっているのだろう。だから動いた。わざわざ米国までその身を運んで。いつの間にそこまでの図式ができあがっていたのやら。
だが、ここ、と囚われていると、いつの間にか彼はもう別の場所にいるのだ。砂漠の蜃気楼のように。近づけば逃げる誘い水のように。
ヘンリーは、これから吹き荒れる新しい風が、直にハリケーンとなって世界を覆いかねないことを予測しながら、彼にとっては、それ以上に重要な眼前の問題をまず投げかけるしかない。
「それはつまり、きみはまた殿下の許へ戻るということかい?」
「当然だろ。俺とサウードの契約はまだ切れてないもの。今は休暇中だよ。そろそろ戻ってこいってせっつかれている」
「契約――」
「あいつが王位に就くまでのね」
「気の遠くなる話だな。現国王が早々退位されるとはとても思えない」
「まあね。それでいいんだよ。今はまだ地盤を固めなきゃいけないからさ」
「きみは自分の時間を彼のために使うことに抵抗はないの?」
くすり、とかすかに吉野は頬を緩ませたようだった。
「サウードのためだけじゃない。俺のためだ。ひいては、飛鳥やあんたのためでもある」
「そんなきみのせいで、アスカは僕の許から離れようとしているのに?」
つい、口についてでた彼の嫌味に、吉野はようやく真っ直ぐな視線を返してきた。
「そう、そのことでな。取引しないか、ヘンリー。あんたにとっても俺にとても有利な話だよ。いや、取引っていうよりも、これはお願いだ」
珍しく、というよりも、初めて、こんな殊勝な態度で話を切りだした吉野を意外感でもって見つめ返しながら、ヘンリーは軽く頷き姿勢を正した。
「なんだい? まずは話を聴いてからだね」
腹を抱えて笑っている吉野に、ヘンリーは苦笑を浮かべて息をつく。
「そう笑ってばかりいないで、少しは僕の忍耐を褒めてくれたっていいんじゃないのかい?」
「確かにな。俺、そんな無謀な真似したことないもん」
吉野はまだ笑いが収まらないのか、語尾を震わせ揶揄うような目つきで目を細めている。
「あいつ、あんたのところから、まっすぐ俺んとこへ来たんだぞ。あんたがあいつに言ったこと、一言一句聞かされてさ。これから昼食のワインはブルゴーニュの白にするってさ。記念のコルクまで見せられたよ。そりゃ、俺だってあんたに同情したって!」
ヘンリーの帰国に際して、今、この場に吉野の方から見送りにきているのだ。まさかこの話をするためではあるまい、とヘンリーは先から彼が要件を切りだすのを待っているというのに。吉野はなかなかこの話題から離れようとしない。出立までそう長話ができるほどの時間もないというのに。ヘンリーの内心の焦りをよそに、吉野はのんびりとした口調で続ける。その不遜な顔つきは、わざと彼の苛立ちを楽しんでいるようにさえうかがえ、ますますヘンリーの不機嫌に拍車をかけている。
そのうえ、やっと笑い終えたところで、吉野はにっと口角をあげたまま、新たなこの男の話題を上乗せしてしてきたのだ。
「俺、あいつの会社を買い取ろうかと思ってるんだ」
一瞬のヘンリーの表情の変化に、吉野はまた声を立てて笑いだす。
「あんたでも、そんな顔をすることがあるんだな」
予想した上での言葉だろう――。
この話題は本人からも聞いてはいたが、ヘンリーは、彼の思いこみか、あるいは吉野の甘言程度にしか受け止めてはいなかったのだ。それがロバートの話以上の単なる投資ではなく買収となると、さすがに金をどぶに捨てるようなものとしか思えない。自分の耳を疑った、その驚愕がそのまま顔に出ていたのだ。
一呼吸おいて、ヘンリーは慎重に問い質した。
「そんな価値があると?」
「まあね。俺にはね」
楽しげな彼の様子は、冗談で言っているようには見えない。だがこの返事は、会社そのものではない付加価値を匂わせている。吉野自身、あの会社の中身に価値を見出しているわけではないのだろう。かといって、買収話で釣ってアッシャムスに投資させる、というような単純な駆け引きでもなさそうな吉野の一種残酷さを帯びた冷えた瞳に、ヘンリーは言葉を選んで問いを重ねた。
「それは、金をだすというだけでなく、きみが経営に乗りだすって意味かい?」
「どうしようかなぁ。まだ思案中だよ。サウードも、どこまで俺を自由にさせてくれるか判んないしね」
彼の国で逢ったときとは比べ物にならないほど生き生きしているな、とヘンリーは呆れ半分に彼を眺める。
アラブの白い民族服でもなく、正装でもない、久しぶりに見る吉野の私服は、初めて逢った頃のようなTシャツにジーンズ、スニーカーだ。高級ホテルの一室にあっても、この国にはこの方が馴染んで見える。英国にいるよりも砂漠の国にいるよりも、吉野には、よほどこの国の気風の方があっているのではないかとさえ思えてくる。
このロスでの狩りの獲物が、キャルでもフェイラーでもなく、カールトンであると知ることができたのは収穫ではあったが――。
眼前に座るこの男が、あのお気楽な起業家気取りをどう狩って、どう料理するつもりなのかまでは、見えなかった。
おそらくは、狙いはロバートですらなく父親の方なのであろう。不仲が噂されている息子から父親へどう繋いでいくのかすら見通せないなかで、吉野の脳裏にはきっと結末までの筋書きが描きあがっているのだろう。だから動いた。わざわざ米国までその身を運んで。いつの間にそこまでの図式ができあがっていたのやら。
だが、ここ、と囚われていると、いつの間にか彼はもう別の場所にいるのだ。砂漠の蜃気楼のように。近づけば逃げる誘い水のように。
ヘンリーは、これから吹き荒れる新しい風が、直にハリケーンとなって世界を覆いかねないことを予測しながら、彼にとっては、それ以上に重要な眼前の問題をまず投げかけるしかない。
「それはつまり、きみはまた殿下の許へ戻るということかい?」
「当然だろ。俺とサウードの契約はまだ切れてないもの。今は休暇中だよ。そろそろ戻ってこいってせっつかれている」
「契約――」
「あいつが王位に就くまでのね」
「気の遠くなる話だな。現国王が早々退位されるとはとても思えない」
「まあね。それでいいんだよ。今はまだ地盤を固めなきゃいけないからさ」
「きみは自分の時間を彼のために使うことに抵抗はないの?」
くすり、とかすかに吉野は頬を緩ませたようだった。
「サウードのためだけじゃない。俺のためだ。ひいては、飛鳥やあんたのためでもある」
「そんなきみのせいで、アスカは僕の許から離れようとしているのに?」
つい、口についてでた彼の嫌味に、吉野はようやく真っ直ぐな視線を返してきた。
「そう、そのことでな。取引しないか、ヘンリー。あんたにとっても俺にとても有利な話だよ。いや、取引っていうよりも、これはお願いだ」
珍しく、というよりも、初めて、こんな殊勝な態度で話を切りだした吉野を意外感でもって見つめ返しながら、ヘンリーは軽く頷き姿勢を正した。
「なんだい? まずは話を聴いてからだね」
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