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九章
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「ヘンリーは、僕が日本に帰るのに反対しているからね。吉野に僕を説得させる気なんだ」
「でも兄は、」
アレンは慌てて口の中のものを呑みこむと、せきこみながら声をあげた。
「別にかまわない、て言ったんだろ、きみにはさ。彼はそういう奴だもの。口で言うことと腹の中で思っていることが違うんだ」
辛辣に言い放ち口の端を歪める飛鳥に、アレンは唖然と目を瞠った。
いったいなにがあったというのだろうか。こんな負の感情をみせる飛鳥にまず驚き、そしてそれ以上に、自分はこの人にずっと気を遣わせ、労わられるばかりだったから本当の想いが判らなかったのかと、そんな羞恥を覚えてアレンは視線を床に落とした。手のつけられていない飛鳥の紅茶がそこにあった。じっと身をひそめて揺れもせず。
「僕がいる限り、あいつはここには戻らない。だから僕がここを出ていく」
飛鳥の方もアレンから目線を逸らし、ぼんやりと中空に漂わせながら、話す、というよりも独り言のように呟いている。
「僕は嫌です」
アレンもまた下を向いたまま呟いた。
「嫌です。アスカさんにお逢いできなくなるのは嫌です。ここにいて下さい」
声が震えていた。抱えこんだ膝を抱きしめる彼の腕に力が入る。吉野も飛鳥もこうして床に座りこむことが多いから、変な癖がついてしまったのだ。彼はどんな姿勢でいればいいのか判らなくて、ついこうして膝を抱えてしまうのだ。
いつも正解が判らない。
デヴィッドには飛鳥をひき留めてくれと頼まれたけれど、それがはたして自分の我儘でないと言いきれるのか、判らない。
ただ、飛鳥までもが、吉野のように自分を置いていってしまうのが辛いのだ。
「ごめん。でもそうすれば、吉野はきっと戻ってくる。僕はもう、あいつの好き勝手でサウード殿下を振り回すのをやめさせたいんだ」
落ち着いた飛鳥の口調に、アレンは泣きだしたいような情けない想いを押し殺し、唇をきつく結んだまま目線をあげた。
「振り回してなんて、」
飛鳥がそんなふうに思っていることが、彼には意外だった。吉野とサウードの語る理想は、誇りに思いこそすれ、決して身勝手なものとは思えなかった。飛鳥だって、以前はそう言っていたではないか。
「殿下が自国を危険に晒すようなことを自ら望むはずがない。吉野はサウード殿下を騙しているんだ」
アレンはきつく眉をよせて小さく首を振る。そんなことは有り得ないのだ、と。
「吉野があの国に産業を興したのは、殿下の国の発展のためじゃない。英国を操るためだよ」
「英国を?」
「人口減少と国力減少はイコールじゃない。余剰人口は逆に国力を疲弊させる。吉野は英国から多量の移民労働者を集めた後、人手不足に陥るであろう企業に人口知能によるシステム化を持ちかける腹積もりなんだ。選別するんだよ、人を」
「それは、いけないことなのですか?」
「使える奴を英国に残し、使えない奴を殿下が引き取る。簡単に人間イコール労働力なんて思うかもしれないけど、その能力差は大きいだろ? 何よりも労働力となるように教育するまでが、お金が莫大かかるんだ。それに、その教育が成果をあげ、彼ら自身で充分な賃金を得ることができるようになるまでは、どうしたって国が荒れる。犯罪率もあがる」
それは真実、吉野の思惑なのだろうか?
飛鳥の独り善がりな思いこみなのではないか、とアレンは息をすることさえ忘れて、身じろぎもせず飛鳥を見つめていた。
「おそらく吉野は教育という大義名分ですら、TSを使った洗脳で乗りきる気なんだ。僕の創った宇宙の映像から割りだした数字を使ってね」
「そんなに上手くいくものでしょうか」
飛鳥の言い分は荒唐無稽としか思えない。吉野やサウードの理想は、もっと清々しいもののはずだ。
「いかないよ。いくはずがない。人間は数字じゃないんだ。だから止めさせたいんだ。これ以上、酷いことにならないうちに」
深くため息をついて、飛鳥はやっと冷めた紅茶に手を伸ばした。喉以上に乾ききっている心を潤すように、一息で飲み干す。
「あいつはヘンリーの籠の鳥だ。ヘンリーがなにも言わなくたって、あいつは自ら囚われるんだ。僕のために。僕を守るためにね。僕がここにいる限り」
「――ヨシノの望みは、兄の望みでもある、と言うことですか?」
「そうは思わないの、きみは?」
「判りません。僕には……」
囁くような声音でアレンは呟いた。兄やデヴィッドの話と飛鳥の主張は、あまりにもかけ離れている。二人とも、エリオット校時代に吉野を金融の道にひき戻すきっかけをヘンリーが作ってしまったことに対して、飛鳥は怒っているのだと言っていたのに。だからアレンは、この問題は未来ではなく過去の話だと思っていたのだ。吉野は自分のために動いてくれたのだ。それならば自分がもう一度、飛鳥に誠心誠意謝ればいいのだ、とアレンは短絡的に考えてここへ来たのだ。
「今が永遠に続くと思っているの?」
「判りません――」
ふっと口の先で笑った飛鳥の表情は、吉野に似ていた。
「きみは、あいつの傍にいてやってよ、叶うなら、ずっと」
柔らかく呟いた飛鳥にアレンは視線を戻した。けれど彼の鳶色の瞳はアレンではなく、もっと遠くを、ここにはいない吉野を見ているようだった。
「でも兄は、」
アレンは慌てて口の中のものを呑みこむと、せきこみながら声をあげた。
「別にかまわない、て言ったんだろ、きみにはさ。彼はそういう奴だもの。口で言うことと腹の中で思っていることが違うんだ」
辛辣に言い放ち口の端を歪める飛鳥に、アレンは唖然と目を瞠った。
いったいなにがあったというのだろうか。こんな負の感情をみせる飛鳥にまず驚き、そしてそれ以上に、自分はこの人にずっと気を遣わせ、労わられるばかりだったから本当の想いが判らなかったのかと、そんな羞恥を覚えてアレンは視線を床に落とした。手のつけられていない飛鳥の紅茶がそこにあった。じっと身をひそめて揺れもせず。
「僕がいる限り、あいつはここには戻らない。だから僕がここを出ていく」
飛鳥の方もアレンから目線を逸らし、ぼんやりと中空に漂わせながら、話す、というよりも独り言のように呟いている。
「僕は嫌です」
アレンもまた下を向いたまま呟いた。
「嫌です。アスカさんにお逢いできなくなるのは嫌です。ここにいて下さい」
声が震えていた。抱えこんだ膝を抱きしめる彼の腕に力が入る。吉野も飛鳥もこうして床に座りこむことが多いから、変な癖がついてしまったのだ。彼はどんな姿勢でいればいいのか判らなくて、ついこうして膝を抱えてしまうのだ。
いつも正解が判らない。
デヴィッドには飛鳥をひき留めてくれと頼まれたけれど、それがはたして自分の我儘でないと言いきれるのか、判らない。
ただ、飛鳥までもが、吉野のように自分を置いていってしまうのが辛いのだ。
「ごめん。でもそうすれば、吉野はきっと戻ってくる。僕はもう、あいつの好き勝手でサウード殿下を振り回すのをやめさせたいんだ」
落ち着いた飛鳥の口調に、アレンは泣きだしたいような情けない想いを押し殺し、唇をきつく結んだまま目線をあげた。
「振り回してなんて、」
飛鳥がそんなふうに思っていることが、彼には意外だった。吉野とサウードの語る理想は、誇りに思いこそすれ、決して身勝手なものとは思えなかった。飛鳥だって、以前はそう言っていたではないか。
「殿下が自国を危険に晒すようなことを自ら望むはずがない。吉野はサウード殿下を騙しているんだ」
アレンはきつく眉をよせて小さく首を振る。そんなことは有り得ないのだ、と。
「吉野があの国に産業を興したのは、殿下の国の発展のためじゃない。英国を操るためだよ」
「英国を?」
「人口減少と国力減少はイコールじゃない。余剰人口は逆に国力を疲弊させる。吉野は英国から多量の移民労働者を集めた後、人手不足に陥るであろう企業に人口知能によるシステム化を持ちかける腹積もりなんだ。選別するんだよ、人を」
「それは、いけないことなのですか?」
「使える奴を英国に残し、使えない奴を殿下が引き取る。簡単に人間イコール労働力なんて思うかもしれないけど、その能力差は大きいだろ? 何よりも労働力となるように教育するまでが、お金が莫大かかるんだ。それに、その教育が成果をあげ、彼ら自身で充分な賃金を得ることができるようになるまでは、どうしたって国が荒れる。犯罪率もあがる」
それは真実、吉野の思惑なのだろうか?
飛鳥の独り善がりな思いこみなのではないか、とアレンは息をすることさえ忘れて、身じろぎもせず飛鳥を見つめていた。
「おそらく吉野は教育という大義名分ですら、TSを使った洗脳で乗りきる気なんだ。僕の創った宇宙の映像から割りだした数字を使ってね」
「そんなに上手くいくものでしょうか」
飛鳥の言い分は荒唐無稽としか思えない。吉野やサウードの理想は、もっと清々しいもののはずだ。
「いかないよ。いくはずがない。人間は数字じゃないんだ。だから止めさせたいんだ。これ以上、酷いことにならないうちに」
深くため息をついて、飛鳥はやっと冷めた紅茶に手を伸ばした。喉以上に乾ききっている心を潤すように、一息で飲み干す。
「あいつはヘンリーの籠の鳥だ。ヘンリーがなにも言わなくたって、あいつは自ら囚われるんだ。僕のために。僕を守るためにね。僕がここにいる限り」
「――ヨシノの望みは、兄の望みでもある、と言うことですか?」
「そうは思わないの、きみは?」
「判りません。僕には……」
囁くような声音でアレンは呟いた。兄やデヴィッドの話と飛鳥の主張は、あまりにもかけ離れている。二人とも、エリオット校時代に吉野を金融の道にひき戻すきっかけをヘンリーが作ってしまったことに対して、飛鳥は怒っているのだと言っていたのに。だからアレンは、この問題は未来ではなく過去の話だと思っていたのだ。吉野は自分のために動いてくれたのだ。それならば自分がもう一度、飛鳥に誠心誠意謝ればいいのだ、とアレンは短絡的に考えてここへ来たのだ。
「今が永遠に続くと思っているの?」
「判りません――」
ふっと口の先で笑った飛鳥の表情は、吉野に似ていた。
「きみは、あいつの傍にいてやってよ、叶うなら、ずっと」
柔らかく呟いた飛鳥にアレンは視線を戻した。けれど彼の鳶色の瞳はアレンではなく、もっと遠くを、ここにはいない吉野を見ているようだった。
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