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九章
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わざわざピカデリーに寄って買ってきたのだ、とロンドンから戻ったばかりのデヴィッドから、アレンは菓子包みを託された。それを手土産にして気持ちだけは前向きに、人の気配を感じられない館のドアを、彼は順繰りに叩いて回っている。
執事のマーカスがいつも通り彼を迎えいれてくれた。サラとメアリーはしばらく不在だ。マーシュコートに戻っているのだそうだ。アレンは、一人この館に残っている飛鳥を気遣って訪ねてきたのだ。頼まれたのが直接の理由ではあるのだが、アレンにしても、いてもたってもいられない想いに駆られていたのだ。
けれど、いざこうして閉ざされたドアの前に立ってみれば、デヴィッドから聞かされた兄と飛鳥の現状は許容量を超えて彼の心を沈ませ、その足取りに錘をつけている。
居間からコンサバトリー、コンピューター室、彼の部屋と、飛鳥のいそうな場所はほぼ確かめた。ティールームやキッチンも念のため覗いてみた。そのどこにも姿はなかった。マーカスは室内にいると言ったのに。
途方にくれて佇んでいる廊下だけでなく、館全体がしんと静まり返っている。静寂がアレンの上に冷たく重く圧しかかる。階下でお茶の用意をしてくれているマーカスの存在を意識して、この息苦しさをごまかそうと彼は頭を振る。
廊下の空色の壁面にもたれ、ぼんやり天井を眺めて思案する。後は、この上の兄の書斎か……。だが突然、はっと息を呑むと、アレンはすぐ隣の部屋をノックすることもなく開けた。
「アスカさん」
室内に背を向け、窓枠に置いた腕に顔をもたせて外を眺めていた飛鳥が、ゆっくりと振りむく。
「やぁ、おかえり、アレン。大学の方はいいの?」
いつもの優しい笑顔が、彼を迎えてくれていた。アレンはほっとして相好を崩す。
「お土産があるんです。デヴィッド卿がピカデリーで、」
「豆大福だろ! デヴィ、あれ大好きだもんな!」
「マーカスさんがお茶を淹れて下さっていますから」
「うん、後で行く」
「後で――」
とくになにをしているようにも見えない飛鳥がすぐにこの場から動かないことに、アレンは不思議そうに口の中で彼の言葉をオウム返した。飛鳥はふっと視線を彷徨わし、一瞬の迷いの後、苦笑を浮かべて言い足した。
「くたびれているんだ。動くのが面倒くさい」
「じゃあ、ここに持ってこさせます」
アレンは備えつけの内線電話にパタパタと駆けている。
「持って来させます――、か」
飛鳥は呟くと、壁にもたれたまま天井を仰ぐ。
「ええ、ヨシノの部屋にお願いします」
受話器を置いたアレンは、一人掛けのソファーに置かれていたクッションを手に、飛鳥と向きあって腰をおろした。
だが、どう話をきり出せばいいのか判らなくて、見るでもなく、飛鳥の背後の窓から灰色の濁った空に滲む雲を目で追って――。
「あの、」
「ねぇ、」
やっとの思いで奮起して発した声音が飛鳥と重なる。アレンは慌てて「どうぞ」と促した。
「きみのイメージの部屋、面白かったよ。TSイベントの映像も初めからきみに頼めばよかった」
花が開くように、アレンの緊張していた面に笑みが広がる。
「ありがとうございます。でも、」
「うん、ヘンリーの意見ももっともだと思う。やはり彼はすごいよね。あの平衡感覚は僕には持ちえないものだよ」
自分の言いかけたのとは違う予想外の兄の名に、アレンは戸惑い、動揺を隠せず顔色を変えた。
兄は自分のアイデアになんと言ったのだろうか?
その疑念だけで頭がパニックを起こしそうになる。その時耳に入ったノックの音に、アレンは弾かれるように立ちあがる。
入室したマーカスは、ティーテーブルで丁寧に紅茶を淹れ、床に座っている飛鳥の前にそつなくティーカップと菓子皿を置く。
「今日は豆大福じゃなくて草餅だ! デヴィの奴、これ、いつも売り切れてるってボヤいてたのに今日は買えたんだね」
くすくす笑う飛鳥に、アレンは焦って相槌を打った。
「そう、そうなんです! だからアスカさんにも持っていくように、って言われて」
「ありがとう」
「紅茶はヌワラエリアに致しました」
「ありがとう、マーカスさん。吉野が言っていたのを覚えていてくれたんだね」
飛鳥の謝辞に、マーカスは口許に誇らしげな皺を刻み微笑み返している。
和菓子には、繊細な花を思わせる香りのハイグロウンティー、ヌワラエリアを。すっきりとした爽やかな渋みが餡を使った菓子にあう。
普段飲んでいる紅茶よりも薄い、オレンジがかった液体が白磁に映えている。砂糖とミルクを入れようとして吉野に怒られたことがあった。アレンは再び飛鳥の前に座りなおし、傍らのティーカップを懐かしく持ちあげた。
「僕が日本に帰ったら、あいつもここに戻ってくるよ」
白い皿の上の丸い薄緑を冷めた目つきで見ながら、飛鳥は唐突に呟いた。
「え?」
くぐもった声が声をなさない。草餅を頬張っていたアレンは、頬を膨らませたまま目を見開く。
「吉野。僕に顔向けできないような真似をしているから、ここに帰ってこれないんだよ」
返す言葉を失ったまま自分を凝視するアレンに、飛鳥は申し訳なさそうな笑みを見せた。
「ヘンリーがもうロスに着いているはずだ。戻ってくるようにあいつを説得に行ってるんだ。デヴィから聞いてないのかな?」
アレンは立て続けに知らされた寝耳に水の話に、呆然としたまま首をふるふると横に振るばかりだ。
執事のマーカスがいつも通り彼を迎えいれてくれた。サラとメアリーはしばらく不在だ。マーシュコートに戻っているのだそうだ。アレンは、一人この館に残っている飛鳥を気遣って訪ねてきたのだ。頼まれたのが直接の理由ではあるのだが、アレンにしても、いてもたってもいられない想いに駆られていたのだ。
けれど、いざこうして閉ざされたドアの前に立ってみれば、デヴィッドから聞かされた兄と飛鳥の現状は許容量を超えて彼の心を沈ませ、その足取りに錘をつけている。
居間からコンサバトリー、コンピューター室、彼の部屋と、飛鳥のいそうな場所はほぼ確かめた。ティールームやキッチンも念のため覗いてみた。そのどこにも姿はなかった。マーカスは室内にいると言ったのに。
途方にくれて佇んでいる廊下だけでなく、館全体がしんと静まり返っている。静寂がアレンの上に冷たく重く圧しかかる。階下でお茶の用意をしてくれているマーカスの存在を意識して、この息苦しさをごまかそうと彼は頭を振る。
廊下の空色の壁面にもたれ、ぼんやり天井を眺めて思案する。後は、この上の兄の書斎か……。だが突然、はっと息を呑むと、アレンはすぐ隣の部屋をノックすることもなく開けた。
「アスカさん」
室内に背を向け、窓枠に置いた腕に顔をもたせて外を眺めていた飛鳥が、ゆっくりと振りむく。
「やぁ、おかえり、アレン。大学の方はいいの?」
いつもの優しい笑顔が、彼を迎えてくれていた。アレンはほっとして相好を崩す。
「お土産があるんです。デヴィッド卿がピカデリーで、」
「豆大福だろ! デヴィ、あれ大好きだもんな!」
「マーカスさんがお茶を淹れて下さっていますから」
「うん、後で行く」
「後で――」
とくになにをしているようにも見えない飛鳥がすぐにこの場から動かないことに、アレンは不思議そうに口の中で彼の言葉をオウム返した。飛鳥はふっと視線を彷徨わし、一瞬の迷いの後、苦笑を浮かべて言い足した。
「くたびれているんだ。動くのが面倒くさい」
「じゃあ、ここに持ってこさせます」
アレンは備えつけの内線電話にパタパタと駆けている。
「持って来させます――、か」
飛鳥は呟くと、壁にもたれたまま天井を仰ぐ。
「ええ、ヨシノの部屋にお願いします」
受話器を置いたアレンは、一人掛けのソファーに置かれていたクッションを手に、飛鳥と向きあって腰をおろした。
だが、どう話をきり出せばいいのか判らなくて、見るでもなく、飛鳥の背後の窓から灰色の濁った空に滲む雲を目で追って――。
「あの、」
「ねぇ、」
やっとの思いで奮起して発した声音が飛鳥と重なる。アレンは慌てて「どうぞ」と促した。
「きみのイメージの部屋、面白かったよ。TSイベントの映像も初めからきみに頼めばよかった」
花が開くように、アレンの緊張していた面に笑みが広がる。
「ありがとうございます。でも、」
「うん、ヘンリーの意見ももっともだと思う。やはり彼はすごいよね。あの平衡感覚は僕には持ちえないものだよ」
自分の言いかけたのとは違う予想外の兄の名に、アレンは戸惑い、動揺を隠せず顔色を変えた。
兄は自分のアイデアになんと言ったのだろうか?
その疑念だけで頭がパニックを起こしそうになる。その時耳に入ったノックの音に、アレンは弾かれるように立ちあがる。
入室したマーカスは、ティーテーブルで丁寧に紅茶を淹れ、床に座っている飛鳥の前にそつなくティーカップと菓子皿を置く。
「今日は豆大福じゃなくて草餅だ! デヴィの奴、これ、いつも売り切れてるってボヤいてたのに今日は買えたんだね」
くすくす笑う飛鳥に、アレンは焦って相槌を打った。
「そう、そうなんです! だからアスカさんにも持っていくように、って言われて」
「ありがとう」
「紅茶はヌワラエリアに致しました」
「ありがとう、マーカスさん。吉野が言っていたのを覚えていてくれたんだね」
飛鳥の謝辞に、マーカスは口許に誇らしげな皺を刻み微笑み返している。
和菓子には、繊細な花を思わせる香りのハイグロウンティー、ヌワラエリアを。すっきりとした爽やかな渋みが餡を使った菓子にあう。
普段飲んでいる紅茶よりも薄い、オレンジがかった液体が白磁に映えている。砂糖とミルクを入れようとして吉野に怒られたことがあった。アレンは再び飛鳥の前に座りなおし、傍らのティーカップを懐かしく持ちあげた。
「僕が日本に帰ったら、あいつもここに戻ってくるよ」
白い皿の上の丸い薄緑を冷めた目つきで見ながら、飛鳥は唐突に呟いた。
「え?」
くぐもった声が声をなさない。草餅を頬張っていたアレンは、頬を膨らませたまま目を見開く。
「吉野。僕に顔向けできないような真似をしているから、ここに帰ってこれないんだよ」
返す言葉を失ったまま自分を凝視するアレンに、飛鳥は申し訳なさそうな笑みを見せた。
「ヘンリーがもうロスに着いているはずだ。戻ってくるようにあいつを説得に行ってるんだ。デヴィから聞いてないのかな?」
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