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九章
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今度こそ躊躇することなく、ヘンリーはコンピュータールームをノックした。
返事がない。再度のノックにも反応はなかったのでドアを開けた。
案の定、飛鳥はモニターの青白い光を浴びながら、薄闇の中デスクにつっ伏して眠っていた。ヘンリーは、自分を拒絶しての無反応ではなかったことに安堵して灯りを点けた。静かに歩みより、顔を隠している彼の長い前髪をくしゃりとかきあげる。
顔色が悪い。生気のない肌色にヘンリーは眉根を寄せる。そして、いつまで経っても変わらない自分たちの関係性の進展のなさにため息をつく。
「アスカ、」
ひんやりとした頬を指の甲で擦った。
「アスカ、眠るなら部屋に戻って」
顔を歪めた飛鳥に重ねて注意を促した。
「……」
苛立たしげに返ってきた言葉は日本語だった。持ちあがった瞼の下の昏い光を帯びた鳶色の瞳は、目の前に立つ相手を睨めつけていた。だが彼がそう感じたのも束の間で、身体を起こした飛鳥は、気怠げに頭を振ってはいるが、わずかに口角をあげている。
「戻ってたんだ――。おかえり、ヘンリー」
「ただいま」と返しながら、ヘンリーはノックの音にも返事をした。マーカスだ。
「お茶を。それとも、コーヒーの方が良かったかな?」
飛鳥は頭痛がするのか、軽く眉をしかめたまま首を振る。
「お茶をいただくよ、ありがとう」
「また無理をしているんじゃないのかい? どこかの支店でバグがでたって?」
「バグってわけじゃない。映像を設置する店舗が急に変更になってね、新しいスペースに合わせた調整に手間取っていただけだよ」
飛鳥は普段と変わらない様子で、ヘンリーが留守にしていた間の作業内容を報告した。とても事務的に。
マーカスを下がらせて、ヘンリーは手ずからお茶を淹れた。飛鳥と向かいあって温かくまろやかな液体を喉に流しこみながら、この無機質な声に耳を傾ける。
彼は、どう言えばいいのか判らなかった。なにを口にすれば、飛鳥がもう一度心を開いてくれるのか判らなかった。今までとなにが違うのかすら、上手く説明できない。ヘンリーは、互いの間が透明の膜で遮断されているような疎外感を感じていた。
以前のように怒ってさえくれないのか、と、どうしようもなく焦燥感にかられながら、表面は何事もない顔をしてヘンリーはお茶を飲みくだす。飛鳥の報告に、同じように事務的に応えながら。
「ヘンリー、ポーカーをしないか?」
飲み干したカップをソーサーにカチャリと戻して、飛鳥は唐突にそんなことを言いだした。
「ポーカー?」
「賭けをしよう。勝った方が相手の願いをひとつきくんだ」
「きみの願いは?」
「しばらく日本に帰りたい」
ヘンリーは押し黙り、一呼吸をおいてから軽く首を振る。
「一度帰国したいのなら、そんな賭けなんてしなくても、」
「ポーカーで決めよう。どうする? のる?」
強引に遮られ、冷たい鳶色の瞳に射すくめられ、ヘンリーは頷いた。
勝てばいい――。
単純にそう思ったのだ。飛鳥は吉野とは違う。賭け事の天才というわけではない。むしろ賭け事を嫌い、ポーカーなどしたこともないはずだ。
飛鳥は前もって用意していたらしいトランプのケースを、ヘンリーに手渡した。
「チップはなしだね、一回勝負? テキサスホールデムでいいのかな?」
トランプをシャッフルしながらヘンリーが訊ねると、飛鳥は軽く頷いた。一枚目のカードを脇に捨て、互いの前にカードを二枚伏せて置き、デスクに戻した山札から三枚のカードを開いて置く。
ヘンリーは自分の手札を確認する。飛鳥にちらりと視線だけ向けると「なんて言うのかな? オールイン?」と、吉野が使っていたポーカー用語を、飛鳥は思いだしながら口にした。
「手札は変えないの?」
飛鳥はカードに触れていない。自分の手札を確かめてすらいないのだ。本当にルールを解っているのかも怪しいこの勝負に、ヘンリーは眉をひそめた。
「これで勝負する」
「僕の望みはなにかを、きみは訊ねないの?」
「なんだっていいよ。僕が勝つ」
真っ直ぐに向けられた飛鳥の瞳を、ヘンリーも身じろぎもせず見つめ返した。
「そう、じゃあ僕もこれで受けて立つ」
ヘンリーは山札からさらに二枚のカードを開いて置いた。次いで、自分の手札を表に返す。ハートのフルハウスだ。
「ジェームズ・テーラーたちヘッジファンドの連中が吉野を欲しいと言ってきた時、お祖父ちゃんは、こうやってあの連中から吉野の自由を取り戻したんだ」
開かれた二枚のクイーンに、ヘンリーは目を見開いて息を呑んだ。信じられない、と場札の中の同じ二枚の絵札に視線を移す。カードのクイーンが、ニヤニヤと勝負に敗れた彼を嗤っていた。
「きみには解らないだろ? どんな想いで、僕らがあいつを守ってきたのか――」
冷ややかな飛鳥の声に、ヘンリーなにも言い返せなかった。
「僕の勝ちだ」
飛鳥は立ちあがり、部屋を出ていった。
――神様はサイコロ遊びをなさるんだよ。
いつだかの吉野の言葉を、ヘンリーはふと思いだしていた。
返事がない。再度のノックにも反応はなかったのでドアを開けた。
案の定、飛鳥はモニターの青白い光を浴びながら、薄闇の中デスクにつっ伏して眠っていた。ヘンリーは、自分を拒絶しての無反応ではなかったことに安堵して灯りを点けた。静かに歩みより、顔を隠している彼の長い前髪をくしゃりとかきあげる。
顔色が悪い。生気のない肌色にヘンリーは眉根を寄せる。そして、いつまで経っても変わらない自分たちの関係性の進展のなさにため息をつく。
「アスカ、」
ひんやりとした頬を指の甲で擦った。
「アスカ、眠るなら部屋に戻って」
顔を歪めた飛鳥に重ねて注意を促した。
「……」
苛立たしげに返ってきた言葉は日本語だった。持ちあがった瞼の下の昏い光を帯びた鳶色の瞳は、目の前に立つ相手を睨めつけていた。だが彼がそう感じたのも束の間で、身体を起こした飛鳥は、気怠げに頭を振ってはいるが、わずかに口角をあげている。
「戻ってたんだ――。おかえり、ヘンリー」
「ただいま」と返しながら、ヘンリーはノックの音にも返事をした。マーカスだ。
「お茶を。それとも、コーヒーの方が良かったかな?」
飛鳥は頭痛がするのか、軽く眉をしかめたまま首を振る。
「お茶をいただくよ、ありがとう」
「また無理をしているんじゃないのかい? どこかの支店でバグがでたって?」
「バグってわけじゃない。映像を設置する店舗が急に変更になってね、新しいスペースに合わせた調整に手間取っていただけだよ」
飛鳥は普段と変わらない様子で、ヘンリーが留守にしていた間の作業内容を報告した。とても事務的に。
マーカスを下がらせて、ヘンリーは手ずからお茶を淹れた。飛鳥と向かいあって温かくまろやかな液体を喉に流しこみながら、この無機質な声に耳を傾ける。
彼は、どう言えばいいのか判らなかった。なにを口にすれば、飛鳥がもう一度心を開いてくれるのか判らなかった。今までとなにが違うのかすら、上手く説明できない。ヘンリーは、互いの間が透明の膜で遮断されているような疎外感を感じていた。
以前のように怒ってさえくれないのか、と、どうしようもなく焦燥感にかられながら、表面は何事もない顔をしてヘンリーはお茶を飲みくだす。飛鳥の報告に、同じように事務的に応えながら。
「ヘンリー、ポーカーをしないか?」
飲み干したカップをソーサーにカチャリと戻して、飛鳥は唐突にそんなことを言いだした。
「ポーカー?」
「賭けをしよう。勝った方が相手の願いをひとつきくんだ」
「きみの願いは?」
「しばらく日本に帰りたい」
ヘンリーは押し黙り、一呼吸をおいてから軽く首を振る。
「一度帰国したいのなら、そんな賭けなんてしなくても、」
「ポーカーで決めよう。どうする? のる?」
強引に遮られ、冷たい鳶色の瞳に射すくめられ、ヘンリーは頷いた。
勝てばいい――。
単純にそう思ったのだ。飛鳥は吉野とは違う。賭け事の天才というわけではない。むしろ賭け事を嫌い、ポーカーなどしたこともないはずだ。
飛鳥は前もって用意していたらしいトランプのケースを、ヘンリーに手渡した。
「チップはなしだね、一回勝負? テキサスホールデムでいいのかな?」
トランプをシャッフルしながらヘンリーが訊ねると、飛鳥は軽く頷いた。一枚目のカードを脇に捨て、互いの前にカードを二枚伏せて置き、デスクに戻した山札から三枚のカードを開いて置く。
ヘンリーは自分の手札を確認する。飛鳥にちらりと視線だけ向けると「なんて言うのかな? オールイン?」と、吉野が使っていたポーカー用語を、飛鳥は思いだしながら口にした。
「手札は変えないの?」
飛鳥はカードに触れていない。自分の手札を確かめてすらいないのだ。本当にルールを解っているのかも怪しいこの勝負に、ヘンリーは眉をひそめた。
「これで勝負する」
「僕の望みはなにかを、きみは訊ねないの?」
「なんだっていいよ。僕が勝つ」
真っ直ぐに向けられた飛鳥の瞳を、ヘンリーも身じろぎもせず見つめ返した。
「そう、じゃあ僕もこれで受けて立つ」
ヘンリーは山札からさらに二枚のカードを開いて置いた。次いで、自分の手札を表に返す。ハートのフルハウスだ。
「ジェームズ・テーラーたちヘッジファンドの連中が吉野を欲しいと言ってきた時、お祖父ちゃんは、こうやってあの連中から吉野の自由を取り戻したんだ」
開かれた二枚のクイーンに、ヘンリーは目を見開いて息を呑んだ。信じられない、と場札の中の同じ二枚の絵札に視線を移す。カードのクイーンが、ニヤニヤと勝負に敗れた彼を嗤っていた。
「きみには解らないだろ? どんな想いで、僕らがあいつを守ってきたのか――」
冷ややかな飛鳥の声に、ヘンリーなにも言い返せなかった。
「僕の勝ちだ」
飛鳥は立ちあがり、部屋を出ていった。
――神様はサイコロ遊びをなさるんだよ。
いつだかの吉野の言葉を、ヘンリーはふと思いだしていた。
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