胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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 アーカシャーHD本社がロンドンからケンブリッジに移転したため、ロレンツォは久しぶりに学生時代をすごしたこの街を訪れた。
 南米各国、米国、そして欧州を飛び回る日々がやっと落ち着いたと思ったら、今度は中東だ。ようやく帰国したところを、待ちかまえていたようにヘンリーからの呼びだしだ。指定先は本社ビルではなく、中央駅前のホテルのミーティングルームだった。

 案内された部屋はよくある無機質で殺風景な貸し会議室ではなかった。柔らかな絨毯の上に立ち、ロレンツォはぐるりと室内を見回した。
 まっ先に目に入る正面は、壁面を占める窓が天井まで届く二面の角。そして、モダンな写真フレームがいくつも飾られた壁面添えつけのサイドボード。冷蔵庫が組みこまれ、ペリエの瓶が並んでいる。台上にはエスプレッソ・マシーンに、デミカップ、グラス。ナッツ類の詰められた広口の瓶まである。

 そして、中央に置かれた柔らかな質感のパイン材の大テーブルでは、ヘンリーが物珍しげに室内を観察しているロレンツォを面白そうに眺めていた。

「アーカシャーの社員は、こんな所で会議をするのか!」
 呆れ声で言い放ち、ロレンツォは自らペリエとグラスを手にとってテーブルに着いた。色とりどりの原色の麻布のパッチワークの施された椅子にも微苦笑している。
「駅から近いのがここを選んだ一番の理由だけどね、アットホームな雰囲気がいいって、社員にはなかなか好評なんだ」
「へえー、そんなものなのか」

 ペリエをグラスに注ぎ、ヘンリーの背後に見える駐車場やその奥の街並みに目をやりながら、ロレンツォはごくごくと喉を潤した。もう夏は終わったというのに、やたらと喉が渇いていた。


「それで、あの子は見返りに何を要求してきたの?」

 ここまで来る道すがらロレンツォが予想していた通り、ヘンリーは単刀直入に切りこんできた。世間話などしている暇はない、と言うことか。

「お前が知っている以上の内容じゃない」
 相変わらず表情の読めないヘンリーの冷淡な顔つきに苦笑いを返す。

 喉も乾くはずだ。
 あの砂漠にいる小僧の問題で、これからどれだけの嫌味と当て擦りが降りそそぐのか、判ったものじゃないのだから――。

「僕は怒っているわけではないんだ。彼のプロジェクトには賛同している。できうる限りの援助も惜しまないつもりだ」

 澄ました顔で告げるヘンリーを凝視して、ロレンツォは朗らかな声をあげて笑いだした。

「なんだ、お前、『アッシャムス』のCDSでも買っているのか?」
「まさか! そんな下劣な真似を僕がするはずがないだろう?」

 さも不愉快だといわんばかりにヘンリーは眉をひそめる。ロレンツォはそんな彼を鼻で嗤った。

「なら、お前があいつに肩入れする理由は何だ? 多少の技術協力をしているとはいえ、利益は微々たるものだろうに」
「彼の最終的な目的が英国のためになるからだよ」

 どこか皮肉げな笑みを浮かべてヘンリーは応えた。その脳裏には、吉野が自分に見せたマシュリク国の青写真を、鮮明に描き直していた。

 砂漠の地に太陽光発電システムを用いた温室栽培工場を造り、基幹産業に育てる。アブドとの確執で今は留まっているが、まだ事業は始まったばかりだ。

 破壊された施設を修復させた後は、予定通りこの工場地の周囲に最先端のエコシステムを試験的に採用した都市を造り、研究開発を兼ねた実験都市を築いていく。そしてそのための人材や工場で働く労働者を、大量に英国、次いで欧州から受けいれる。
 詰まるところ彼は、アラビア圏からの経済移民として英国に渡ったアラブ人を引き受ける、といっているのだ。

 それはたんに労働人口を増やすためだけではない。
 自国民優先の充実した福祉政策の行き着いた現実として、外資系企業に入社した際に著しく能力面で劣る事実の危ぶまれている、マシュリク国の若者の危機感を煽るためでもある。経済的に恵まれた環境ゆえに競争意識の芽が育たず、就学、就労意識が低く、同族内で甘やかされて育ってきた若年層の失業率は、すでに目にあまるほどなのだ。それに加えて、同族婚が今でも奨励され守られている現状を、打破したいがための施策でもあった。

「英国のためか!」

 ロレンツォは、またもや声をたてて呵々と笑った。

 確かにそうに違いない。英国内の厄介事をひき取ってくれるというのだから――。
 アラブ人を優先させた好条件での人材斡旋の依頼は、今の時点では好感触を得ている。あの血族政治で牛耳られた土地で、王族と一部企業の癒着のために遅々として進まなかった状況が、アブド大臣の暴挙、そしてそれに続く彼の失脚で改善されたからだ。

 大量の就労募集は建設労働者や高度技術者だけではない。大学の研究室、各国の環境開発研究所さえもが注目している、垂涎の的のプロジェクトなのだ。

 今回のように、テロの標的にされることさえなければ――。

「確かにな。あのアブドの爆撃で我先にと各国企業が撤退した後の、ここからが国を挙げての本当のプロジェクトの始まりだ、などと誰も思うまいよ。美味しい箇所はすべて英国がいただく算段か?」

 ロレンツォの皮肉な口調に、ヘンリーはおもむろに首を振る。

「あの子はそこまで甘くないだろうね。あの子の欧米嫌いは相変わらずだったからね。美味しい思いをさせてくれるかどうかは、こちらの差しだすもの次第だよ」

 くすくすと笑いながら、ヘンリーはのらりくらりと話をかわすロレンツォを見据えて言葉を継いだ。

「それで、ヨシノは何千人の英国在住アラブ系移民を要求してきたの?」





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