胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

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 王宮のコンピュータールームの壁に沿う低いソファーで仮眠をとっていた吉野は、室内に滑るように入ってきた影を寝そべったまま頭を反らして呼び止める。
「イスハーク、お前の殿下がまた駄々を捏ねてるぞ」
「私の、ではない。我々の、だ」
 吉野の傍らに歩みより、イスハークは絨毯の上に音もなく腰をおろす。

「あいつ、俺に気を遣いすぎ。アレンを使って俺に英国に戻れと言ってきた」
 くすくす笑いながら話す吉野を、イスハークは表情を変えることもなく眺めおろしている。
「お前がそうやって、いつまでもだらだら寝てばかりいるからだ」
「それは昔っから変わんねぇだろ?」
 吉野は肘をたてて頭を支えると、無表情な男に笑顔を向ける。
「変わらんな。お優しい殿下は、いつもお前の心配ばかりされている」
「そのわりに何も解っちゃいないな。あいつに言わせたって無駄なのにさ」

 目の前に座るイスハークを挑発するようににっと笑う。だが直ぐにその笑みを引っこめて、吉野は目を細めて彼の背後に並ぶモニターに視線を据えて半身を起こした。

「なかなか上手くいかないもんだな」

 モニター画面のなかでは、一人の囚人が四方を白い壁に囲まれた部屋の床に身動きひとつせず座っている。その瞳は虚ろで焦点が定まっていない。時々、独り言でも言っているのか、唇が痙攣するように動いている。明らかに正気の様子ではなかった。

「使えそうな奴、どれくらいいた?」
「七名というところか」
「そうか。大した人数じゃないんだな」
「十分だろう? 元フランス外人部隊の精鋭揃いだ」
「ああ、それくらいしか能力値が届く奴がいないってことか――」

 吉野はわずかに唇の端を釣りあげて苦笑する。

 テロの暗殺要員には正規の軍事訓練を受けていた傭兵がいる。だが、それはごく一部にすぎない。大半が耳に心地よい理想と大義名分に酔わされ、騙された若者たちだ。国の将来を憂い、自分の行いが未来を変えると信じて犯行に及んだのだ。それも今は、己の置かれた現実に目を覚まされ、これから自分の身の上に起こる未来に絶望し、正気と狂気の境を彷徨っている。彼らを狂わせているのは亡霊の幻影ではなく、受け止めきれない現実だ。たやすく魅せられた夢は、覚めるのもまた早かった。


 そんな彼らのなかから優秀な者たちだけを命と引き換えに掬いあげ、忠実な兵士となるよう寝返らせる。そのための選抜を、吉野とイスハークは行っているところだった。


「プロはそれっぽちとはな……。アブドの野郎、こいつらをなんだと思っていたんだろうな」
「使い捨ての駒だろう、それ以外になにがある?」
「お前もそうだったな。サウードのための駒だ」
「それ以上の名誉はない」

 胸を張って応じるイスハークに、吉野は微苦笑を浮かべて視線を返す。

「だから、仕える相手を間違えた、と、そう言わせた方が勝ちか?」

 所詮は血縁同士の王位争いでしかないものを――。アブドは一度の狩りでより多くの獲物を狙おうとする。犠牲など省みることなく。

 その結果がこれだ。大義名分の欠片もない、個人の欲を満たすために組織されたテロ集団は解体され、逃げ遅れたまぬけは死刑台行きだ。そして、最前線で闘っていた者も――。

 飛鳥の見せた彼らの故郷が彼らの中に美しく蘇り、いつか訪れる未来が輝かしく彼らを照らせば照らすほど、その儚い夢の中に安寧する者と、自らの闇にそれまで以上に深く沈む者とに分かれたのだった。おのれの未来を断ちきった行為を、受容できる者、できない者、信じる者、否定する者。人の心は一筋縄ではいかない。


「その七名は、どう使うんだ?」

 吉野は鬱屈した想いを振り払い、尋ねた。

「殿下の影の近衛だ」
「それほど優秀か? 掘り出しものだな。だが、信用できるのか? 映像での洗脳なんて、大したものじゃないぞ。中にどっぷり浸かっている間は成功しているように見えるかもしれないが――」
「リストを出しておく。テストしてくれ」

 射貫くように自分に向けられた視線に、吉野は軽く頷き返す。

 すべてを掬いあげることなどできない。愚かさにかける温情など、この国では理解されない。罪にはそれに見あう罰を。法治国家である以上、当然の処置だ。役に立つ、立たないで恩赦をかけ命を与える方がよほど不条理だ。

 そんなことは解っている。解ってはいるが遣り切れない。

 理想を持つこと、夢を見ることを否定している気がした。
 彼らは理想を実現するための手段を間違えた。従う相手を間違えた。その結果なのか?
 吉野には、そうとは思えなかったのだ。このゲームはアブドが負け、サウードが勝った。それだけのことにすぎない。この二人の見据える国の未来に、大した差などなかったのだ。


 吉野はぼんやりと視線を漂わせ、また糸が切れたようにぱたんと寝転がった。

「もし、俺が休養をとることでサウードが安心するのなら、俺、しばらく米国に行ってきていいか? アレンのさ、姉貴の婚約話が進んでるんだよ。フェイラーの爺さん、アレンに跡を継がす気ないみたいだからさ。どんな奴らが候補に挙がってるのか見ておきたいんだ」

 吉野がアラベスク文様の描かれた白い天井に目を据えたままそう告げると、イスハークはわずかに眉をしかめた。

「いつ出立する?」
「あいつらが帰ったらすぐにでも。こっちの要件はそれまでにすますよ。後はお前らだけで充分だ。やることは定まっている。俺の出番はしばらくないだろ?」
「サウード殿下には、」
「俺から言うよ。バカンスをくれってさ」
「戻ってくるのか?」
「当然だろ。お前の殿下をこんな中途半端な場面で放りだすはずないだろ?」

 サウードは恐れているのだ、と吉野はぼんやり考えていた。アレンと同じように吉野じぶんに依存しすぎる彼自身を恐れている。そして、吉野に頼り利用し続けざるをえない現状や、周囲をも。

 だから距離を置きたいのだ――。吉野から。

 だが、イスハークもまた、恐れている。まだ年若いサウードが外圧に押され血縁に翻弄され、操られるままの傀儡の王に成りさがる可能性を。サウードの足場を固め、確固たる地位を認めさせるためには、まだまだ吉野の頭脳が必要なのだ。改革は、まだやっと着手したばかりなのだから。


「お前の殿下が王位に就くのを見届けるまで――、約束は守るよ」

 目を瞑り、独り言のように吉野は呟いた。イスハークはそんな彼を、微動だせずに見つめていた。
 


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