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八章
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サウード、そして吉野の暮らす砂漠の国にアレンは再び戻ってきた。この巨大な門をくぐり、初めてこの地を訪れてから、それほどの日数が空いているわけではない。
だが再会した吉野は目にみえて変わったと、アレンには思えてならなかった。クリスもフレデリックも、過酷な日々をすごしていたわりに元気そうだ、以前のままの変わらない吉野だと口々に喜んでいるというのに。
エリオットにいた頃と同じ、彼の突拍子もない冒険談に笑い興じて皆で騒いだ。サウードも、いつもの鷹揚な笑みを浮かべて自分たちをもてなしてくれている。
前回ここを訪れた時よりも、状況はよほど改善していることは、王宮に一歩足を踏み入れた時に判った。このわずかな期間に、前回感じたぴりぴりとした緊迫感も、重苦しい空気も、何もかもが払拭されていたのだから。
それなのに、アレンは釈然としないのだ。そう感じる理由も解らないまま、漠とした不安を打ち消すことができずにいる。
笑っている吉野はどこか虚ろで、映しだされている立体映像の方がよほど、現実にみえる。だがなぜそんなふうに感じるのか、アレンは自分でも解らなかった。
今まで、彼の、この笑顔を疑ったことなどなかったのに――。
そんな折、サウードにアレンだけがお茶に誘われた。その日は飛鳥の創った立体映像の効果を見せてもらう予定だった。アレンは、刑務所の独房内で余命をすごす過酷な囚人たちの姿を、吉野が、そしてサウードも、神経質で気の弱い自分には見せない方が良いと判断しての気遣いなのだ、と受けとった。
本当はアレンにしても、彼らがあの映像をどう受けとめてどんな反応を示すのか、自分の目で確かめて飛鳥に伝えたかった。だが同時に、吉野やサウードの殺害を謀った彼らを前にしたとき、自分がどんな想いを抱えるか知りたくない、恐れる自分を見たくない、そんな想いも確かにあったのだ。
金糸刺繍で飾られた深紅の低いソファーが三方の壁に沿ってぐるりと取り囲む客間に、サウードは一人くつろいでいて、アレンが来るのを待っていた。
サウード自ら注いでくれたお茶はアラブ式ではなく、英国式の薄い磁器のティーカップから香り高くたち昇るダージリンだ。それにビスケットや一口大のケーキなどを盛った菓子皿もある。アレンはお礼を言い、ティーカップを受けとった。
「真夏にこの国に来たのでは、つまらないだろう? 暑すぎて庭を散策することすらできない」
「こうして訪れるなら、きみたちの住む世界の一番厳しい時を見たい。その方がより深く理解できるような気がするもの」
熱いお茶がもう少し冷めるのを待ちながら、アレンは傍らに座るサウードに微笑みかけた。
「理解? いったい何を? 温暖な日本の気候で育ったヨシノが、この過酷な地でいつ根をあげるか知りたいの?」
良く知っている温和なサウードに似つかわしくない辛辣なもの言いに、アレンはそれと判らないほど眉根を寄せる。
「ヨシノは気候風土ごときで根をあげたりしない。そのくらい、きみの方が良く知っているじゃないか」
静かな声音で、だが負けじと言い返したアレンに、サウードはふっと浮かべた笑みで応じる。
「以前ヨシノが、きみは怒ると瞳の色が紫を帯びると言っていたことがある。本当だったんだね」
その言葉をアレンがどんな顔で受け止めたかを確かめることもせず、サウードは、目線を伏せてティーカップを口に運んだ。
「ヨシノを――、きみたちと一緒に英国に連れ帰ってほしい」
間を置いて、率直に向けられた視線に重ねられた意外な言葉に、アレンはぽかんと言葉を失い、感情の読めない深い漆黒の闇で自分を射すくめる彼の静かな面をまじまじと見つめ返した。
「ヨシノが、そう、望んでいるの?」
喉を潤したばかりなのに、カラカラに乾いた声が口内から漏れ落ちる。当然のようにサウードは首を横に振る。
「彼を見ていると、僕が辛いんだよ」
静かな瞳はアレンから外れて手許のティーカップに落とされた。けれどその言葉は、瞳と同様にアレンを縛り動揺の内に置き去りにしている。
「きみの言う意味が解らない」
「彼は、ヨシノは、誰にでも情をかける。相手が何者であろうと。僕にはそんな彼が理解できない。昔からそうだよ。エリオットの頃からずっと――」
今度はアレンも頷いた。吉野のそんな一面はよく知っている。彼は誰にでも優しく、誰をも拒まない。助けを求めれば応えてくれる。それが当たり前のように。知っていたからこそ甘えていたのだ。吉野は、彼は、必ず応えてくれる、と。
「彼は、自分自身を削りとって他人に投げ与える。どんどん彼は擦り減っていく。そんなふうに僕には見える。――もう、そんな彼を見ていたくない」
サウードは、口を噤んで深く息を吸いこんだ。そして、自身の感情とともに呑み下す。
「ヨシノは、なんて? きみが言えば、彼は、僕らのところへ戻ってくれるの?」
「彼を説得して欲しい」
だが、再びアレンに向けたサウードの瞳には、はっきりと眉間に皺をよせ、首を横に振る整った面が映っていた。
「彼が僕の頼みを聞いてくれるわけがない」
「きみの頼みならヨシノは耳を傾ける」
間髪入れず返ってきた言葉に、アレンは顔をしかめて目を瞑った。
「もう少し時間を――。きみの言うヨシノの現状が、僕には見えなさすぎる」
アレンは吐息とともにかろうじてそれだけを、喉の奥から絞りだした。
だが再会した吉野は目にみえて変わったと、アレンには思えてならなかった。クリスもフレデリックも、過酷な日々をすごしていたわりに元気そうだ、以前のままの変わらない吉野だと口々に喜んでいるというのに。
エリオットにいた頃と同じ、彼の突拍子もない冒険談に笑い興じて皆で騒いだ。サウードも、いつもの鷹揚な笑みを浮かべて自分たちをもてなしてくれている。
前回ここを訪れた時よりも、状況はよほど改善していることは、王宮に一歩足を踏み入れた時に判った。このわずかな期間に、前回感じたぴりぴりとした緊迫感も、重苦しい空気も、何もかもが払拭されていたのだから。
それなのに、アレンは釈然としないのだ。そう感じる理由も解らないまま、漠とした不安を打ち消すことができずにいる。
笑っている吉野はどこか虚ろで、映しだされている立体映像の方がよほど、現実にみえる。だがなぜそんなふうに感じるのか、アレンは自分でも解らなかった。
今まで、彼の、この笑顔を疑ったことなどなかったのに――。
そんな折、サウードにアレンだけがお茶に誘われた。その日は飛鳥の創った立体映像の効果を見せてもらう予定だった。アレンは、刑務所の独房内で余命をすごす過酷な囚人たちの姿を、吉野が、そしてサウードも、神経質で気の弱い自分には見せない方が良いと判断しての気遣いなのだ、と受けとった。
本当はアレンにしても、彼らがあの映像をどう受けとめてどんな反応を示すのか、自分の目で確かめて飛鳥に伝えたかった。だが同時に、吉野やサウードの殺害を謀った彼らを前にしたとき、自分がどんな想いを抱えるか知りたくない、恐れる自分を見たくない、そんな想いも確かにあったのだ。
金糸刺繍で飾られた深紅の低いソファーが三方の壁に沿ってぐるりと取り囲む客間に、サウードは一人くつろいでいて、アレンが来るのを待っていた。
サウード自ら注いでくれたお茶はアラブ式ではなく、英国式の薄い磁器のティーカップから香り高くたち昇るダージリンだ。それにビスケットや一口大のケーキなどを盛った菓子皿もある。アレンはお礼を言い、ティーカップを受けとった。
「真夏にこの国に来たのでは、つまらないだろう? 暑すぎて庭を散策することすらできない」
「こうして訪れるなら、きみたちの住む世界の一番厳しい時を見たい。その方がより深く理解できるような気がするもの」
熱いお茶がもう少し冷めるのを待ちながら、アレンは傍らに座るサウードに微笑みかけた。
「理解? いったい何を? 温暖な日本の気候で育ったヨシノが、この過酷な地でいつ根をあげるか知りたいの?」
良く知っている温和なサウードに似つかわしくない辛辣なもの言いに、アレンはそれと判らないほど眉根を寄せる。
「ヨシノは気候風土ごときで根をあげたりしない。そのくらい、きみの方が良く知っているじゃないか」
静かな声音で、だが負けじと言い返したアレンに、サウードはふっと浮かべた笑みで応じる。
「以前ヨシノが、きみは怒ると瞳の色が紫を帯びると言っていたことがある。本当だったんだね」
その言葉をアレンがどんな顔で受け止めたかを確かめることもせず、サウードは、目線を伏せてティーカップを口に運んだ。
「ヨシノを――、きみたちと一緒に英国に連れ帰ってほしい」
間を置いて、率直に向けられた視線に重ねられた意外な言葉に、アレンはぽかんと言葉を失い、感情の読めない深い漆黒の闇で自分を射すくめる彼の静かな面をまじまじと見つめ返した。
「ヨシノが、そう、望んでいるの?」
喉を潤したばかりなのに、カラカラに乾いた声が口内から漏れ落ちる。当然のようにサウードは首を横に振る。
「彼を見ていると、僕が辛いんだよ」
静かな瞳はアレンから外れて手許のティーカップに落とされた。けれどその言葉は、瞳と同様にアレンを縛り動揺の内に置き去りにしている。
「きみの言う意味が解らない」
「彼は、ヨシノは、誰にでも情をかける。相手が何者であろうと。僕にはそんな彼が理解できない。昔からそうだよ。エリオットの頃からずっと――」
今度はアレンも頷いた。吉野のそんな一面はよく知っている。彼は誰にでも優しく、誰をも拒まない。助けを求めれば応えてくれる。それが当たり前のように。知っていたからこそ甘えていたのだ。吉野は、彼は、必ず応えてくれる、と。
「彼は、自分自身を削りとって他人に投げ与える。どんどん彼は擦り減っていく。そんなふうに僕には見える。――もう、そんな彼を見ていたくない」
サウードは、口を噤んで深く息を吸いこんだ。そして、自身の感情とともに呑み下す。
「ヨシノは、なんて? きみが言えば、彼は、僕らのところへ戻ってくれるの?」
「彼を説得して欲しい」
だが、再びアレンに向けたサウードの瞳には、はっきりと眉間に皺をよせ、首を横に振る整った面が映っていた。
「彼が僕の頼みを聞いてくれるわけがない」
「きみの頼みならヨシノは耳を傾ける」
間髪入れず返ってきた言葉に、アレンは顔をしかめて目を瞑った。
「もう少し時間を――。きみの言うヨシノの現状が、僕には見えなさすぎる」
アレンは吐息とともにかろうじてそれだけを、喉の奥から絞りだした。
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