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八章
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カルダモンの香るアラビアコーヒーは、水面を揺らさぬようにゆっくりと上澄みを啜る。
「おかわりは?」
真鍮のポットを持ちあげるサウードに、吉野は首を横に振る。
白大理石に透かし彫りの入った飾り窓超しには、広々とした庭園と吹きあがる噴水がみえる。青を基調にしたモザイクタイルの水路に湛えられた透明の水面が光を跳ねている。だが、周囲に濃緑の樹々が植えられた中庭で羽を休めているのは、しずしずと気取った調子で歩く孔雀くらいか。
しばらくの間、何ということもなく二人を覆っていた沈黙を破ったのはサウードからだった。
「アレンはなんて?」
「うん、飛鳥がどうにかしてくれるって」
「どうにか――」
曖昧な吉野の返答に、サウードは訝しげに首を傾げる。
「症状が緩和できるかは判らないけど、心を穏やかにしてくれる映像を作ってくれているって、書いてあった」
サウードは、ベッドで半身を起こしてアレンからのメッセージを目を細めて嬉しそうに読んでいる吉野を、漆黒の瞳を曇らせて眺めつつ嘆息する。
「きみの原因不明の熱も、その映像で治るのかな?」
ぽつりと呟かれた独り言のような問いに、吉野は首をすくめて笑顔で応じる。
「こんなもの熱の内に入らないよ。少し疲れがでただけだ。それに、」
吉野は言葉を切ると、意地悪くにやりと頬を歪めた。
「俺が病気の方が、何かと都合がいい面もあるだろ?」
サウードは眉根を寄せ、どこか取り繕ったような笑みを浮かべて首を振る。
「万事順調だよ」
その口調は淡々としているが、とくに嬉しそうでもない。
アブドによって破壊された発電所、温室工場の再建が始まっている。撤退した外国企業に変わり、新しく参画したルベリーニからの人員も続々と到着している。
後ひと月もすれば、太陽光発電施設を運営する国営企業アッシャムスの正式な破綻が発表される。その後の道筋もすでに着けられている。米国企業が技術協力を担うという形で利益を吸いあげていた、温室、栽培工場の株式は、破格の安値でルベリーニが買いとる事になるだろう。彼らは膨大な損失を抱えたうえでの撤退を余儀なくされるのだ。
アブドが亡命した今、彼との癒着によって甘い汁を吸っていた参画企業に、それまで通りの都合の良い利益がもたらされることはないからだ。それに彼らにしてみれば、今は軍部によって抑えられているテロの脅威もある。すでにアブドの組織したテログループは解体され、所詮は金で雇われたにすぎない傭兵テロリストはいち早く国外逃亡していることなど、今となっては、彼らには知る由もないのだ。
たとえ誰にも会わずに自室に籠っていたところで、すべては目の前に横たわる吉野の手の内にある。
自分も、彼も、流れだした水流が怒涛となり、これまで築かれていた土台を崩し、決壊させ、押し流していく様を、高台から見届けるだけだ。
すべては予定調和の内のこと。吉野とともにいる間に、サウードもまた、流れの行き着く先を見据え見守る視界を身につけていた。
「お前たちは、気が長いな」
ふっと自分に向けられた柔らかな視線に、サウードは鷹揚な笑みで以って応えた。
「それだけの歴史を生きているからね」
「だから俺はお前を信じられるんだ。お前たちは時の長さを知っている」
ベッドヘッドにもたれていた半身をシーツの中に戻し、枕に頭を沈めながら吉野は脱力しきった様子で窓の外に戻した。
「生きている間に叶わなくても、何世代かかろうとも、この緑を必ず国中に広げてやる。だから、」
「分かっているよ、ヨシノ。今の僕たちでは、一国を統治できるほどに成熟していないことも。それを試みることさえ許されないだろうってことも。きみの言う意味を僕はちゃんと理解している」
「耐えることに慣れたか、サウード?」
ゆっくりと持ちあげられた彼のカーブを描く口許に、吉野もまた笑みを返した。
「俺、どこまでできるかな?」
「きみの意志はどこまでも受け継いでいく。きみがこの国を去った後でも――。そのための仮病でもあるんだろう?」
熱を測るように額にのせられた掌を、吉野は肩を震わせて笑いながら首を振って払った。
「いくら俺でもさ、仮病で熱はあがらないぞ」
「きみにできないことはないよ、砂漠のイブリース」
揶揄うように黒曜石の瞳が笑う。
吉野は軽く舌打ちして、にやりと笑い目を瞑った。
『砂漠のイブリース』、吉野がこの国を訪れた日から彼にはそんなあだ名で呼ばれている。
彼は、東洋人の姿に化けた魔人ジンの化身である、と。それも格下のジンではない。魔人の王イブリースに違いない、と。
彼はまるで魔法のように、短期間で悪夢を希望に溢れる夢に変えてくれたのだ。
石油資源のみに頼る財政から、欧州銀行任せだった政府系ファンドの資産運用を自国のスーパーコンピューターのプログラムで直接運用できる様にした。それ以降の国庫の改善は計り知れない。
海岸沿いの太陽光発電施設、温室工場等の自国産業の創出による雇用増加。工業地帯の拡大を見据えた移民政策。一筋縄ではいかない宗派間の対立を乗り越えて、戦争やテロ被害から逃れてきた、近隣諸国からの戦争難民を受け入れる政策も進んでいる。
それはアブドが大臣職にある時、強行的に進めてきた政策でもある。
見据えていた未来は同じだったのだ。
ただ、彼は夢物語を信じきれなかっただけで。
だからこそ、生きつづけて欲しいとサウードは願ったのだ。もしも、自分の手がこの夢を掴みきれない時、その道を継いでくれるのは彼しかいないのだから、と――。
人々が住み、日々の糧を得て生活するこの都は、決して魔人が煙から捻りだして造った蜃気楼の都ではない。
夢が、夢でなくなる日を夢見て――。
腰掛ける椅子の座面に深くもたれて物思いに沈んでいたサウードは、いつの間にか眠りに落ちて静かな寝息をたてている吉野から視線を戸外に移し、その色濃く、けれど熱射に焼かれて褪せて乾いた緑に、淋しげな微笑を向けていた。
「おかわりは?」
真鍮のポットを持ちあげるサウードに、吉野は首を横に振る。
白大理石に透かし彫りの入った飾り窓超しには、広々とした庭園と吹きあがる噴水がみえる。青を基調にしたモザイクタイルの水路に湛えられた透明の水面が光を跳ねている。だが、周囲に濃緑の樹々が植えられた中庭で羽を休めているのは、しずしずと気取った調子で歩く孔雀くらいか。
しばらくの間、何ということもなく二人を覆っていた沈黙を破ったのはサウードからだった。
「アレンはなんて?」
「うん、飛鳥がどうにかしてくれるって」
「どうにか――」
曖昧な吉野の返答に、サウードは訝しげに首を傾げる。
「症状が緩和できるかは判らないけど、心を穏やかにしてくれる映像を作ってくれているって、書いてあった」
サウードは、ベッドで半身を起こしてアレンからのメッセージを目を細めて嬉しそうに読んでいる吉野を、漆黒の瞳を曇らせて眺めつつ嘆息する。
「きみの原因不明の熱も、その映像で治るのかな?」
ぽつりと呟かれた独り言のような問いに、吉野は首をすくめて笑顔で応じる。
「こんなもの熱の内に入らないよ。少し疲れがでただけだ。それに、」
吉野は言葉を切ると、意地悪くにやりと頬を歪めた。
「俺が病気の方が、何かと都合がいい面もあるだろ?」
サウードは眉根を寄せ、どこか取り繕ったような笑みを浮かべて首を振る。
「万事順調だよ」
その口調は淡々としているが、とくに嬉しそうでもない。
アブドによって破壊された発電所、温室工場の再建が始まっている。撤退した外国企業に変わり、新しく参画したルベリーニからの人員も続々と到着している。
後ひと月もすれば、太陽光発電施設を運営する国営企業アッシャムスの正式な破綻が発表される。その後の道筋もすでに着けられている。米国企業が技術協力を担うという形で利益を吸いあげていた、温室、栽培工場の株式は、破格の安値でルベリーニが買いとる事になるだろう。彼らは膨大な損失を抱えたうえでの撤退を余儀なくされるのだ。
アブドが亡命した今、彼との癒着によって甘い汁を吸っていた参画企業に、それまで通りの都合の良い利益がもたらされることはないからだ。それに彼らにしてみれば、今は軍部によって抑えられているテロの脅威もある。すでにアブドの組織したテログループは解体され、所詮は金で雇われたにすぎない傭兵テロリストはいち早く国外逃亡していることなど、今となっては、彼らには知る由もないのだ。
たとえ誰にも会わずに自室に籠っていたところで、すべては目の前に横たわる吉野の手の内にある。
自分も、彼も、流れだした水流が怒涛となり、これまで築かれていた土台を崩し、決壊させ、押し流していく様を、高台から見届けるだけだ。
すべては予定調和の内のこと。吉野とともにいる間に、サウードもまた、流れの行き着く先を見据え見守る視界を身につけていた。
「お前たちは、気が長いな」
ふっと自分に向けられた柔らかな視線に、サウードは鷹揚な笑みで以って応えた。
「それだけの歴史を生きているからね」
「だから俺はお前を信じられるんだ。お前たちは時の長さを知っている」
ベッドヘッドにもたれていた半身をシーツの中に戻し、枕に頭を沈めながら吉野は脱力しきった様子で窓の外に戻した。
「生きている間に叶わなくても、何世代かかろうとも、この緑を必ず国中に広げてやる。だから、」
「分かっているよ、ヨシノ。今の僕たちでは、一国を統治できるほどに成熟していないことも。それを試みることさえ許されないだろうってことも。きみの言う意味を僕はちゃんと理解している」
「耐えることに慣れたか、サウード?」
ゆっくりと持ちあげられた彼のカーブを描く口許に、吉野もまた笑みを返した。
「俺、どこまでできるかな?」
「きみの意志はどこまでも受け継いでいく。きみがこの国を去った後でも――。そのための仮病でもあるんだろう?」
熱を測るように額にのせられた掌を、吉野は肩を震わせて笑いながら首を振って払った。
「いくら俺でもさ、仮病で熱はあがらないぞ」
「きみにできないことはないよ、砂漠のイブリース」
揶揄うように黒曜石の瞳が笑う。
吉野は軽く舌打ちして、にやりと笑い目を瞑った。
『砂漠のイブリース』、吉野がこの国を訪れた日から彼にはそんなあだ名で呼ばれている。
彼は、東洋人の姿に化けた魔人ジンの化身である、と。それも格下のジンではない。魔人の王イブリースに違いない、と。
彼はまるで魔法のように、短期間で悪夢を希望に溢れる夢に変えてくれたのだ。
石油資源のみに頼る財政から、欧州銀行任せだった政府系ファンドの資産運用を自国のスーパーコンピューターのプログラムで直接運用できる様にした。それ以降の国庫の改善は計り知れない。
海岸沿いの太陽光発電施設、温室工場等の自国産業の創出による雇用増加。工業地帯の拡大を見据えた移民政策。一筋縄ではいかない宗派間の対立を乗り越えて、戦争やテロ被害から逃れてきた、近隣諸国からの戦争難民を受け入れる政策も進んでいる。
それはアブドが大臣職にある時、強行的に進めてきた政策でもある。
見据えていた未来は同じだったのだ。
ただ、彼は夢物語を信じきれなかっただけで。
だからこそ、生きつづけて欲しいとサウードは願ったのだ。もしも、自分の手がこの夢を掴みきれない時、その道を継いでくれるのは彼しかいないのだから、と――。
人々が住み、日々の糧を得て生活するこの都は、決して魔人が煙から捻りだして造った蜃気楼の都ではない。
夢が、夢でなくなる日を夢見て――。
腰掛ける椅子の座面に深くもたれて物思いに沈んでいたサウードは、いつの間にか眠りに落ちて静かな寝息をたてている吉野から視線を戸外に移し、その色濃く、けれど熱射に焼かれて褪せて乾いた緑に、淋しげな微笑を向けていた。
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