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八章
故郷1
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「ヘンリー、大丈夫なの?」
車の到着をじっと車寄せに佇んで待っていたサラは、ようやく待ち人の姿を眼にして、今にも泣きだしそうに瞳を潤ませている。
「心配掛けてしまった? ごめんよ」
いつもと変わらぬ穏やかな瞳でヘンリーは微笑んでいる。サラの頬にただいまのキスをする。
「映像酔いなのでしょう? どの場面が悪かったの?」
緊張したサラの表情が解れないのは、ヘンリーの体調不良は自分のせいだと思っているのだ、と瞬時に察して彼は首を横に振った。
「ああ、違うんだ。ただの過労だった。たんなる睡眠不足だよ。映像に問題はなかったよ。この子も平気だったしね」
兄の後ろに控えめに佇んでいたアレンは、振り返ったヘンリーに軽く頷き返し、サラに向かって、とって付けたような笑みを浮かべてみせ、「僕は平気でしたし、兄も休息を取ってから回った分は問題なかったようです」と抑揚のない声で告げる。だが、サラはまだまだ不安そうにヘンリーを見上げている。
「そんなに心配してくれるなら、お茶につきあってくれる? お腹がペコペコなんだ。今日の報告もしたいしね」
ヘンリーに優しく髪を撫でられて、その手の温もりに緊張が溶かされたかのように、サラもようやく表情を和らげている。
「あの、アスカさんは?」
アレンは、そんな二人に躊躇いがちに声をかけた。
「自室にいる。ずっと籠ってる」
サラはちょっと膨れっ面をする。
「まだご機嫌斜めなの?」
かすかに表情を曇らせたヘンリーに、サラは首を振った。
「いいアイデアが浮かんだから、ダレないうちに仕上げるって」
「アイデアって、また手を入れるの! 今観てきたばかりなのに!」
「そうじゃなくて。ヨシノの注文の方。希望に応えられそうだって」
呆れたように吐息をついたヘンリーの前で手を振りながら、サラは弾けたように声をたてて笑った。だがその名前に、アレンは一瞬身をすくませて兄の顔を見つめていた。どうすればいいのか、と縋りつくような瞳だった。ヘンリーは苦笑を浮かべながらも、その真摯な瞳に応えてやる。
「きみ、アスカにお茶にくるか訊ねてきてくれる? そうだな、テラスにいるから。紫陽花の前の」
「はい」と素直に答えてアレンは足早に玄関をくぐる。その後にゆっくりと続きながら、ヘンリーは傍らに控えていたマーカスに、「皆の分、用意を頼めるかな? どうせアスカもろくに食べていないのだろ?」と訊ねる。そして「もし下りてこないようなら、部屋に届けてやって」と、言い添えることも忘れなかった。
「アスカさん?」
何度ノックしても返事がないのだ。アレンは、また以前のようになかで倒れているのではないかと不安になって、そっと飛鳥の部屋のドアを開ける。
天蓋付きのベッドにもたれて床の上に胡坐をかいている飛鳥は、じっと中空を睨みつけていた。だがその緊迫した雰囲気に、アレンは声をかけるのをためらってその場に立ち尽くしてしまった。
「風――」
と唐突に、飛鳥の視線が戸口にいるアレンに向けられる。びくりと身をすくませた彼に、飛鳥は逆に驚いた様子で相好を崩す。
「おかえり! ヘンリーも一緒? 彼、具合はどうなの? 映像酔い酷いのかな?」
上半身を屈めて、床に置かれたノートパソコンを叩きながら矢継ぎばやにまくしたてながら、飛鳥の視線はすでに元の中空に戻っている。
「あの――」
「何? よく聞こえない。こっちにおいでよ」
明るい声音で返しながら、飛鳥の視線はパソコンとその上方の空中を睨んだままだ。
「あの、お仕事のお邪魔ではないですか?」
「ちょうどさ、きみが帰るのを待ってたんだ」
入り口で普段以上にもじもじと躊躇しているアレンに、飛鳥はやっと面を向けて言った。
「来て。これを見てほしいんだ」
アレンは不安そうに瞳を揺らしたまま、恐る恐る部屋に足を踏みいれた。初めて入るというわけではないのに、なぜか今日に限って、ここにこうして入ることが躊躇われるのだ。なぜだか、漠然とした恐怖すら感じていた。
いまだイベント映像の残滓が頭に残っているのだろうか? 映像がちらつくわけではないのだが、アレンは、地面が揺れているように感じるのだ。眩暈とは違う、波や、風や、水流の揺れを身体が覚えていて、今になって再現しているみたいに。
つい今しがたまで、何ともなかったのに!
この人の顔を見たからだ、と、ふと意識が見慣れた飛鳥の横顔に向き、アレンは彼を凝視して立ち止まる。会場で彼を取り囲んでいた幻想空間が、目の前の飛鳥の上に凝縮されているように思えたのだ。彼の中の不可思議さが、アレンに内側から揺さぶりをかけているのだ、と、そんな理不尽な想いに駆られていた。
「アレン、ここの色がさ、気に入らないんだ。この色、なんとかならないかな?」
アレンの戸惑いには一向に気がつかない様子で飛鳥はパソコンを触っている。アレンはきゅっと口許を引き締め、覚悟を決めて飛鳥の横に腰をおろす。
ああ、やっぱり……。
飛鳥と視点を揃えたアレンは、眼前に広がる予想通りの世界に、泣きだしてしまわないように目をぎゅっと瞑り、奥歯をさらに噛み締める。
呼吸を落ちつけてから、「時間帯で様々に色彩が変化するんです。もっと具体的なイメージを教えて下さい」と声を絞りだし、無理やりに笑みを作る。
この人には、どうやったって叶わないのだ――。
「そうか、そうだよね。日の出から日没まで、それに月夜、星空。いろんな表情があって当然だよね――。それに、」
「風。風で地形が変わります」
アレンはすっと、しなやかな指を伸ばしてキーボードに指を置く。
「太陽の角度で影のでき方も――」
――誰の夢?
初めから、知っていたような気がする。
これは、僕たちの夢じゃない。
これは、アスカさんとヨシノの夢。
彼らだけの蜃気楼――。
この蜃気楼にたどり着けるのは彼らだけ。
これを作りだすことのできる、彼らだけだ。
僕は、ただ、探し、追い求めるだけなのだ。
この目前に広がる広大な砂漠の、どこかにいるはずのきみの姿を……。
「ああ! がぜん良くなった! やぱり、きみは本物を見てきたんだもんねぇ!」
兄のことも、イベント会場のことも、さっぱり忘れてしまったかのようにこの砂漠の中に居続ける飛鳥に対して、アレンはどうしようもない寂寞を感じていた。
それでも、このはてが吉野に続いているのなら――。
そんな想いが鎖となって、彼に兄からの伝言を忘れさせ、彼をこの場に縛りつけていた。
そしてただ、飛鳥の注文通りの映像イメージを見つけるためだけに、一心不乱に、砂漠というキャンバスにとりどりの色をのせることに、彼を没頭させるのだった。
車の到着をじっと車寄せに佇んで待っていたサラは、ようやく待ち人の姿を眼にして、今にも泣きだしそうに瞳を潤ませている。
「心配掛けてしまった? ごめんよ」
いつもと変わらぬ穏やかな瞳でヘンリーは微笑んでいる。サラの頬にただいまのキスをする。
「映像酔いなのでしょう? どの場面が悪かったの?」
緊張したサラの表情が解れないのは、ヘンリーの体調不良は自分のせいだと思っているのだ、と瞬時に察して彼は首を横に振った。
「ああ、違うんだ。ただの過労だった。たんなる睡眠不足だよ。映像に問題はなかったよ。この子も平気だったしね」
兄の後ろに控えめに佇んでいたアレンは、振り返ったヘンリーに軽く頷き返し、サラに向かって、とって付けたような笑みを浮かべてみせ、「僕は平気でしたし、兄も休息を取ってから回った分は問題なかったようです」と抑揚のない声で告げる。だが、サラはまだまだ不安そうにヘンリーを見上げている。
「そんなに心配してくれるなら、お茶につきあってくれる? お腹がペコペコなんだ。今日の報告もしたいしね」
ヘンリーに優しく髪を撫でられて、その手の温もりに緊張が溶かされたかのように、サラもようやく表情を和らげている。
「あの、アスカさんは?」
アレンは、そんな二人に躊躇いがちに声をかけた。
「自室にいる。ずっと籠ってる」
サラはちょっと膨れっ面をする。
「まだご機嫌斜めなの?」
かすかに表情を曇らせたヘンリーに、サラは首を振った。
「いいアイデアが浮かんだから、ダレないうちに仕上げるって」
「アイデアって、また手を入れるの! 今観てきたばかりなのに!」
「そうじゃなくて。ヨシノの注文の方。希望に応えられそうだって」
呆れたように吐息をついたヘンリーの前で手を振りながら、サラは弾けたように声をたてて笑った。だがその名前に、アレンは一瞬身をすくませて兄の顔を見つめていた。どうすればいいのか、と縋りつくような瞳だった。ヘンリーは苦笑を浮かべながらも、その真摯な瞳に応えてやる。
「きみ、アスカにお茶にくるか訊ねてきてくれる? そうだな、テラスにいるから。紫陽花の前の」
「はい」と素直に答えてアレンは足早に玄関をくぐる。その後にゆっくりと続きながら、ヘンリーは傍らに控えていたマーカスに、「皆の分、用意を頼めるかな? どうせアスカもろくに食べていないのだろ?」と訊ねる。そして「もし下りてこないようなら、部屋に届けてやって」と、言い添えることも忘れなかった。
「アスカさん?」
何度ノックしても返事がないのだ。アレンは、また以前のようになかで倒れているのではないかと不安になって、そっと飛鳥の部屋のドアを開ける。
天蓋付きのベッドにもたれて床の上に胡坐をかいている飛鳥は、じっと中空を睨みつけていた。だがその緊迫した雰囲気に、アレンは声をかけるのをためらってその場に立ち尽くしてしまった。
「風――」
と唐突に、飛鳥の視線が戸口にいるアレンに向けられる。びくりと身をすくませた彼に、飛鳥は逆に驚いた様子で相好を崩す。
「おかえり! ヘンリーも一緒? 彼、具合はどうなの? 映像酔い酷いのかな?」
上半身を屈めて、床に置かれたノートパソコンを叩きながら矢継ぎばやにまくしたてながら、飛鳥の視線はすでに元の中空に戻っている。
「あの――」
「何? よく聞こえない。こっちにおいでよ」
明るい声音で返しながら、飛鳥の視線はパソコンとその上方の空中を睨んだままだ。
「あの、お仕事のお邪魔ではないですか?」
「ちょうどさ、きみが帰るのを待ってたんだ」
入り口で普段以上にもじもじと躊躇しているアレンに、飛鳥はやっと面を向けて言った。
「来て。これを見てほしいんだ」
アレンは不安そうに瞳を揺らしたまま、恐る恐る部屋に足を踏みいれた。初めて入るというわけではないのに、なぜか今日に限って、ここにこうして入ることが躊躇われるのだ。なぜだか、漠然とした恐怖すら感じていた。
いまだイベント映像の残滓が頭に残っているのだろうか? 映像がちらつくわけではないのだが、アレンは、地面が揺れているように感じるのだ。眩暈とは違う、波や、風や、水流の揺れを身体が覚えていて、今になって再現しているみたいに。
つい今しがたまで、何ともなかったのに!
この人の顔を見たからだ、と、ふと意識が見慣れた飛鳥の横顔に向き、アレンは彼を凝視して立ち止まる。会場で彼を取り囲んでいた幻想空間が、目の前の飛鳥の上に凝縮されているように思えたのだ。彼の中の不可思議さが、アレンに内側から揺さぶりをかけているのだ、と、そんな理不尽な想いに駆られていた。
「アレン、ここの色がさ、気に入らないんだ。この色、なんとかならないかな?」
アレンの戸惑いには一向に気がつかない様子で飛鳥はパソコンを触っている。アレンはきゅっと口許を引き締め、覚悟を決めて飛鳥の横に腰をおろす。
ああ、やっぱり……。
飛鳥と視点を揃えたアレンは、眼前に広がる予想通りの世界に、泣きだしてしまわないように目をぎゅっと瞑り、奥歯をさらに噛み締める。
呼吸を落ちつけてから、「時間帯で様々に色彩が変化するんです。もっと具体的なイメージを教えて下さい」と声を絞りだし、無理やりに笑みを作る。
この人には、どうやったって叶わないのだ――。
「そうか、そうだよね。日の出から日没まで、それに月夜、星空。いろんな表情があって当然だよね――。それに、」
「風。風で地形が変わります」
アレンはすっと、しなやかな指を伸ばしてキーボードに指を置く。
「太陽の角度で影のでき方も――」
――誰の夢?
初めから、知っていたような気がする。
これは、僕たちの夢じゃない。
これは、アスカさんとヨシノの夢。
彼らだけの蜃気楼――。
この蜃気楼にたどり着けるのは彼らだけ。
これを作りだすことのできる、彼らだけだ。
僕は、ただ、探し、追い求めるだけなのだ。
この目前に広がる広大な砂漠の、どこかにいるはずのきみの姿を……。
「ああ! がぜん良くなった! やぱり、きみは本物を見てきたんだもんねぇ!」
兄のことも、イベント会場のことも、さっぱり忘れてしまったかのようにこの砂漠の中に居続ける飛鳥に対して、アレンはどうしようもない寂寞を感じていた。
それでも、このはてが吉野に続いているのなら――。
そんな想いが鎖となって、彼に兄からの伝言を忘れさせ、彼をこの場に縛りつけていた。
そしてただ、飛鳥の注文通りの映像イメージを見つけるためだけに、一心不乱に、砂漠というキャンバスにとりどりの色をのせることに、彼を没頭させるのだった。
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