550 / 739
八章
4
しおりを挟む
「僕が何者かという問いにはまだ答えられないけれど、アスカが何者かは、一言で言えるよ」
ヘンリーは寂しげな笑みを浮かべて、遥か彼方にいるように感じられる朧なデヴィッドの姿に言葉を投げかけた。
「彼は何者?」
「混沌」
足元から巻きあがる渦潮の中央に立つ彼は、頭上から降りおちてくる白い飛沫に顔をしかめながら、潮騒に負けじと大声で答えた。
「人魚姫の海が、どうしてこんな真っ黒な荒れた海なんだい? アスカは僕がここにいるのを知っていて、意地悪をしているんじゃないのかい?」
映像とはいえ、先ほどから何度も荒れ狂う大波を叩きつけられているのだ。逆巻く渦に囲まれた彼の気分はもう、嵐に巻きこまれ、大海に放りだされて溺れた王子さながらだ。
「童話の筋立て通りに場面が動いているだけだよ。何、悲観的になってるんだよ、ヘンリー!」
デヴィッドは、波に揉まれながらケラケラと声をたてて笑っている。
「ほら、夜明けだよ!」
水平線のはてから、金の光が荒れ狂う海を平定していた。
緩やかな波間に光が揺蕩っている。いつしか二人は浜辺に立ち、朝焼けの赤金色に染まりながら打ち寄せては引いていく波を眺めている。
と、安堵したのもつかの間、次に激しく立ちあがった波が、ザブリと覆い被さったかと思うと、今度は澄んだ青に染まる海の中に佇んでいた。
群なす極彩色の魚たちが視界を横ぎっていく。足を進めると絡みあう腕を伸ばしている紅い珊瑚たちが身を捩って道を開けてくれる。ゆらゆらと輝く光の織りなす揺らぎの中を、気泡が煌めく七色の宝石となって天を目指す。
「きみと違ってね、僕にとってのアスカちゃんはねぇ、宝石箱だよ!」
水面から差しこんで水に溶けていく光を目を細めて眺めていたデヴィッドが、いきなりくるりとヘンリーを振り返ると弾むような声音で告げていた。
「こんな綺麗な情景が、彼の中にはいっぱい詰まってるんだ。彼の描く絵はアレなのにさぁ!」
くすくす笑いながら、デヴィッドは足元の黒いトゲトゲを拾いあげる。それを、ぽーんとヘンリーに放ってよこした。
「これは何? トロール?」
「ははは! さすがヘンリー、きみにはウニに見えないんだ! 当たりだよ、アスカ画伯の代表作だ!」
ヘンリーは映像のトゲトゲを両手でふわりと受け止め、思わず笑みを零していた。
ウイスタンでの、飛鳥との初めての共同作品である黒兎。彼の描いたそれはとても兎には見えなくて、ヘンリーは大真面目に、トロールだね、と言ってしまったのだ。
「ラッキーだね、ヘンリー。この子には滅多に会えないんだよ!」
飛鳥の作る映像には、どこかに必ず、このトロールが潜んでいるのだそうだ。それは毎回その場にある何かに擬態していて、見つけるのは難しい。だから、それに出会えたらラッキー。そんな迷信まで生まれている。
「僕は誰?」
ヘンリーは悩ましげな微笑を湛えて、手の上のその黒いもやもやに問いかけてみた。とたんにそれは数多の泡になり消えてしまった。
「残念! 問いではなく答えを言わなきゃね!」
うねる視界にまといつく気泡――。ヘンリーの脳を支配する揺らぎに、デヴィッドまでが歪んで見える。
揺らめく空間に弾ける炭酸のような気泡は、収縮と拡大を繰り返す透明な海月の群れとなって、昏い水底から日のさす彼方へと泳ぎだしている。
「さぁ、次の部屋へ」
「ちょっと待ってくれるかい、デイヴ。おそらく――、映像酔いだ」
海月の消えたあとの海底に、ヘンリーは片手を口許に当てうずくまっていたのだ。デヴィッドは目を瞠って駆けよった。慌てて支えた彼の肩は、息が乱れているのか激しく上下している。
「いったん出よう。僕に掴まって」
差しだされた腕を掴み、ヘンリーは深く息をついた。
「あの子、何て言っていたかな、こんな時は――」
「ゆっくり呼吸しろ、って。視界が揺れるようなら目を瞑って。僕が誘導するから」
「いや、大丈夫だ。収まってきた」
はてのない水底の彼方には、オーロラのように揺らめく輝きを放つ透明な宮殿が幻想的にそびえている。七色の煌めく鱗屋根を囲むいくつもの尖塔が細かく光を反射している。
「城に招待してもらいそこねたな。人魚のティータイムに行きたかったのに――」
蒼白な面で笑うヘンリーの肩を支えていたデヴィッドは、その肩をパンッと叩いた。
「さすが、CEO! いいね、海底でのティーパーティー。それ、次回からオプションで入れようか?」
くしゃっと緊張していた表情を崩して悪戯っ子のように笑うと、デヴィッドは眼前の岩場に生える深紅のイソギンチャクを握ってくるりと捻り、外界へ続く非常ドアを開けた。
ヘンリーは寂しげな笑みを浮かべて、遥か彼方にいるように感じられる朧なデヴィッドの姿に言葉を投げかけた。
「彼は何者?」
「混沌」
足元から巻きあがる渦潮の中央に立つ彼は、頭上から降りおちてくる白い飛沫に顔をしかめながら、潮騒に負けじと大声で答えた。
「人魚姫の海が、どうしてこんな真っ黒な荒れた海なんだい? アスカは僕がここにいるのを知っていて、意地悪をしているんじゃないのかい?」
映像とはいえ、先ほどから何度も荒れ狂う大波を叩きつけられているのだ。逆巻く渦に囲まれた彼の気分はもう、嵐に巻きこまれ、大海に放りだされて溺れた王子さながらだ。
「童話の筋立て通りに場面が動いているだけだよ。何、悲観的になってるんだよ、ヘンリー!」
デヴィッドは、波に揉まれながらケラケラと声をたてて笑っている。
「ほら、夜明けだよ!」
水平線のはてから、金の光が荒れ狂う海を平定していた。
緩やかな波間に光が揺蕩っている。いつしか二人は浜辺に立ち、朝焼けの赤金色に染まりながら打ち寄せては引いていく波を眺めている。
と、安堵したのもつかの間、次に激しく立ちあがった波が、ザブリと覆い被さったかと思うと、今度は澄んだ青に染まる海の中に佇んでいた。
群なす極彩色の魚たちが視界を横ぎっていく。足を進めると絡みあう腕を伸ばしている紅い珊瑚たちが身を捩って道を開けてくれる。ゆらゆらと輝く光の織りなす揺らぎの中を、気泡が煌めく七色の宝石となって天を目指す。
「きみと違ってね、僕にとってのアスカちゃんはねぇ、宝石箱だよ!」
水面から差しこんで水に溶けていく光を目を細めて眺めていたデヴィッドが、いきなりくるりとヘンリーを振り返ると弾むような声音で告げていた。
「こんな綺麗な情景が、彼の中にはいっぱい詰まってるんだ。彼の描く絵はアレなのにさぁ!」
くすくす笑いながら、デヴィッドは足元の黒いトゲトゲを拾いあげる。それを、ぽーんとヘンリーに放ってよこした。
「これは何? トロール?」
「ははは! さすがヘンリー、きみにはウニに見えないんだ! 当たりだよ、アスカ画伯の代表作だ!」
ヘンリーは映像のトゲトゲを両手でふわりと受け止め、思わず笑みを零していた。
ウイスタンでの、飛鳥との初めての共同作品である黒兎。彼の描いたそれはとても兎には見えなくて、ヘンリーは大真面目に、トロールだね、と言ってしまったのだ。
「ラッキーだね、ヘンリー。この子には滅多に会えないんだよ!」
飛鳥の作る映像には、どこかに必ず、このトロールが潜んでいるのだそうだ。それは毎回その場にある何かに擬態していて、見つけるのは難しい。だから、それに出会えたらラッキー。そんな迷信まで生まれている。
「僕は誰?」
ヘンリーは悩ましげな微笑を湛えて、手の上のその黒いもやもやに問いかけてみた。とたんにそれは数多の泡になり消えてしまった。
「残念! 問いではなく答えを言わなきゃね!」
うねる視界にまといつく気泡――。ヘンリーの脳を支配する揺らぎに、デヴィッドまでが歪んで見える。
揺らめく空間に弾ける炭酸のような気泡は、収縮と拡大を繰り返す透明な海月の群れとなって、昏い水底から日のさす彼方へと泳ぎだしている。
「さぁ、次の部屋へ」
「ちょっと待ってくれるかい、デイヴ。おそらく――、映像酔いだ」
海月の消えたあとの海底に、ヘンリーは片手を口許に当てうずくまっていたのだ。デヴィッドは目を瞠って駆けよった。慌てて支えた彼の肩は、息が乱れているのか激しく上下している。
「いったん出よう。僕に掴まって」
差しだされた腕を掴み、ヘンリーは深く息をついた。
「あの子、何て言っていたかな、こんな時は――」
「ゆっくり呼吸しろ、って。視界が揺れるようなら目を瞑って。僕が誘導するから」
「いや、大丈夫だ。収まってきた」
はてのない水底の彼方には、オーロラのように揺らめく輝きを放つ透明な宮殿が幻想的にそびえている。七色の煌めく鱗屋根を囲むいくつもの尖塔が細かく光を反射している。
「城に招待してもらいそこねたな。人魚のティータイムに行きたかったのに――」
蒼白な面で笑うヘンリーの肩を支えていたデヴィッドは、その肩をパンッと叩いた。
「さすが、CEO! いいね、海底でのティーパーティー。それ、次回からオプションで入れようか?」
くしゃっと緊張していた表情を崩して悪戯っ子のように笑うと、デヴィッドは眼前の岩場に生える深紅のイソギンチャクを握ってくるりと捻り、外界へ続く非常ドアを開けた。
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説
ポンコツ女子は異世界で甘やかされる(R18ルート)
三ツ矢美咲
ファンタジー
投稿済み同タイトル小説の、ifルート・アナザーエンド・R18エピソード集。
各話タイトルの章を本編で読むと、より楽しめるかも。
第?章は前知識不要。
基本的にエロエロ。
本編がちょいちょい小難しい分、こっちはアホな話も書く予定。
一旦中断!詳細は近況を!
(完結)元お義姉様に麗しの王太子殿下を取られたけれど・・・・・・エメリーン編
青空一夏
恋愛
「元お義姉様に麗しの王太子殿下を取られたけれど・・・・・・」の続編。エメリーンの物語です。
以前の☆小説で活躍したガマちゃんズ(☆「お姉様を選んだ婚約者に乾杯」に出演)が出てきます。おとぎ話風かもしれません。
※ガマちゃんズのご説明
ガマガエル王様は、その昔ロセ伯爵家当主から命を助けてもらったことがあります。それを大変感謝したガマガエル王様は、一族にロセ伯爵家を守ることを命じます。それ以来、ガマガエルは何代にもわたりロセ伯爵家を守ってきました。
このお話しの時点では、前の☆小説のヒロイン、アドリアーナの次男エアルヴァンがロセ伯爵になり、失恋による傷心を癒やす為に、バディド王国の別荘にやって来たという設定になります。長男クロディウスは母方のロセ侯爵を継ぎ、長女クラウディアはムーンフェア国の王太子妃になっていますが、この物語では出てきません(多分)
前の作品を知っていらっしゃる方は是非、読んでいない方もこの機会に是非、お読み頂けると嬉しいです。
国の名前は新たに設定し直します。ロセ伯爵家の国をムーンフェア王国。リトラー侯爵家の国をバディド王国とします。
ムーンフェア国のエアルヴァン・ロセ伯爵がエメリーンの恋のお相手になります。
※現代的言葉遣いです。時代考証ありません。異世界ヨーロッパ風です。
あなたに愛や恋は求めません
灰銀猫
恋愛
婚約者と姉が自分に隠れて逢瀬を繰り返していると気付いたイルーゼ。
婚約者を諫めるも聞く耳を持たず、父に訴えても聞き流されるばかり。
このままでは不実な婚約者と結婚させられ、最悪姉に操を捧げると言い出しかねない。
婚約者を見限った彼女は、二人の逢瀬を両親に突きつける。
貴族なら愛や恋よりも義務を優先すべきと考える主人公が、自分の場所を求めて奮闘する話です。
R15は保険、タグは追加する可能性があります。
ふんわり設定のご都合主義の話なので、広いお心でお読みください。
24.3.1 女性向けHOTランキングで1位になりました。ありがとうございます。
【完結】「婚約破棄ですか? それなら昨日成立しましたよ、ご存知ありませんでしたか?」
まほりろ
恋愛
【完結】
「アリシア・フィルタ貴様との婚約を破棄する!」
イエーガー公爵家の令息レイモンド様が言い放った。レイモンド様の腕には男爵家の令嬢ミランダ様がいた。ミランダ様はピンクのふわふわした髪に赤い大きな瞳、小柄な体躯で庇護欲をそそる美少女。
対する私は銀色の髪に紫の瞳、表情が表に出にくく能面姫と呼ばれています。
レイモンド様がミランダ様に惹かれても仕方ありませんね……ですが。
「貴様は俺が心優しく美しいミランダに好意を抱いたことに嫉妬し、ミランダの教科書を破いたり、階段から突き落とすなどの狼藉を……」
「あの、ちょっとよろしいですか?」
「なんだ!」
レイモンド様が眉間にしわを寄せ私を睨む。
「婚約破棄ですか? 婚約破棄なら昨日成立しましたが、ご存知ありませんでしたか?」
私の言葉にレイモンド様とミランダ様は顔を見合わせ絶句した。
全31話、約43,000文字、完結済み。
他サイトにもアップしています。
小説家になろう、日間ランキング異世界恋愛2位!総合2位!
pixivウィークリーランキング2位に入った作品です。
アルファポリス、恋愛2位、総合2位、HOTランキング2位に入った作品です。
2021/10/23アルファポリス完結ランキング4位に入ってました。ありがとうございます。
「Copyright(C)2021-九十九沢まほろ」
第15回恋愛小説大賞にエントリーしてます。
壁の花令嬢の最高の結婚
晴 菜葉
恋愛
壁の花とは、舞踏会で誰にも声を掛けてもらえず壁に立っている適齢期の女性を示す。
社交デビューして五年、一向に声を掛けられないヴィンセント伯爵の実妹であるアメリアは、兄ハリー・レノワーズの悪友であるブランシェット子爵エデュアルト・パウエルの心ない言葉に傷ついていた。
ある日、アメリアに縁談話がくる。相手は三十歳上の財産家で、妻に暴力を働いてこれまでに三回離縁を繰り返していると噂の男だった。
アメリアは自棄になって家出を決行する。
行く当てもなく彷徨いていると、たまたま賭博場に行く途中のエデュアルトに出会した。
そんなとき、彼が暴漢に襲われてしまう。
助けたアメリアは、背中に消えない傷を負ってしまった。
乙女に一生の傷を背負わせてしまったエデュアルトは、心底反省しているようだ。
「俺が出来ることなら何だってする」
そこでアメリアは考える。
暴力を振るう亭主より、女にだらしない放蕩者の方がずっとマシ。
「では、私と契約結婚してください」
R18には※をしています。
【R18】清掃員加藤望、社長の弱みを握りに来ました!
Bu-cha
恋愛
ずっと好きだった初恋の相手、社長の弱みを握る為に頑張ります!!にゃんっ♥
財閥の分家の家に代々遣える“秘書”という立場の“家”に生まれた加藤望。
”秘書“としての適正がない”ダメ秘書“の望が12月25日の朝、愛している人から連れてこられた場所は初恋の男の人の家だった。
財閥の本家の長男からの指示、”星野青(じょう)の弱みを握ってくる“という仕事。
財閥が青さんの会社を吸収する為に私を任命した・・・!!
青さんの弱みを握る為、“ダメ秘書”は今日から頑張ります!!
関連物語
『お嬢様は“いけないコト”がしたい』
『“純”の純愛ではない“愛”の鍵』連載中
『雪の上に犬と猿。たまに男と女。』
エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高11位
『好き好き大好きの嘘』
エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高36位
『約束したでしょ?忘れちゃった?』
エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高30位
※表紙イラスト Bu-cha作
茶番には付き合っていられません
わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。
婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。
これではまるで私の方が邪魔者だ。
苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。
どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。
彼が何をしたいのかさっぱり分からない。
もうこんな茶番に付き合っていられない。
そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる