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八章
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「ごめんなさい」と、コンピュータールームに入ってくるなり謝罪の言葉を口にしたアレンを、飛鳥もサラもきょとんと不思議そうな顔をして見つめている。
「どうかしたの?」
戸口に立ちすくんだままのアレンに、飛鳥はにっこりと首を傾げてみせる。
そこにいるのは、動揺しているとか、取り乱していたとか、そんな様子は微塵もない優しい、いつも通りの彼だった。アレンは安堵し、そしてそれこそが自分に気を遣わせているとしか考えようのない証左なのだ、と自己嫌悪の息を漏らす。兄との会話をどの程度まで話していいものか、と悩み抜き、はたと勢いで謝ってはみたものの、その後の言葉は出てこないのだった。
「何かあった?」
ぼんやりと応えない彼を訝しく思ったのか、飛鳥はモニター前から立ちあがり、歩み寄ってアレンの腕をとった。
「あの――」と言い淀むアレンに、飛鳥はあくまでのんびりと優しい。
「ちょうど良かった。きみのアドバイスが欲しくてさ。ちょっと、いいかな。下でお茶でも、」
「駄目。変更箇所のバグが見つかるかもしれないでしょ!」
アレンはこくりと頷いたにも拘わらず、飛鳥の背後で、すかさずサラがふくれっ面をして、鋭い声をあげている。
「話ならここでして!」
窓辺のティーテーブルを指差され、飛鳥はひょいと首をすくめてアレンを見やる。きみはそれでもかまわない? と視線で問うている。
「あ、はい」アレンは神妙な面持ちで頷き返す。謝罪の理由はあとからでも話せばいい。それよりも、飛鳥に意見を求められているのだ。その方が優先事項に違いない、と。
「きみが話してくれた、吉野の注文のことなんだけどね」
鳶色の瞳をくるくると目まぐるしく動かしながら、飛鳥は時々目を眇めたり、遠くを眺めたり――、と、とりとめがない。
「前にも言った通り宗教は使えないし、使わない」
一瞬すっと飛鳥の面に留まった強固な意志を感じさせる色に、ふと吉野が重なる。
「それでね、もしきみがそんな立場になったと仮定したら、どんな物やどんなことで、癒しを得られると思うか教えてほしいんだ」
「僕、ですか……」
それきり黙りこくって、アレンは考えこんでしまった。飛鳥が百面相している彼を眺めている間に、マーカスがお茶を運んできてくれた。
「ひと雨きそうだね」
開け放っていた窓を順番に閉めていくマーカスに、飛鳥は残念そうな微笑を向ける。
「きつい降りになりそうです」
空を覆う灰色の雲は、いつの間にか重たげな黒雲に取って変わられている。
「吉野がエリオットにいた頃ね、よくきみの話をしてくれたんだ」
自然光を厚い雲に遮られ、どんよりと採光の落ちた濃緑の丘陵に面を向けたまま、懐かしそうに飛鳥は目を細めて言った。
「きみは、赤ん坊みたいに柔らかな感性と好奇心を持っているから、一緒にいて楽しいって」
予想外のことで驚いたのか、真顔で自分を凝視しているアレンに、飛鳥はにっこりと首を傾げてみせる。
「あいつが、誰かといることを楽しいって言うなんて、僕の方が驚いたよ。――どう、何か思いついたかな? 難しく考えなくていいんだよ」
湯気の立つティーカップを口に運びながら、飛鳥はやはり窓の外を気にしている。それとも、アレンと向き合っていることが彼のプレッシャーにならないようにと、配慮しているのだろうか。
アレンはどきどきと落ち着かない心臓を鎮めようと、まずはお茶を一口飲みくだした。
「――ごめんなさい、アスカさん。僕は錯乱するほど何かを恐れた記憶はないんです」
申し訳なさそうに、アレンは微笑んで言った。え? と怪訝そうに飛鳥は眉をひそめる。
「僕は初めから、すべてを諦めていましたから」
言葉から受け取る悲惨さとは裏腹に、アレンは穏やかな笑みを浮かべている。
「ヨシノが僕に、自分自身に誇りをもてる人間になれと、言ってくれたんです」
「頭を高くあげて?」
「はい」
「その言葉、僕が英国に来た初日に、ヘンリーに言われたんだよ」
ふわりと微笑んだ飛鳥に、アレンはほっとしたような笑みを返していた。朝方の兄の様子から、この二人は仲違いしているのではないかと懸念していたのだ。だが、それは杞憂だったようだ。
「誇り――。自尊心――。そうだね、揺らいでいるからこそ幻影を恐れる。彼らの恐怖は、きっと、どこかで受け入れてしまっているからだと思うんだ。神とか、精霊とか、亡霊なんかに罰せられる自分を――、さ」
辛そうにため息を漏らした飛鳥を、アレンは不思議そうに見つめた。これが吉野と飛鳥の一番の謎なのだ、と。口に出さないまでも、その真摯な瞳が問いかけている。
なぜ、敵に同情するのか――。
「不思議で堪らないって、顔してるね」
ふいに声をたてて笑われ、アレンはぱっと両手で頬を覆った。そんな彼を見て、飛鳥はますます可笑しそうに笑う。
「敵か、味方かなんて互いの立場にすぎないだろ? 僕も吉野も、味方だと思っていた人がいとも簡単に敵に変わるのも、反対に、敵だと認識していた相手がずっと僕たちを支えてくれていた味方だったなんてこと、たくさん経験してきたからかな」
飛鳥は懐かしむような遠い目をして、雨の降りだした空にゆるりと目をやり、一旦言葉を切った。
「だからね、敵であろうとなかろうと、人の、人間としての尊厳を踏みにじるような真似だけはしたくないんだよ。たとえそれが自分とは違う信念を持つ相手であっても、人としての誇りを持って生きた人間だってことに違いはないんだから」
解るかな? と、飛鳥は口角をあげたまま頭を傾ける。アレンは答えられないまま、飛鳥を凝視していた。
「僕も吉野も、これだけは譲れない、って線があるんだ」
パシッ、パシッ――。
叩きつけられた大粒の雫が窓を伝い始めた。瞬く間に泣き濡れていくガラス窓を、アレンもまた眺めていた。だがやがて、彼は飛鳥に、はにかんだ笑みを浮かべて向き直った。
「――あれから、たくさん気づいたんです。僕を支えてきてくれたもの。心を慰めてくれていたもの。本当にたくさん。その中に何か一つくらい、アスカさんの参考になるものがあるかもしれません」
「どうかしたの?」
戸口に立ちすくんだままのアレンに、飛鳥はにっこりと首を傾げてみせる。
そこにいるのは、動揺しているとか、取り乱していたとか、そんな様子は微塵もない優しい、いつも通りの彼だった。アレンは安堵し、そしてそれこそが自分に気を遣わせているとしか考えようのない証左なのだ、と自己嫌悪の息を漏らす。兄との会話をどの程度まで話していいものか、と悩み抜き、はたと勢いで謝ってはみたものの、その後の言葉は出てこないのだった。
「何かあった?」
ぼんやりと応えない彼を訝しく思ったのか、飛鳥はモニター前から立ちあがり、歩み寄ってアレンの腕をとった。
「あの――」と言い淀むアレンに、飛鳥はあくまでのんびりと優しい。
「ちょうど良かった。きみのアドバイスが欲しくてさ。ちょっと、いいかな。下でお茶でも、」
「駄目。変更箇所のバグが見つかるかもしれないでしょ!」
アレンはこくりと頷いたにも拘わらず、飛鳥の背後で、すかさずサラがふくれっ面をして、鋭い声をあげている。
「話ならここでして!」
窓辺のティーテーブルを指差され、飛鳥はひょいと首をすくめてアレンを見やる。きみはそれでもかまわない? と視線で問うている。
「あ、はい」アレンは神妙な面持ちで頷き返す。謝罪の理由はあとからでも話せばいい。それよりも、飛鳥に意見を求められているのだ。その方が優先事項に違いない、と。
「きみが話してくれた、吉野の注文のことなんだけどね」
鳶色の瞳をくるくると目まぐるしく動かしながら、飛鳥は時々目を眇めたり、遠くを眺めたり――、と、とりとめがない。
「前にも言った通り宗教は使えないし、使わない」
一瞬すっと飛鳥の面に留まった強固な意志を感じさせる色に、ふと吉野が重なる。
「それでね、もしきみがそんな立場になったと仮定したら、どんな物やどんなことで、癒しを得られると思うか教えてほしいんだ」
「僕、ですか……」
それきり黙りこくって、アレンは考えこんでしまった。飛鳥が百面相している彼を眺めている間に、マーカスがお茶を運んできてくれた。
「ひと雨きそうだね」
開け放っていた窓を順番に閉めていくマーカスに、飛鳥は残念そうな微笑を向ける。
「きつい降りになりそうです」
空を覆う灰色の雲は、いつの間にか重たげな黒雲に取って変わられている。
「吉野がエリオットにいた頃ね、よくきみの話をしてくれたんだ」
自然光を厚い雲に遮られ、どんよりと採光の落ちた濃緑の丘陵に面を向けたまま、懐かしそうに飛鳥は目を細めて言った。
「きみは、赤ん坊みたいに柔らかな感性と好奇心を持っているから、一緒にいて楽しいって」
予想外のことで驚いたのか、真顔で自分を凝視しているアレンに、飛鳥はにっこりと首を傾げてみせる。
「あいつが、誰かといることを楽しいって言うなんて、僕の方が驚いたよ。――どう、何か思いついたかな? 難しく考えなくていいんだよ」
湯気の立つティーカップを口に運びながら、飛鳥はやはり窓の外を気にしている。それとも、アレンと向き合っていることが彼のプレッシャーにならないようにと、配慮しているのだろうか。
アレンはどきどきと落ち着かない心臓を鎮めようと、まずはお茶を一口飲みくだした。
「――ごめんなさい、アスカさん。僕は錯乱するほど何かを恐れた記憶はないんです」
申し訳なさそうに、アレンは微笑んで言った。え? と怪訝そうに飛鳥は眉をひそめる。
「僕は初めから、すべてを諦めていましたから」
言葉から受け取る悲惨さとは裏腹に、アレンは穏やかな笑みを浮かべている。
「ヨシノが僕に、自分自身に誇りをもてる人間になれと、言ってくれたんです」
「頭を高くあげて?」
「はい」
「その言葉、僕が英国に来た初日に、ヘンリーに言われたんだよ」
ふわりと微笑んだ飛鳥に、アレンはほっとしたような笑みを返していた。朝方の兄の様子から、この二人は仲違いしているのではないかと懸念していたのだ。だが、それは杞憂だったようだ。
「誇り――。自尊心――。そうだね、揺らいでいるからこそ幻影を恐れる。彼らの恐怖は、きっと、どこかで受け入れてしまっているからだと思うんだ。神とか、精霊とか、亡霊なんかに罰せられる自分を――、さ」
辛そうにため息を漏らした飛鳥を、アレンは不思議そうに見つめた。これが吉野と飛鳥の一番の謎なのだ、と。口に出さないまでも、その真摯な瞳が問いかけている。
なぜ、敵に同情するのか――。
「不思議で堪らないって、顔してるね」
ふいに声をたてて笑われ、アレンはぱっと両手で頬を覆った。そんな彼を見て、飛鳥はますます可笑しそうに笑う。
「敵か、味方かなんて互いの立場にすぎないだろ? 僕も吉野も、味方だと思っていた人がいとも簡単に敵に変わるのも、反対に、敵だと認識していた相手がずっと僕たちを支えてくれていた味方だったなんてこと、たくさん経験してきたからかな」
飛鳥は懐かしむような遠い目をして、雨の降りだした空にゆるりと目をやり、一旦言葉を切った。
「だからね、敵であろうとなかろうと、人の、人間としての尊厳を踏みにじるような真似だけはしたくないんだよ。たとえそれが自分とは違う信念を持つ相手であっても、人としての誇りを持って生きた人間だってことに違いはないんだから」
解るかな? と、飛鳥は口角をあげたまま頭を傾ける。アレンは答えられないまま、飛鳥を凝視していた。
「僕も吉野も、これだけは譲れない、って線があるんだ」
パシッ、パシッ――。
叩きつけられた大粒の雫が窓を伝い始めた。瞬く間に泣き濡れていくガラス窓を、アレンもまた眺めていた。だがやがて、彼は飛鳥に、はにかんだ笑みを浮かべて向き直った。
「――あれから、たくさん気づいたんです。僕を支えてきてくれたもの。心を慰めてくれていたもの。本当にたくさん。その中に何か一つくらい、アスカさんの参考になるものがあるかもしれません」
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