胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

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 ――自分さえ良ければってよくいうけどさ。人間の脳はそんなに単純にできてはいないんだ。普通に育ってきた奴ならさ、道徳心もあれば、他人に共感する心もあるんだよ。俺とお前の境界線なんて、案外、曖昧なもんなんだよ。

「ヨシノは、そんなふうに言っていました」

 約束通り夕刻になると時間を作り、涼しい風のそよぐテラスでのお茶に誘ってくれた飛鳥に、アレンは約束していた話を切りだした。

「だから、あの映像を作ったひとがPTSⅮ発症リスクを抱えていないか心配だ、て」
「あいつは、サラだと思ってるんだろ?」
「はい」
「心配だって?」
「平気そうに見えていても、心に相当なダメージを受けているはずだから、気をつけろって」

 吉野だ――。

 どんなに遠く離れていても、いつも傍で見守ってくれている。繊細に心を汲み取って気にかけてくれる。誰にも言えない苦しみを敏感に感じ取る。だから、いつまでも頼ってしまう、言葉のいらない楽さ加減に甘えてしまうのだ。

 飛鳥は苦笑して、頷いていた。

「あいつがさっさと帰ってきてくれるなら、僕は大丈夫だ、って自分の口で言えるんだけどね」
「本当に大丈夫なのですか?」
「大丈夫だよ」

 アレンは視線を伏せたまま、膝の上で組まれた両手を何度も落ち着かない様子で組み替えていた。

「僕は辛いです」

 ゆっくりと持ちあがった蒼白な面で瞬く、澄んだ瞳が飛鳥を捉える。

「砂と岩ばかりの砂漠を延々と車で移動して、彼はこんなところにいるのだと知っただけでも辛かった。画面の中で、彼の住んでいる王宮が戦車に囲まれ、彼の乗るはずだった飛行機がぐしゃぐしゃに潰れて――」

 息を継ぐことも忘れたように、アレンはとめどなく心の内を捲したてていた。眉根を寄せ、苦しげに顔を歪めて。自分自身を内側から蝕み続ける、厄介で手に負えない不条理な苦い想いを。

「彼からの連絡を待っている間は、不安で押しつぶされそうでした。やっと逢えたと思ったら、彼はライフルを抱えた近衛兵に囲まれていて。ゆっくり二人で話もできなくて。部屋から部屋へ移動するだけでも、常に兵士がついてくる、そんな状態で、それが彼の生きる現実で――。それなのに僕は、今、こうして花を愛でながら、優雅に紅茶を飲んでいるんだ」


 薄っすらと涙を浮かべているアレンの横にガーデンチェアを寄せ、飛鳥は膝の上で固く握られている拳に、包みこむように己の手を重ねた。

「辛かったね」

 数回瞬きをして、飛鳥はまたすぐに頭を振って言い直した。

「辛いよね。現実って何だか、分からなくなるよね。――紅茶を。落ち着くから」

 手のつけられていないティーカップをソーサーごと持ち上げ、アレンの手に握らせる。微かに震えるその手を支えるように自分の手を添えて、飛鳥は優しく微笑んだ。

「正直に言うとね、僕は自分の今いる世界が、夢なのか、現実なのか判らない時があったよ。吉野が心配してくれるように、TS映像を作っている時もそうだね。そんな感覚があるよ。僕の動かしている兵士は映像でも、返ってくる銃弾は本物だ。壁を打ち砕き硝煙をあげる。画面のこちら側にいる僕は傷つくことはない。それでも怖いよ。あの銃口が吉野に向けられていると思うと、堪らなく怖いよ。でも――、」

 飛鳥はアレンから手を離し、隠すように口許を覆った。そして、すっと視線を逸らし、その手を拳に握るとアレンに真っ直ぐ視線を向けた。

「あいつが言っているのは、そういう意味ではないだろ?」
「――僕には、ヨシノの言う意味が解りませんでした」
「サラが作ったと思っている。そう言いながら、あいつは僕を気遣っているんだ」

 飛鳥の上に浮かんだ引きつった笑みを、アレンは訝しげに凝視する。

「PTSⅮを発症しているのは、僕の映像と対面したテロリストや反乱軍の兵士たちだね? 恐怖は伝播するんだ。僕やサラがその恐怖や狂気に感染してるんじゃないか――、て、あいつは心配してくれてるんだろ?」

 目を見開いて、アレンはこくりと頷いた。
 どうして分かったのだろう、と不思議に思いながら彼は飛鳥を見つめていた。この兄弟は、時々こんなふうに、アレンには絶対に立ち入れない絆を見せつけるのだ。自分や兄のやきもきとした気遣いも理解も軽々と超えて。自分たちとは別の次元、別の言語で話しているように、互いを瞬時に理解する。

 どれだけ羨んだところで、それはこの人だからこそ――。


「それで? あいつの依頼って? あいつはきみに何を託したの?」 
「彼らの、症状を緩和する映像を作って欲しいそうです」

 囁くような声音で告げられた弟の望みに、飛鳥はぎゅっと目を瞑る。そして肩を大きく上下させて、深く吐息をついた。


「アレン、駄目だ、できないよ。それは、洗脳だ――」

 苦しげに絞りだされた彼の返答に、アレンはまた、不思議そうに小首を傾げた。





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