胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

道程1

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 車の到着を知らせる砂利の音が聞こえると同時に、玄関のドアが勢いよく開く。
「お帰り、ヘンリー、アレン!」
 車から降りたつや否や、待ちかまえていた皆から労いの言葉が降りそそぐ。笑顔で返しながら、ヘンリーはまずサラにただいまのキスを落とし、次いで飛鳥の肩を抱いた。

「特に問題はなかった?」
「きみがいつまでも帰らないから、ひやひやしてたくらいだよ!」
 肩をすくめて唇を尖らせるデヴィッドに、ヘンリーは苦笑いする。
「駄々っ子を説得するのに時間がかかってね」
「ごめん」
 すかさず謝った飛鳥を見て、ヘンリーは眉根をあげてくすくすと笑い、
「きみの駄々っ子じゃない、僕の方のだよ」と、アレンの肩に手をのせる。
「すみません」
 小さな声で呟いたアレンは、なんとも情けなさそうに俯いている。
「どうしたの? 何かあったの?」
 フレデリックが心配そうに訊ねる横で、クリスが頓狂な声をあげて身をのりだした。
「そんなの、帰りたくない! て、ごねてたんだろ! きみって、変なところで頑固だもの!」
「ごめん」
 図星をさされたらしく、アレンはますます小さくなっている。

「こっちこそごめんよ。まったくあいつときたら、皆に心配かけてるっていうのに一言もなしで――」
「ヨシノは――、」

 腹立たしげに呟いた飛鳥にアレンは慌てて首を振り、助けを求めるように兄を見た。どこまで喋っていいものなのか、アレンには瞬時に判断する事ができなかったのだ。だがヘンリーは素知らぬ顔をしている。やがて間を置いてから、彼は声を高めてにこやかに告げた。

「取り敢えず、中に入って一服しようか。お土産もあるしね」



「おおっ!」

 皆が陣取るソファーに囲まれたローテーブルに視線が集中して、歓声があがる。

「ヨシノの葛餅だ!」

 置かれたプラスチックケースの中に、黒いこし餡の透けてみえるぷるぷるとした丸い透明の葛餅が、笹の葉に包まれ整然と並べられている。
 満面の笑みで一番に手を伸ばしたデヴィッドを、ヘンリーは呆れた顔で嗜めた。

「お茶がくるまで待てないのかい」
「これを前にして、おあずけなの? それ酷くない、ヘンリー?」

 目を剥いて抗議するデヴィッドに、そして、しかめ面のヘンリーに、皆の視線がそそがれている。

「――どうぞ」

 その圧力に屈したのか、彼はため息混じりに許可をだした。デヴィッドが嬉々として一つ目を食べ終わる頃に、マーカスがお茶を運んできた。

「それにしてもさ、あの子、こんなもの作っている暇があるんだ?」

 目先の欲望を満たして満足したのか、デヴィッドは優雅にティーカップのハンドルを摘まみ、紅茶を口に運んでいる。

「あいつにとって料理はストレス発散方法なんだよ」
 飛鳥が当然のように頷いている。
「忙しい時ほど何か作りたがるんだ。自分は食べないくせに、甘いものばかりさ」

 それはきみのためだろう……。

 暗黙の意見が目と目で交わされている周囲には気づきもせず、飛鳥は葛餅を切り分けている。

 しんと会話が途切れたことで、飛鳥は面をあげて訝しげに首を傾げる。


 その沈黙を破って、「でも、帰る前にこうしてきみの元気な顔を見られて良かったよ。ヨシノやサウードの無事も分かったしね」とフレデリックが、クリスと顔を見合わせて頷きあい、継いでアレンに向き直って微笑みかけた。

「帰るって?」

 寝耳に水の話に、アレンは唖然とフレデリックを凝視する。

「もう僕たちまで狙われるような危険な状態でもなくなったみたいだからね、僕たち、今日それぞれの家に帰ることにしているんだ」
「どうせなら、きみの顔を見てからと思ってさ、待っていたんだ」

 クリスも残念そうに肩をすくめて言葉を継いだ。

「もっと、ゆっくりしていけばいいのに……。ゆっくり、ヨシノやサウードの話をしたかったのに」

 みるみる花が萎んでいくように、肩を落とし淋しそうに瞳を曇らせたアレンに、二人はまた顔を見合わせ、「遊びにくるよ」「それにきみも、うちに来て」と口々に言い添える。


「でも、本当に危険はないのかな?」
「地域の警察には見回り強化は頼んであるし、まだしばらくはボディーガードをつけさせてもらうよ。日常生活に差し障りがない程度にねぇ」

 飛鳥の問いに、デヴィッドは、もういくつめだか判らない葛餅にまたフォークを入れながら答えた。

「それで、アブド大臣は、結局――」
 姿勢を正して緊張を含んだ低い声で訊ねたフレデリックに、呑気な声音が返ってくる。

「米国に亡命。オフレコだけどねぇ。だからだよねぇ、ヨシノが帰る暇がないほど忙しいの」
「そういうことだよ」

 ヘンリーは憂いを含んだ笑みを湛えて頷いた。

「闘いは、まだ、継続中……」

 口の中で含むように呟いたフレデリックは、ぎゅっと唇を引き締めた。だがすぐに、あっ、と思いだした様子でアレンを振り返った。

「大学に通うのにね、アーネスト卿のご厚意で、カレッジに近いフラットを貸していただくことになったよ。僕と、クリスにさ」
「だから僕たち、またすぐに戻ってくるよ!」

 え――、と驚いているアレンに、ヘンリーは澄ました顔で訊ねた。

「きみはどうするの? ここから通うのは少し不便だろ?」
「僕も、もちろん僕も一緒に!」
「夏の間に荷物を片づけておくからねぇ」

 葛餅を頬張りながら、にっと笑ってデヴィッドは飛鳥に目配せする。放ったままになっている自分の部屋、吉野の部屋――、思い出がふいに駆け足で脳裏を巡り、飛鳥は感慨深げに目を細めていた。

 その間に、ヘンリーは皿に葛餅を二つ程載せ、立ちあがった。

「サラに届けてくるよ」

 一緒に居間に来ることなく、玄関から直接コンピュータールームに戻ったサラに、吉野の伝言を伝えなければ――。

 と、唇にはにこやかな笑みを浮かべながらも、厳しい色彩をその瞳に浮かべたヘンリーに気づき、飛鳥は立ちあがろうと身じろいだ。だがヘンリーにすっと視線で制せられ、飛鳥はなぜ? と眉根を寄せて彼を見あげた。

「それじゃあ、ごゆっくり。出立前には声をかけて」


 飛鳥の問いかけには気づかぬ振りを通して、ヘンリーは愛想よく微笑んだまま、一人、居間を後にした。





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