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八章
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「アブドの糞野郎が――、無茶苦茶しやがって!」
朝っぱらから吉野は悪態をつきながらパソコンを叩いている。そんな彼の横で、ヘンリーはのんびりと紅茶を淹れている。
「被害は甚大なの?」
口にした内容の重さとは裏腹に、彼は優雅で軽やかな仕草で吉野の前にティーカップを置く。
「酷いもんだよ!」
視線は画面に据えたままで、手を伸ばしてカップを持ちあげる吉野の集中しているさまに、ヘンリーはくすくすと笑いだした。
「今さらだろう? それよりきみ、相変わらず食事だけはどこにいようと疎かにしないんだね。パソコンを睨みながら、というのは少々行儀が悪いが――」
むしろその行儀の悪さが彼らしいと、ヘンリーは、安堵している自分を強く自覚していた。だが当の吉野はというと、彼に笑われていることなど気にするふうもなく、朝食を矢継ぎ早に口に詰めこむだけだ。
「今日ばかりは本当に時間がないんだ。アブドの野郎、想定以上に発電所や冷却システムを破壊してやがるんだよ」
「きみをおびき出すためだったのだろう? 想定内じゃなかったのかい?」
「想定内だけどさ――」
吉野はふっと目を眇める。
「あまり外資系に打撃を与えすぎるのもさ、他に歪みがくるからさ」
「歪み?」
「ここで被った損失をどこかで補填しなきゃいけなくなるだろ?」
「確かに。うちの損失額はもう試算できているの? サラに伝えておかなければ」
「ああ、あいつにはもう言った。損失と相殺したら、利益はまぁ大したことなかったけどね」
「利益? きみ、この開発区に投資した会社のⅭⅮSを買っているの?」
ヘンリーは不愉快そうに語気を強めていた。
この破壊と混乱に乗じた金儲けなど、あまりにも下劣極まりないではないか。王室内の統制を図るためとはいえ、いったいどれだけの部外者を巻き添えにすれば気が済むのか――。
だが、不快感から眉根をよせていた彼に返ってきたのは、思惑とは異なる予想外の言葉だった。
「アブドルアジーズが『アッシャムス』のⅭⅮSを売ってたからね。もちろん、買い捲ってやったよ」
皿に山盛りにされたマナキシュ・ザタールを順に頬張りながら、吉野はやっと視線をあげてヘンリーを見つめ、にっこりと笑った。
「『アッシャムス』は、国営だろう――」
「初めから潰す予定で設立した会社だよ」
事もなげに吉野は答えた。頬をもぐもぐと動かしながら。
さらに訊ねようとヘンリーは口を開きかけ、食欲旺盛に食べている彼の元気な姿に、問いかけるのは止めにして、代わりに薄らと苦笑を漏らした。
飛鳥が彼のこの姿を見たら、どれほど安心することか――。
だが、眼前の厄介事を片づけるまで、吉野はここを動こうとはしないのだろう。
ヘンリーの苦笑がため息に変わる。
『アッシャムス』は、アブド大臣管理下の太陽光発電施設を運営する国営企業だ。現在国庫の大半を占める石油産業に代わり、次代を担う業種として鳴り物入りで設立された。後から投資や技術協力という形で参入してきた国外企業とは、立ち位置からして違う。
その『アッシャムス』のⅭⅮSを買うということは、この会社が倒産の危機に瀕しているということだ。だが他の参画企業に比べて、国営であるこの会社のⅭⅮSは値上がりしていない。
二杯目の紅茶を流しこみ、次のマナキシュを摘まみあげながら、吉野は説明を続けた。
「国営だから潰れるわけがないって? 膨大な損失が出れば当然潰れるよ。会社なんだからさ。だからⅭⅮSが販売できるんじゃないか」
「初めから潰すつもりだったって、どういうこと?」
「国営っていっても、この会社の株はね、アブドとアブドルアジーズ、それにアブドの親族にあたる王族に半数近く握られてるんだよ。だから一度潰して株主を入れ替えたいんだ。それから民間に払い下げる」
「あの規模の発電施設を民間に? あてはあるのかい? まさか――」
露骨に顔をしかめたヘンリーを悪戯っ子のように見上げて、吉野はにっと口角をあげる。
「そのまさか。ルベリーニだよ。まぁ、払い下げるっていっても、それ相当数の株式は国で握らせてもらうけどね」
ため息をついたヘンリーに、吉野は真面目な顔をして続ける。
「あんたが思っているほど、ルベリーニは拝金主義ってわけじゃないよ。経営に関しては堅実だ。それにこの国でやっていくには、あいつらくらい肝の据わった奴らじゃないと無理なんだ」
「それが、きみがこの国から学んだ結論かい?」
「ある意味そうだな。ここじゃ、王族だって国なんか信じちゃいないからね。だから、あいつらは蓄財に走るんだよ。それでも、駆逐される恐怖から逃れられない。そして、今度は散財に走る。哀れなもんだよ」
淡々と語る吉野に、何と返すべきなのだろうか――。
要するに、この事業計画の初めからアブド大臣は捨て駒であったということだ。彼を奔走させて、集めたコネと資金で設備を造った。それを丸々国で取りあげ利益に変える。ルベリーニへの利益提供のためではない。大規模な会社を円滑に運営させるために、ルベリーニの統率力を利用するためなのだ。
彼の、相変わらずといってしまうにはあまりに周到なやり口には、感心させられるよりも背筋を凍えさせるものがある。
そんなヘンリーの複雑な胸中を気にしたのか、吉野は少し食べるペースを落としてパソコンを叩く手を休めた。
「あんたは、サウードが判断能力を欠いているって言うけどさ。俺から見れば、あいつは理想的な王様だよ。王に必要なのは切れる頭じゃない。求心力と包容力だ。アブドみたいな切れる奴じゃ駄目なんだよ。すべてを自分で握りたがるからな」
「独裁政権に陥ってしまうと?」
「あいつがやろうとしたみたいにね」
「サウード殿下ならそうはならないと、きみは言うの?」
「今のところはね。先のことは判らないよ。人を育てるのは時間がかかるんだ」
それまで帰ってこないつもりかい?
胃を押さえて蹲る飛鳥の姿が、ヘンリーの脳裏をかすめていた。飛鳥を思い、彼は何度目かのため息をつく。
「あんたとサウードは似てるよ」
「そんなふうに思ったことはないな」
それ以前に、あの方は何を考えているのかさえ理解できない。なぜ吉野を、こうも頭から信じこんでしまえるのか――。
吉野を信じるという者たちは、サウードにしろアレンにしろ、彼が毒であると解ったうえで自ら進んであおっているようにすら、ヘンリーには見えるのだった。
甘美な毒に支配され。自らの意志も放棄して。
だがそれは自分も同じなのかもしれない、とヘンリーは、正面に座る吉野を眺める。
信じたい自分と信じきれない自分がせめぎあうという、誰の中にもあるはずの揺らぎが、彼の中に見出せないのだ。
それが、ヘンリーが吉野を信じきれない理由だと自覚してはいるのだが――。
「ヨシノ、口にスパイスがついている」
いつの間にかマナキシュの山は、残すところあと数枚だ。
ピタパンに、オリーブオイルとタイムやオレガノなどのハーブ、黒ゴマ、チアシードを合わせた香辛料ザタールをたっぷり塗りつけたマナキシュの強い香りは、おおかた彼の腹の中に納まってしまっていた。
異国の文化も、慣習も、悪習ですら、彼はこうやって取りこんで消化してしまえるのだ――。
「どこに行っても生きていけるな、きみは」
ヘンリーは新しく紅茶を淹れながら呟いた。
同じ国にいても、彼は、英国ブランドの紅茶を英国製のティーセットで飲んでいた。これが彼と自分との差なのだ、と内心苦笑しながら。
「そうでもないよ。食ってくれる奴がいないと料理の腕が鈍る。――だから、これが落ち着いたらいったん帰るよ。今日、明日ってわけにはいかないけど。――そうだな、」
目を細めてしばらく視線を宙に彷徨わせた吉野は、ぱっと頬を緩めると、屈託のない笑みをヘンリーに向けた。
「一か月ってところかな。その頃には、英国はもう秋だね」
朝っぱらから吉野は悪態をつきながらパソコンを叩いている。そんな彼の横で、ヘンリーはのんびりと紅茶を淹れている。
「被害は甚大なの?」
口にした内容の重さとは裏腹に、彼は優雅で軽やかな仕草で吉野の前にティーカップを置く。
「酷いもんだよ!」
視線は画面に据えたままで、手を伸ばしてカップを持ちあげる吉野の集中しているさまに、ヘンリーはくすくすと笑いだした。
「今さらだろう? それよりきみ、相変わらず食事だけはどこにいようと疎かにしないんだね。パソコンを睨みながら、というのは少々行儀が悪いが――」
むしろその行儀の悪さが彼らしいと、ヘンリーは、安堵している自分を強く自覚していた。だが当の吉野はというと、彼に笑われていることなど気にするふうもなく、朝食を矢継ぎ早に口に詰めこむだけだ。
「今日ばかりは本当に時間がないんだ。アブドの野郎、想定以上に発電所や冷却システムを破壊してやがるんだよ」
「きみをおびき出すためだったのだろう? 想定内じゃなかったのかい?」
「想定内だけどさ――」
吉野はふっと目を眇める。
「あまり外資系に打撃を与えすぎるのもさ、他に歪みがくるからさ」
「歪み?」
「ここで被った損失をどこかで補填しなきゃいけなくなるだろ?」
「確かに。うちの損失額はもう試算できているの? サラに伝えておかなければ」
「ああ、あいつにはもう言った。損失と相殺したら、利益はまぁ大したことなかったけどね」
「利益? きみ、この開発区に投資した会社のⅭⅮSを買っているの?」
ヘンリーは不愉快そうに語気を強めていた。
この破壊と混乱に乗じた金儲けなど、あまりにも下劣極まりないではないか。王室内の統制を図るためとはいえ、いったいどれだけの部外者を巻き添えにすれば気が済むのか――。
だが、不快感から眉根をよせていた彼に返ってきたのは、思惑とは異なる予想外の言葉だった。
「アブドルアジーズが『アッシャムス』のⅭⅮSを売ってたからね。もちろん、買い捲ってやったよ」
皿に山盛りにされたマナキシュ・ザタールを順に頬張りながら、吉野はやっと視線をあげてヘンリーを見つめ、にっこりと笑った。
「『アッシャムス』は、国営だろう――」
「初めから潰す予定で設立した会社だよ」
事もなげに吉野は答えた。頬をもぐもぐと動かしながら。
さらに訊ねようとヘンリーは口を開きかけ、食欲旺盛に食べている彼の元気な姿に、問いかけるのは止めにして、代わりに薄らと苦笑を漏らした。
飛鳥が彼のこの姿を見たら、どれほど安心することか――。
だが、眼前の厄介事を片づけるまで、吉野はここを動こうとはしないのだろう。
ヘンリーの苦笑がため息に変わる。
『アッシャムス』は、アブド大臣管理下の太陽光発電施設を運営する国営企業だ。現在国庫の大半を占める石油産業に代わり、次代を担う業種として鳴り物入りで設立された。後から投資や技術協力という形で参入してきた国外企業とは、立ち位置からして違う。
その『アッシャムス』のⅭⅮSを買うということは、この会社が倒産の危機に瀕しているということだ。だが他の参画企業に比べて、国営であるこの会社のⅭⅮSは値上がりしていない。
二杯目の紅茶を流しこみ、次のマナキシュを摘まみあげながら、吉野は説明を続けた。
「国営だから潰れるわけがないって? 膨大な損失が出れば当然潰れるよ。会社なんだからさ。だからⅭⅮSが販売できるんじゃないか」
「初めから潰すつもりだったって、どういうこと?」
「国営っていっても、この会社の株はね、アブドとアブドルアジーズ、それにアブドの親族にあたる王族に半数近く握られてるんだよ。だから一度潰して株主を入れ替えたいんだ。それから民間に払い下げる」
「あの規模の発電施設を民間に? あてはあるのかい? まさか――」
露骨に顔をしかめたヘンリーを悪戯っ子のように見上げて、吉野はにっと口角をあげる。
「そのまさか。ルベリーニだよ。まぁ、払い下げるっていっても、それ相当数の株式は国で握らせてもらうけどね」
ため息をついたヘンリーに、吉野は真面目な顔をして続ける。
「あんたが思っているほど、ルベリーニは拝金主義ってわけじゃないよ。経営に関しては堅実だ。それにこの国でやっていくには、あいつらくらい肝の据わった奴らじゃないと無理なんだ」
「それが、きみがこの国から学んだ結論かい?」
「ある意味そうだな。ここじゃ、王族だって国なんか信じちゃいないからね。だから、あいつらは蓄財に走るんだよ。それでも、駆逐される恐怖から逃れられない。そして、今度は散財に走る。哀れなもんだよ」
淡々と語る吉野に、何と返すべきなのだろうか――。
要するに、この事業計画の初めからアブド大臣は捨て駒であったということだ。彼を奔走させて、集めたコネと資金で設備を造った。それを丸々国で取りあげ利益に変える。ルベリーニへの利益提供のためではない。大規模な会社を円滑に運営させるために、ルベリーニの統率力を利用するためなのだ。
彼の、相変わらずといってしまうにはあまりに周到なやり口には、感心させられるよりも背筋を凍えさせるものがある。
そんなヘンリーの複雑な胸中を気にしたのか、吉野は少し食べるペースを落としてパソコンを叩く手を休めた。
「あんたは、サウードが判断能力を欠いているって言うけどさ。俺から見れば、あいつは理想的な王様だよ。王に必要なのは切れる頭じゃない。求心力と包容力だ。アブドみたいな切れる奴じゃ駄目なんだよ。すべてを自分で握りたがるからな」
「独裁政権に陥ってしまうと?」
「あいつがやろうとしたみたいにね」
「サウード殿下ならそうはならないと、きみは言うの?」
「今のところはね。先のことは判らないよ。人を育てるのは時間がかかるんだ」
それまで帰ってこないつもりかい?
胃を押さえて蹲る飛鳥の姿が、ヘンリーの脳裏をかすめていた。飛鳥を思い、彼は何度目かのため息をつく。
「あんたとサウードは似てるよ」
「そんなふうに思ったことはないな」
それ以前に、あの方は何を考えているのかさえ理解できない。なぜ吉野を、こうも頭から信じこんでしまえるのか――。
吉野を信じるという者たちは、サウードにしろアレンにしろ、彼が毒であると解ったうえで自ら進んであおっているようにすら、ヘンリーには見えるのだった。
甘美な毒に支配され。自らの意志も放棄して。
だがそれは自分も同じなのかもしれない、とヘンリーは、正面に座る吉野を眺める。
信じたい自分と信じきれない自分がせめぎあうという、誰の中にもあるはずの揺らぎが、彼の中に見出せないのだ。
それが、ヘンリーが吉野を信じきれない理由だと自覚してはいるのだが――。
「ヨシノ、口にスパイスがついている」
いつの間にかマナキシュの山は、残すところあと数枚だ。
ピタパンに、オリーブオイルとタイムやオレガノなどのハーブ、黒ゴマ、チアシードを合わせた香辛料ザタールをたっぷり塗りつけたマナキシュの強い香りは、おおかた彼の腹の中に納まってしまっていた。
異国の文化も、慣習も、悪習ですら、彼はこうやって取りこんで消化してしまえるのだ――。
「どこに行っても生きていけるな、きみは」
ヘンリーは新しく紅茶を淹れながら呟いた。
同じ国にいても、彼は、英国ブランドの紅茶を英国製のティーセットで飲んでいた。これが彼と自分との差なのだ、と内心苦笑しながら。
「そうでもないよ。食ってくれる奴がいないと料理の腕が鈍る。――だから、これが落ち着いたらいったん帰るよ。今日、明日ってわけにはいかないけど。――そうだな、」
目を細めてしばらく視線を宙に彷徨わせた吉野は、ぱっと頬を緩めると、屈託のない笑みをヘンリーに向けた。
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