胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
534 / 758
八章

しおりを挟む
 朝から魂がぬけたようにぼんやりしている飛鳥を、デヴィッドはガーデンチェアーに深くもたれて困り果てたまま眺めていた。
 鮮やかな深緑に囲まれたテラスに据えられたガーデンテーブルには、晴れ渡る蒼穹を遮る生成りのパラソルが涼やかな影を落としているというのに――。それに木立を揺らす風は穏やかで、かすかに薔薇の香りを揺蕩わせている。真夏とはいえ、いまだ陽射しも柔らかな朝ののんびりとした空気のなかで、飛鳥一人が真冬の空のような瞳をしているのだ。

「もう少し落ち着いたら帰ってくるって」
 そう言って宥めてみたところで、飛鳥の耳には恐らく入っていないのだろう。

「アーニーは? もうヒースローには着いたかな?」
 虚空に視線を漂わせながら、飛鳥はまた、ため息をついている。
「うん。ついさっきね。まずロンドンの父へ報告にいって、それから事務所、こっちに来るのは夜になるって」
「そう……。でも、アーニーは向こうでは、吉野に会ってないんだよね」

 とうとう、心ここに在らずの飛鳥を持てあましたデヴィッドは席を立った。そしてぐいっ、と飛鳥の腕を引く。

「こんな所でうだうだしているくらいなら、イベント映像の点検をしようよ」
「え……」
「ヘンリーが、自らヨシノのお守りをしてるんだよ。僕らはせめて彼が帰ってきた時に不足のないようにしておくべきじゃないの!」

 思いきりバシッと背中を張られて、飛鳥は「痛っ」と顔をしかめる。だが次の瞬間には、その面に笑みを浮かべていた。

「きみの言う通りだ。無事だってことが解っただけで喜ばないとね」

 イベントホールを借りての新タブレッドのお披露目、予約展示会、そのメインイベントとなる立体映像の世界展――。アーカシャーHDの社運を賭けた一大イベントを、失敗させるわけにはいかないのだ。ましてヘンリーは、吉野の身を案じてかの地に飛んでくれているのだから。

 きりりと表情を引き締めた飛鳥の肩を、デヴィッドは今度は軽く、ほっとしたように叩く。二人は黙ったままテラス階段から建物沿いの芝生を通ってコンサバトリーに出て、指紋認証の鍵を解いてガラス戸を開けた。



 作業途中で置いたままの機材がそのままになっていた。
 最後にこの部屋に入ったのは、いったい、いつだっただろうか、と飛鳥は冷や水をかけられたような焦燥を感じていた。サラもパソコンルームに籠りっきりで、ここは使っていなかったという。メアリーが丁寧に掃除をしてくれていたのだろう。埃を被ってはいない。だが、放ったらかしにされていた部屋は淋し気で、裏ぶれて見えた。

「TSの3Ⅾ映像は、本来、人を傷つけるためのものじゃない。僕は、ここで、それを証明しなきゃならない――」
「そうだよ、僕らの想像力を最大限に刺激して、世界はこんなにも不思議で美しいものなんだって教えてくれた。それが、アスカちゃんの創る世界なんだから!」

 ひんやりとした大理石に胡坐をかいて座ると、投影装置の起動音が細かく空気を振動させていくのが肌で感じられる。

「僕はねぇ、この瞬間が大好きなんだ」

 天井から闇が溶けだすように流れていく――。ぽうっとその闇に、星が、花が輝きを放ち始める。外界を遮断して逆に閉ざされていた世界が広がっていくさまは、自分の描きだした想像世界が、まるで現実にはみ出し、侵食していくようだった。

「この中で僕は何にでもなれるんだ」

 デヴィッドは床の上に身を横たえ、自分を包む闇に溶け入るように手を伸ばす。

「脳に送る情報を書き換えれば、それも可能なのかな?」

 飛鳥がデヴィッドにというよりも、自分自身に問いかけるかのように呟いた。

「書き換えるって?」
「たとえば鏡。鏡に映る自分の顔が他人の顔だったら? 初めは違和感があっても、そのうちそれは自分だって思いこむんじゃないのかな」
「本当は、自分の顔は変わってないのに?」
 不思議そうに問いかけるデヴィッドに、飛鳥は頷く。
「自分がどんな顔をしているかなんて、僕はあんまり覚えてないよ。結構記憶なんていい加減なものでさ」
「それ、アスカちゃんが言う?」
 ケラケラと声をたてて笑うデヴィッドに、飛鳥は苦笑を返す。
「僕は吉野とは違うよ。この空間だって、ただの仮想バーチャルにすぎないだろ? でも脳はこれが実際の世界だって思いこんでしまうかもしれないんだ。――僕には、この映像は映像にしか見えないけど、他の人にはどうなのかな?」

「僕には、現実リアルも、映像これも区別つかないよ」

 デヴィッドは起きあがり、居住まいを正して飛鳥に向き合った。

「だからこそだよ! この仮想空間で、僕らは空を飛び、海に潜り、地底を探検できるんだ。今まで一部のエキスパートしか得ることのできなかった視覚体験ができるんだよ。きみという天才の脳の中を探検することだってできるんだ!」
「何だか怖いよ。僕はとんでもないものを創りだしてしまったんじゃないか、て気がするんだ」


 目の前にいる飛鳥の見ているのは、自分ではないのだ――。

 虚ろに漂う飛鳥の瞳を見据えてデヴィッドはきつく唇を噛んでいた。おそらく飛鳥の瞳が映しているのは、脳内に住みついた自分が創りだした兵士たちの残像だと、彼にはすぐに察しがついていた。銃をかまえ、逃げ惑う敵を追って走る姿を、飛鳥は脳裏に思い描いているのだ。

 吉野の無事が確認されたことで、そしてその当人があれほどの犠牲を払ってもなお戻ってはこないことで、飛鳥は自分のしたことを後悔し始めている。その迷いが、デヴィッドには手に取るように感じられていた。それは、飛鳥ほどではなくても確かに自分の中にもあるものだったからだ。本物と見まごう仮想バーチャルを操るということ。背景ではない、人間を操ることの陶酔感と嫌悪感が混ぜこぜになって、自分の深い意識の中にこびりついている。

 だがデヴィッドはそんな思いはおくびにも出さず、朗らかに笑い飛ばした。

「『夢のような、たわいのない出来事にすぎないのだから、お許しあれ』。アスカちゃん、生きることに疲れた現代人に見せる一夜の夢だよ。どんなに現実リアルに見えてもそれは夢にすぎない。それでも、夢は人を癒し、励まし、回復させてくれるものだよ。――アスカちゃんの世界はね、僕にとって、そして多くの人々にとっても、そんな素敵な夢の世界なんだよ!」





しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

偏食の吸血鬼は人狼の血を好む

琥狗ハヤテ
BL
人類が未曽有の大災害により絶滅に瀕したとき救済の手を差し伸べたのは、不老不死として人間の文明の影で生きていた吸血鬼の一族だった。その現筆頭である吸血鬼の真祖・レオニス。彼は生き残った人類と協力し、長い時間をかけて文明の再建を果たした。 そして新たな世界を築き上げた頃、レオニスにはひとつ大きな悩みが生まれていた。 【吸血鬼であるのに、人の血にアレルギー反応を引き起こすということ】 そんな彼の前に、とても「美味しそうな」男が現れて―――…?! 【孤独でニヒルな(絶滅一歩手前)の人狼×紳士でちょっと天然(?)な吸血鬼】 ◆閲覧ありがとうございます。小説投稿は初めてですがのんびりと完結まで書いてゆけたらと思います。「pixiv」にも同時連載中。 ◆ダブル主人公・人狼と吸血鬼の一人称視点で交互に物語が進んでゆきます。 ◆現在・毎日17時頃更新。 ◆年齢制限の話数には(R)がつきます。ご注意ください。 ◆未来、部分的に挿絵や漫画で描けたらなと考えています☺

N -Revolution

フロイライン
ライト文芸
プロレスラーを目指す桐生珀は、何度も入門試験をクリアできず、ひょんな事からニューハーフプロレスの団体への参加を持ちかけられるが…

夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 2nd season」  アルビーの留学を控えた二か月間の夏物語。  僕の心はきみには見えない――。  やっと通じ合えたと思ったのに――。 思いがけない闖入者に平穏を乱され、冷静ではいられないアルビー。 不可思議で傍若無人、何やら訳アリなコウの友人たちに振り回され、断ち切れない過去のしがらみが浮かび上がる。 夢と現を両手に掬い、境界線を綱渡りする。 アルビーの心に映る万華鏡のように脆く、危うい世界が広がる――。  *****  コウからアルビーへ一人称視点が切り替わっていますが、続編として内容は続いています。独立した作品としては読めませんので、「霧のはし 虹のたもとで」からお読み下さい。  注・精神疾患に関する記述があります。ご不快に感じられる面があるかもしれません。 (番外編「憂鬱な朝」をプロローグとして挿入しています)  

処理中です...