胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

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 新製品のTSタブレットの予約販売を兼ねたイベントは、予定していた本店フロアから急遽ロンドン郊外のイベントホールへ場所を移すことになった。イベント概要の発表と同時に問い合わせや予約が殺到し、本社での催しではこれまで以上の混乱が予想されたからだ。



「それにしても、よくこんな切羽詰まってからホールが借りられたねぇ」
 各々用事に取り組んでいる夕食後の居間で、ふと不思議そうに首を傾げたデヴィッドに、アーネストはくいっと眉根を上げて応えた。
「コネを総動員したんだよ」
「おいおい、人聞きの悪いことを言わないでくれるかい?」
 ヘンリーが書類から顔を上げて苦笑を見せる。

「テロの影響だよ。大勢が集まるイベントは、規制が厳しくなってから充分な集客が見込めなくて、スケジュールを埋めきれないんだそうだよ。さすがに、八月に割り込むのは難しかったけれどね。お前もニュースくらい見ろよ」
 くすくす笑いながら揶揄うアーネストの口調に、デヴィッドは口を尖らせる。
「知っているよ、それくらい。でも最近は落ちついてきてるじゃないか。それプラス、コネを使ったんだろ?」
「まぁ、その辺はね」
「優秀だからね、うちの社員は」

 二人とも意味ありげに笑ってさらりと流し、話題を切り替えた。

「それで、アスカちゃん、まだ修正が終わらないの? また本番ギリギリまでずれ込むのかな?」
「そうだね、早めにニューヨーク支店から技術チームを呼んで研修を行うから、一週間前までには仕上げてそう大きな変更は行わないでくれ、と言ってはいるんだけどね」
 歯切れの悪いヘンリーの言いぶりに、アーネストも、デヴィッドも訝しげな視線を投げかけている。
「でもたぶん、イベントが始まる直前に大きな修正が入ると思うんだ」

 世界に公開される前に――。

 その意味を察して、空気がぴんと張り詰める。二人とも表情を引き締めてヘンリーを凝視していた。



「そんなに、切羽詰まった状況なの?」
 長い沈黙に耐え切れず、デヴィッドが呟いた。
「どうだろうね?」
 ヘンリーはいつもと変わらぬ笑みを湛えている。
「心配で胃を悪くしそうだ」
「おや、きみでもそんなことがあるのかい?」
 驚いて目を丸くするヘンリーに、アーネストは呆れたようなため息をつく。
「エリオットできみと一緒だった頃は、胃薬が欠かせなかったよ」
「冗談だろ?」
 ヘンリーはくすくすと笑い、首を傾げている。アーネストはこれ見よがしなため息をもう一度盛大に放ち、立ちあがった。
「お茶を頼んでくるよ。ついでにアスカに具体的な進捗状況を訊いてくる。こんな曖昧な状態じゃ、予定を立てられないじゃないか」
「僕はコーヒーがいいな」
「僕は紅茶」
「OK」
 にこやかに頼むヘンリーたちにひらひらと手を振り、アーネストは居間を後にした。


「アーニー、ずっとカリカリしてるねぇ――」
 そう言うデヴィッドも、落ちつかない様子でしきりにブルネットの巻き毛を触っているのだ。
「きみもね」
 ヘンリーは書類を傍らに置き、労わるような微笑を浮かべる。
「ヨシノの心配は要らない。あの子はしたたかな子だからね。それよりも心配なのは、」

「キャア!」と、突如屋敷内に甲高い悲鳴が響いた。

「サラ!」
 ヘンリーは、声と同時にもう壁際の螺旋階段を駆けあがっている。

 パタパタと足音を響かせ階上の吹き抜けまで走ってきたサラは、設置された手摺から身を乗りだしてキョロキョロと視線を巡らせると、勢い走ってきたヘンリーに取り縋った。

「ヘンリー、アスカが倒れたの!」





「お医者さまは何て?」

 飛鳥の部屋のベッド脇に腰かけていたヘンリーに、デヴィッドが戸口から小声で声をかけた。その横ではアーネストが「相変わらずすさまじい部屋だな」と、眉根を寄せて呟いている。

「サラ、アスカを看ていて」
 ベッドの傍らに膝をつき、シーツの端を握りしめていた彼女は、蒼白な顔のまま頷く。ヘンリーはそんな彼女の頭をぽんと撫でてから立ちあがる。

「すまないね、メアリー」
 苦笑する彼の視線の先では、床からいくつもの図面をくるくると丸めては小脇に抱えているメアリーが、口をへの字にして眉をくいっと上げている。
「坊ちゃんから言い訳しておいてくださいよ! 勝手に触ると怒られるんですから!」
「もちろん、彼に文句は言わせないよ」
 微苦笑を湛えて頷いてから、ヘンリーは床の上の本や、図面、コード類を踏みつけないように気をつけながら部屋を出た。



 後ろ手にドアを閉め、ヘンリーは、ほうっと息をつく。

「大丈夫。ただの過労だよ。それに栄養不良」
「また食べてなかったの?」
 顔をしかめるデヴィッドの横で、アーネストも戸惑いを隠そうともせず首を振っている。
「どうしてそう、自分を追い詰めるのかな、彼は――」
「ヘンリー、ヨシノを呼び戻そうよ。アスカちゃんが倒れたって言えば、彼なら飛んで帰ってくるよ」
「それはないな」

 真摯な瞳を向けるデヴィッドにヘンリーは首を振り、医者の見送りから戻ってきたマーカスを振り返る。

「マーカス、ティールームにコーヒーとお茶を用意してくれるかい? きみたちも移動しよう。予想以上に事態は緊迫しているようだからね。心して聞いて欲しい」

 ヘンリーはちらりと二人を見遣り、足早にその場を離れていった。ありえないと解っていても、部屋の中で眠る飛鳥の耳にわずかにでも自分たちの会話が入ることを恐れるかのように――。
 デヴィッドも、アーネストも、緊張と不安に張り詰めたまま、そんな彼の背に続いていた。






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