胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

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 二週間の試験期間が終わるとすぐに、吉野は砂漠の国へと戻っていった。街なかのフラットから早々と戻ってきた飛鳥に、ヘンリーは残念そうに微笑んで嘆息する。
「僕も会いたかったのに。でも、試験期間中はさすがに遠慮していたんだ。それでかな、さっさと逃げられてしまったみたいだね」
「僕だってあまり話せなかったよ」

 飛鳥は申し訳なさそうに首をすくめた。ヘンリーが、兄弟水入らずでいられるように、と気づかってくれていたことに今さらながら気づいたのだ。

「3D映像の薔薇のこと、彼は何て?」

 何げなく問われたその一言に、飛鳥は一瞬躊躇し、逃げるように目を泳がせる。

「ああ、あれの名前のこと聞いたの?」

 微苦笑するヘンリーの表情には、特にその話題を避けようとする様子も見られない。飛鳥は思い切って頷き、訊ね返した。

「悔恨って名前なんだって?」
「僕にくれた花の名前だよ、父は何を後悔していたのかって、僕はずっと父を理解できなかったよ、」

 ヘンリーはくすりと微笑んだ。

「恋を知るまでは」

 いつもと変わりなく悠然としたヘンリーの口から零れた意外な言葉に、飛鳥はきょとんとしている。

「父はね、母を愛せなかったことを、――というよりも、その想いに一片の憐れみすらかけなかったことを、後悔していたのだと解ったんだ。寄せられた想いに応えることはできなくても――、ね」

 憐れみをかける?

 飛鳥はますます不可解そうな顔をして呟いた。

「僕には良く解らないよ」
「そうだろうね」

 間髪入れずに返ってきた賛同に、飛鳥はぷっとふくれっ面をする。

「恋を知らないから?」
「そうは言っていないよ。クリスチャン的な考え方なのかな、って思っただけで」
「え?」

 ヘンリーはまた、ふわりと微笑んでいる。

「つまりね、キリスト教的には『憐れみ』は、たんなる同情や慈悲じゃない。苦しみをともに負うってことなんだ。報われない想いの苦しさを思い、受けとめて共感する。――そんなふうに考えるのは、多分に宗教的なのかなって」
「それは――、」

 どうなんだろう? と飛鳥は小首を傾げていた。彼にはやはり答えようがないのだ。

「恋した相手が、同じように自分に恋してくれるなんて、奇跡だと思わないかい?」
「――うん」

 どう答えたものか迷いながら、飛鳥は頷いた。


 居間のガラス戸を開け放ち、続きのテラステーブルに向きあって座るヘンリーは、出逢った頃から飛鳥よりもずっと大人で思慮深い。今でもその認識は変わらない。それどころかますます深まっていると言っていいほどだ。彼が飛鳥の抱え続けてきた悔恨の想いを理解し、ともに負い、支えてくれたからこれまでやってこれたのだ、と飛鳥はそう思っている。

 それが彼の言う、憐れみをかける、ということなのだろうか? それならば父親から託された「悔恨」という花に、彼はどんな意味を見出したのだろうか――。

 飛鳥にとっての「悔恨」は、消し去ろうにも消し去れない苦い想いが、油断していると喉元まで上がってきて締めあげてくる、そんな呪縛を持つ言葉なのだ。

 だが、そんな複雑な思いで見つめていたヘンリーから返ってきたのは、飛鳥の想像していたのとは違う言葉だった。


「アスカ、ゆっくりでいいよ」

 飛鳥の戸惑いを見てとったのか、ヘンリーは柔らかな笑みを浮かべて静かに告げていた。

「後悔しないように、よく考えて」
「何のこと?」

 すべてを見透かしたようなヘンリーの眼差しに、飛鳥はどぎまぎしながら訊き返す。

「3Dの薔薇だよ」

 ああ、やはり――。

「仮に、彼がこの技術を中東で使ったとしても、もう誰も驚かない。きみがこれを世に出すのはまだ早いと思うのなら中止したって、僕はかまわないよ」
「今さら? もうタブレットの増産に、イベントの告知も始まっているのに?」

 ヘンリーの真摯な瞳を真っ直ぐに見つめ返し、飛鳥は苦笑いを浮かべて続けた。

「ありがとう、ヘンリー。皆には黙っていてくれて。僕はこの薔薇の名前を知ったとき、きみは僕とともに歩むことを後悔していることを告げるために、この花を掲げたのだと思ったよ」
「まさか! 僕は後悔なんてしないよ」
「そうだね。きみは昔から変わらない。真っ直ぐに前だけを見つめて、決して後ろを振り返らない」
「そう見えるかい?」

 どこか淋しげに微笑んで、ヘンリーは視線を戸外に向けた。

「風向きが変わったね。今年は、薔薇の香りがここまで届くほど咲き誇っているんだよ」

 初夏の煌きの中、仄かに甘い香りが漂っているのが飛鳥にも感じられる。

「悔やむことのない生なんてないよ。生きることは選択の連続だもの。もし、あの時、って考えない人間がいるのかな? 僕が後悔しないって言ったのは、僕は、僕の決断から引き起こされた結果に責任を持つ、って意味だよ」

 ヘンリーは言葉を切って、飛鳥の反応を確かめるように小首を傾げる。だが飛鳥は、ぐっと唇を引き結んだまま何も答えない。

「きみがこれから変わりゆく未来への覚悟がまだできていないのなら、僕はいつまででも待つし、覚悟を決めてこのまま突き進むのなら、ともに進みたいと思う。――父が僕にくださった薔薇に「悔恨」と名づけたのは、ともすれば、奢り、昂ぶり、自惚れる己を省みて、寄り添う心を忘れるな、という戒めのためだと信じているからね」

「――きみは、あいつの事も信じてくれるの?」
「信じているよ。僕は一度だって、彼を疑ったことなんてないよ。それに何よりも、ヨシノを信じているきみを信じている」

 歯を食い縛って、零れ落ちそうな涙を我慢する飛鳥の頭を、柔らかな、温かな掌がふわりと覆う。

「一人で背負い込まないで。きみの悪い癖だよ、アスカ」

 唇を微かに震わせながら、飛鳥は深く頷いた。



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