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八章
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ジャックが逝ったのは、それから三日後のことだった。訃報を聴いた時にはすでに覚悟もできていたようで、吉野はただ「そうか」と言っただけだった。ヘンリーは静かに頷いて、アレンも、もう泣かなかった。
それからは、一週間後にとり行われる葬式まで、皆、普段通りにすごしていた。吉野は一日中、アレンの試験勉強を見てやっていたし、アレンはアレンで、必死の形相で勉強に集中していた。
ヘンリーはいつも通り会社に行き、飛鳥とサラは、やりかけの仕事に没頭していた。
「意外にお前が平気そうで安心したよ」
アレンには、今、模擬テストを解かせているから、とお茶に下りてきた吉野とコーヒーを飲みながら、飛鳥は優しく、だがどこか複雑そうな眼差しで微笑んだ。
「お祖父ちゃんみたいに、豪快で懐の深い人だったよね。だからさ……、」
「祖父ちゃんとは違うよ。ジャックは勝手に逝ったりしなかったじゃないか」
訃報の電話を受けた時、「お祖父ちゃんは、吉野たちが来るのを待っていたのよ」、とアンに言われたのだそうだ。その話を飛鳥にして、吉野はちょっと微笑んだのだった。「嬉しかったよ」と。
「俺はさぁ、たとえ一分一秒でも長くジャックに生きていて欲しいって、ずっとそう思っていたんだ。でも、あいつやヘンリーは違った。自分たちにできることを考えて、ジャックを誠心誠意を尽くして見送ることに、心を砕いていたんだ。――俺みたいなの、てエゴだよな……」
吉野は自嘲的に嗤い、そんな自分を恥じるようにカップを口許に運ぶ。飛鳥は驚いたふうに大きく目を瞠ったまま、弟の静かな鳶色の瞳を見つめていた。
「僕は、無理だな。どんな形でも、喩え植物状態であろうと生きていて欲しいって思うと思う。――エゴかもしれないけれど」
飛鳥は苦笑して、気を取り直すようにコーヒーを口に含む。その苦味で自分を戒めるように、顔をしかめる。
「僕は欲張りなんだよ」
「知ってる」
吉野は目を細めてくすりと笑った。とその吉野のポケットからアラーム音が鳴った。
「時間だ。あいつにもお茶を持っていってやらないとな」
吉野はお湯が沸くのを待つ間、キッチンの窓にふと目を留めると、「春に死ぬってのもいいもんだな。命日に花が途絶える事がない」と、その向こうに霞むように揺れる桜色を眺めて呟いた。
「たまには、祖父ちゃんの墓参りに帰らないとな」
そして当日、ダークスーツに身を包み参列したジャックのお葬式で、デヴィッドは目を丸くして傍らの飛鳥を啄いて言った。
「彼って、すごい人脈の持ち主だったんだね」
教会内に入りきれないほどの会葬者。地味なジャケットやジャンバーを着る労働者階級の老人たちの傍らに、高級スーツに身を包んだヘンリー達を筆頭に、いかにも紳士の卵然とした上流階級揃いのエリオット校生とその関係者が、数で圧倒するほどに参列しているのだ。その中には、デヴィッドも見知った先生方の顔ぶれもある。
「人柄が偲ばれるね」
飛鳥も小声で頷き返す。この英国社会で、こうも階層の異なった弔問客に見送られる人物も珍しいのではないだろうか。
「遺骨は樹木葬だって?」
祭壇に置かれた花で飾られた棺に目を据えたまま、吉野は傍らのアンに小声で訊ねる。アンは目を伏せたまま、やはり小声でそれに応じた。
「うん。教会の裏手の公園に」
「ジャックらしいな」
「彼が、薔薇の苗木を贈って下さったの」
黒のワンピース姿のアンは、肩ごしにヘンリーを視線で示した。
「そうか」
「メモリアルベンチをありがとう」
「うん」
かつては小さな花壇だけだった教会裏は、故人の遺灰を撒く人々の手に寄って徐々に整備され、花や樹木が植えられ、公園として地域の憩いの場に変わっていた。
故人の名を付けた薔薇を育ててもらうことのできる薔薇園に、火葬後ジャックの遺骨は小さな骨壷に収められて埋められる。その上に彼の名を冠したプレートと薔薇の苗が植えられるのだ。
この地を訪れた人が、美しい花を愛で心を癒し、彼の思い出を偲んでくれるように、と。
そして、その薔薇園を見渡すベンチの背もたれに埋め込まれたプレートにも、彼の名とそれを贈った吉野の言葉が刻まれる。
「どんなメッセージを贈ってくれたの?」
アンは、ちらりと吉野を見上げる。
「届いてからの楽しみにしておけよ」
吉野は目を細めてにっと笑う。
葬儀の後は、今はジェイクの仕切るジャックのパブに移動し、会葬者に軽食が振舞われた。吉野はそのために、ヘンリー達とは別で早朝に店に入り、ジェイクやアンと一緒に仕込みを手伝っていた。そして今は、ジャケットを脱ぎ袖まくりして、当たり前にカウンターに立っている。
賑やかな笑い声と、故人の思い出話に花が咲く柔らかなざわめきの中で、カウンターに腰かけたヘンリーの前に、吉野はカチャリと、コーヒーのカップを置く。そして、その横にもうひとつ。
「いや、二杯目はいいよ。フランクの分は、きっと、今頃ジャックが天国で手ずから淹れてあげているに違いないからね」
ふわりと微笑んだヘンリーに、吉野も笑って頷いて、置いたカップを持ち上げ口許に運んだ。
三ヶ月後、ジャックのプレートの付いた薔薇の苗の手前に、緑色の木製のベンチが設置された。そこに嵌めこまれた鈍い金色のプレートには、こんな言葉が刻まれていた。
「ジャック・ボトムを偲んで
ここで寛ぐ僕たちは幸いだ
コーヒーの薫香に包まれたあなたの笑みを思い出す
永遠に あなたは僕たちの心の内に
一エリオット校生より」
それからは、一週間後にとり行われる葬式まで、皆、普段通りにすごしていた。吉野は一日中、アレンの試験勉強を見てやっていたし、アレンはアレンで、必死の形相で勉強に集中していた。
ヘンリーはいつも通り会社に行き、飛鳥とサラは、やりかけの仕事に没頭していた。
「意外にお前が平気そうで安心したよ」
アレンには、今、模擬テストを解かせているから、とお茶に下りてきた吉野とコーヒーを飲みながら、飛鳥は優しく、だがどこか複雑そうな眼差しで微笑んだ。
「お祖父ちゃんみたいに、豪快で懐の深い人だったよね。だからさ……、」
「祖父ちゃんとは違うよ。ジャックは勝手に逝ったりしなかったじゃないか」
訃報の電話を受けた時、「お祖父ちゃんは、吉野たちが来るのを待っていたのよ」、とアンに言われたのだそうだ。その話を飛鳥にして、吉野はちょっと微笑んだのだった。「嬉しかったよ」と。
「俺はさぁ、たとえ一分一秒でも長くジャックに生きていて欲しいって、ずっとそう思っていたんだ。でも、あいつやヘンリーは違った。自分たちにできることを考えて、ジャックを誠心誠意を尽くして見送ることに、心を砕いていたんだ。――俺みたいなの、てエゴだよな……」
吉野は自嘲的に嗤い、そんな自分を恥じるようにカップを口許に運ぶ。飛鳥は驚いたふうに大きく目を瞠ったまま、弟の静かな鳶色の瞳を見つめていた。
「僕は、無理だな。どんな形でも、喩え植物状態であろうと生きていて欲しいって思うと思う。――エゴかもしれないけれど」
飛鳥は苦笑して、気を取り直すようにコーヒーを口に含む。その苦味で自分を戒めるように、顔をしかめる。
「僕は欲張りなんだよ」
「知ってる」
吉野は目を細めてくすりと笑った。とその吉野のポケットからアラーム音が鳴った。
「時間だ。あいつにもお茶を持っていってやらないとな」
吉野はお湯が沸くのを待つ間、キッチンの窓にふと目を留めると、「春に死ぬってのもいいもんだな。命日に花が途絶える事がない」と、その向こうに霞むように揺れる桜色を眺めて呟いた。
「たまには、祖父ちゃんの墓参りに帰らないとな」
そして当日、ダークスーツに身を包み参列したジャックのお葬式で、デヴィッドは目を丸くして傍らの飛鳥を啄いて言った。
「彼って、すごい人脈の持ち主だったんだね」
教会内に入りきれないほどの会葬者。地味なジャケットやジャンバーを着る労働者階級の老人たちの傍らに、高級スーツに身を包んだヘンリー達を筆頭に、いかにも紳士の卵然とした上流階級揃いのエリオット校生とその関係者が、数で圧倒するほどに参列しているのだ。その中には、デヴィッドも見知った先生方の顔ぶれもある。
「人柄が偲ばれるね」
飛鳥も小声で頷き返す。この英国社会で、こうも階層の異なった弔問客に見送られる人物も珍しいのではないだろうか。
「遺骨は樹木葬だって?」
祭壇に置かれた花で飾られた棺に目を据えたまま、吉野は傍らのアンに小声で訊ねる。アンは目を伏せたまま、やはり小声でそれに応じた。
「うん。教会の裏手の公園に」
「ジャックらしいな」
「彼が、薔薇の苗木を贈って下さったの」
黒のワンピース姿のアンは、肩ごしにヘンリーを視線で示した。
「そうか」
「メモリアルベンチをありがとう」
「うん」
かつては小さな花壇だけだった教会裏は、故人の遺灰を撒く人々の手に寄って徐々に整備され、花や樹木が植えられ、公園として地域の憩いの場に変わっていた。
故人の名を付けた薔薇を育ててもらうことのできる薔薇園に、火葬後ジャックの遺骨は小さな骨壷に収められて埋められる。その上に彼の名を冠したプレートと薔薇の苗が植えられるのだ。
この地を訪れた人が、美しい花を愛で心を癒し、彼の思い出を偲んでくれるように、と。
そして、その薔薇園を見渡すベンチの背もたれに埋め込まれたプレートにも、彼の名とそれを贈った吉野の言葉が刻まれる。
「どんなメッセージを贈ってくれたの?」
アンは、ちらりと吉野を見上げる。
「届いてからの楽しみにしておけよ」
吉野は目を細めてにっと笑う。
葬儀の後は、今はジェイクの仕切るジャックのパブに移動し、会葬者に軽食が振舞われた。吉野はそのために、ヘンリー達とは別で早朝に店に入り、ジェイクやアンと一緒に仕込みを手伝っていた。そして今は、ジャケットを脱ぎ袖まくりして、当たり前にカウンターに立っている。
賑やかな笑い声と、故人の思い出話に花が咲く柔らかなざわめきの中で、カウンターに腰かけたヘンリーの前に、吉野はカチャリと、コーヒーのカップを置く。そして、その横にもうひとつ。
「いや、二杯目はいいよ。フランクの分は、きっと、今頃ジャックが天国で手ずから淹れてあげているに違いないからね」
ふわりと微笑んだヘンリーに、吉野も笑って頷いて、置いたカップを持ち上げ口許に運んだ。
三ヶ月後、ジャックのプレートの付いた薔薇の苗の手前に、緑色の木製のベンチが設置された。そこに嵌めこまれた鈍い金色のプレートには、こんな言葉が刻まれていた。
「ジャック・ボトムを偲んで
ここで寛ぐ僕たちは幸いだ
コーヒーの薫香に包まれたあなたの笑みを思い出す
永遠に あなたは僕たちの心の内に
一エリオット校生より」
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