胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

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 二人は、久しぶりに訪れたエリオットの街外れにある、ジャックの住むバンガローの前で立ち止まる。くるりと辺りを見回し、吉野は満足そうに目を細めている。対してアレンは緊張からか、拳をぐっと握りしめたままだ。

「いい家だな」

 平屋造りの白い壁、玄関の前には駐車スペースと、狭いが芝を張った庭もある。いくらか庭木も植わっている。お世辞にも充分に手入れされているとは言い難いのではあるが。

「おい、泣くなよ」
 傍らのアレンを振り返り、吉野は渋い顔をする。
「――大丈夫」
 自分でも取り繕いようのない陰気な顔つきを意識したのだろうか、アレンは唇の両端を引きあげて笑みを形作り、ぐっと頷き返した。


 玄関のベルを押す。
 ドアを開けたアンに、吉野はにっと笑いかける。
「久しぶりだな。元気だった?」
「ありがとう。お祖父ちゃん、喜ぶわ」
 憔悴しきった様子で、それでも無理に笑顔を作るアンの肩をぽんと叩く。何年かぶりに逢ったというのに、アンはまるで変わらない。化粧っけのない顔に、気丈な様子で唇を引き結んでいる。
「教えてくれて、ありがとな」
「お祖父ちゃん、ずっとあんたに逢いたがっていたんだもの。――それに、あなたにも」
 アンは吉野の背後に佇むアレンに、どこか空ろな視線を向けた。
「ありがとう、来てくれて」
 どう言葉を返していいものかと言い淀むアレンの返事を待つこともなく、アンは踵を返した。


 案内された日当たりの良い部屋に入るなり、ジャックのしわがれた声が響く。

「おう、坊主、久しぶりだな」
「なんだ、元気そうじゃないか。死にかけているって聞いたのに」
「相変わらず口の悪いガキだな」

 声を立ててジャックは笑う。

「ああ、天使の坊ちゃんも一緒か」
 吉野の背に隠れるようにして顔を伏せていたアレンが、はっと顔をあげた。
「こんにちは――」

 吉野の肩越しに見えるベッドに、ジャックは横たわったままでいた。嬉しそうに彼らを見つめて頷いている。

「こんな格好ですまんな。身体を起こすのも面倒でね。歳を取るといけねぇな、あちこちガタがきちまってなぁ」
「おい、ジャック、ずいぶん俺と態度が違うんじゃないの? 椅子くらいすすめてくれよ」

 吉野は笑いながら、ベッドの横に置かれたままの椅子に腰かけた。

「なんだ、今さらお前に気を使うこともないだろうが!」

 ジャックは笑いながら手を伸ばし、吉野の膝の上にその手をのせた。鶏がらのように痩せて小さくなってしまったその掌を、吉野は自分の掌で包みこむように重ねる。
 吉野の背後に立ちその肩に両手をかけていたアレンの指先に、ぎゅっと力が入るのが判った。吉野は心の中で、アレン、泣くなよ、我慢しろ、と一心に願いつつ、横たわるジャックの面変りした土気色に病み疲れた肌の中に、沈み込むように落ち窪んだ眼を、じっと見つめて微笑んでいた。


「気を使ってくれよ。俺、もう大学生なんだぜ。天下のケンブリッジ生だ。お祝いにジャックのコーヒーが飲みたいよ」
「なんだ、スキップしちまったのか! もったいないことしやがって! そっちの坊ちゃんは違うんだろ? ――坊主、そんなに慌てて大人になろうとするな。お前くらいの年齢にはなぁ、その年齢でなきゃできないことや、味わえないことが山ほどあるんだぞ」
 呆れたように笑い、ジャックは小さく息を漏らす。
「だけど、お前たちがそうやって変わらずに一緒にいてくれて、ほっとしたよ。――お前ら、いいコンビだ。片方だけってのは、見ている方も寂しくっていけねえや」

 ジャックは目を瞑り、また深く息を漏らした。

「そろそろ、俺のところにも婆さんが迎えに来る頃だ。なぁ、もう行ってもいいだろ?」

 ジャックの瞳は、吉野の背後のアレンを見ていた。アレンは目を見開いて、応えようと唇を開いた。が、声が出ない。心を落ち着けるために、アレンはぎゅっと目を瞑ると、すうっと大きく息を吸い込んで一瞬息を止め、ゆっくりと吐きだした。
 そして彼は、美しい微笑を浮かべて、おもむろにジャックの枕元に跪いた。ジャックが彼に手を伸ばす。その手をアレンは優しく握りしめた。

「ええ。神の御心のままに」

 ジャックは満足げな笑みを、その皺だらけの顔一杯に刻んだ。

「坊主、コーヒーを飲んでいけ。アンが淹れてくれる。フランク直伝のコーヒーの挿れ方は、ちゃんとアンが受け継いでくれている。だから、心配するんじゃないぞ」




 居間にお茶の用意ができたから、と呼びにきたアンに続いて部屋を後にすると、そこには、遅れて到着したヘンリーがすでにくつろいでいた。兄の姿を目にしたとたんに、アレンの緊張した表情からふっと強張りが消えていた。

 吉野たちと入れ替わりでジャックの部屋へ向かったヘンリーの背を見送り、吉野はふぅ、とため息をつく。

「お前、すごいな――」
 目を細めた吉野は、アレンを眺めて何とも言えない笑みを漏らしている。
「俺は下手な励まししかできやしないのに、お前はちゃんと向き合って、ジャックの心を軽くしてやって、見送ることができるんだな」
「そんなんじゃ――」
 アレンは力なく首を振り、瞼を伏せた。



 ティーテーブルに置かれたコーヒーに手をつけることもなく、込みあげてくる想いを噛み締めるように目を瞑っていた吉野は、ふっと戸口に目をやると立ちあがり、ドアを開けた。同じくアレンも、跳ねるように立ち上がっていた。

「Tristesse――」

 開け放たれた戸口から、より明瞭にヴァイオリンの調べが流れてくる。

「Farewell。永遠に――」


 ぽつりと呟やかれたその一言で、アレンもついに、嗚咽をこらえることができなくなってしまったのだった。







***

Tristesse(悲しみ) … ショパン作曲「別れの曲」。 Farewell(別離)とも呼ばれる。
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