胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

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 麗らかな陽射しに映える薄紅色の影に面を向け、アレンは風に嬲られるまま佇んでいる。

 じきに吉野が帰ってくる。こうしている間にも、到着しているかもしれない。
 アレンはあの場に居た堪れなくて、逃げだしてしまったのだ。自分が、飛鳥と彼の久しぶりの兄弟水入らずの邂逅を、邪魔してしまいそうな気がして――。

 覆い被さるように伸びた梢に、満開の花を咲かせる樹木にもたれ、深く息をつく。いつまでも変われない自分が嫌で、嫌で仕方がなかった。日々の雑事に忙殺され、まともに考える時間もないまま、無為に日々をすごしているだけだなんて。

 僕はまだ、なにも見つけていない――。

 本当にやりたいことも、為すべきことも判らないまま。
 兄や飛鳥はもちろんのこと、フレデリックやクリスにしても、迷いなく自分の進むべき道を邁進しているというのに。

 自分だけがいつも一人で、道標となる吉野の背中を探している。吉野がこの手を引いてくれることを、心のどこかで願っている。いまだにあのクノッソスの迷宮に迷いこんだままなのだ。出口を見つけられないまま。吉野の握ってくれた手を放せないまま……。

 こんな情けない自分を、吉野に見せることが嫌だった。彼に逢うことが怖かった。



 そんな薄紅色の迷いの中、かすかに近づいてくる足音に、心がどきりと跳ねあがる。


「お前、何やってんだ? こんなところで」

 背後からかけられた懐かしい声に涙が溢れでてきそうで、アレンは、ぎゅっと目を瞑って歯を食い縛る。

「――お帰りなさい」
「ただいま」

 さくり、と下生えを踏みしめる吉野の足音。やっと絞りだした震える声に、被さる明るい声。細い幹を挟んだ背中合わせに吉野の腕が、強張った彼の腕にかすかにあたる。

「怒ってる?」
「なんで?」
「ずっと放ったらかしにしてたから」
「そんなこと――、」

 僕に文句を言える訳がないじゃないか。きみは僕のものじゃないのに……。

「ごめんな。代わりにお前の我が儘、聞いてやるよ」
「――きみの淹れたコーヒーが飲みたい」
「いいよ。他には? 何でも食いたいもの言えよ」

 ふっと力を抜いて、アレンは視界に広がる薄紅を見上げる。

「桜のスコーン」
「俺にゲロ甘な菓子を作れってか」
「きみの考えたメニューじゃないか」
「お前、意地悪くなったな」

 吉野がクスクスと笑っている。幹のこちら側では、必死で涙を堪えているというのに。

「スコーンはジャックの店に食いに行こう。一緒にな」
「そんな暇なんてないくせに」

 嘘つきの吉野。

「お前のイースター休暇中はいるよ。Aレベルの試験勉強、見てやるよ。その為に帰ってきたんだ」

 嘘だ。

「ほら、ぼさっとしてないで来いよ。皆、待ってる」

 吉野の指が触れる。掌を包み込むように握りしめる。

「相変わらず泣き虫で淋しがりだな、お前は。――泣くなよ。ここには、いるじゃないか。お前の家族がさ」

 くしゃりと優しく髪を撫でられて、かき抱かれた。そうなるともう、嗚咽を止めることなんてできない。

「僕は、いつまで経っても異邦人だよ――」
「馬鹿だな。お前はヘンリーの弟じゃないか。俺や飛鳥の方がよほどよそ者の居候だよ」

 アレンが落ち着くまでずっと、吉野は彼を抱きしめて優しく髪を撫でていた。小さな子どもをなだめるように――。視線は、幾重にも重なりあい、どこまでも続く花霞に漂わせながら。

「桜、ずいぶんたくさん植えたんだな」

 呟いた吉野に、アレンはやっと面をあげた。滲んだ視界に映る日に焼けた顔。懐かしい、静かな鳶色の瞳は変わらぬまま。目を細めて笑う癖も以前と同じ。脳裏に焼きついている吉野よりも、もっと大人びて、どこか殺伐として、それでいてずっと温かくて優しい吉野の顔がそこにある。

「きみと、アスカさんが淋しくないようにって、兄が」
「そうか。ヘンリーらしいな」

 突風に薄紅色が舞い踊る。

 アレンはふっと風を追い、空を仰いだ吉野の髪についた花びらを落とし、そのまま頬に指先を移してそっと触れた。


 離れていた時間だけ、想いは降り積もる。この仄かな色をのせた花びらが、風に散らされ、ふわりと舞い、漂い、迷いながらも、いつかは地面に落ちるように。心の奥底はいつの間にか、薄紅色に染まっていくのだ。ソメイヨシノの花の色に……。


「きみの笑顔、久しぶりだ。もう完全に治ったんだね」

 赤い月のような傷痕はそのままだけど。



 吉野は頬に触れたその手を取って、その甲に唇を押しあてた。

「ただいま、俺の王さま」

 にっと笑んだその口許はどこか不敵で、あまりに吉野らしくて、アレンは笑いだしながら、「本物の王子さまは? サウードは元気?」と、吉野の冗談を振り払うように首を横に振った。

「元気だよ。そっちは? フレッドやクリスにも会いたいな、久しぶりに」
「どうせきみのことだから、誰にも連絡していないんでしょ。皆、驚くよ。そうそう学校でね……、」

 懐かしいその笑みに一気に時を巻き戻され、アレンは堰を切ったように喋り始めていた。





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