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八章
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「やっぱり駄目だな、気にいらない」
コンサバトリーの何もない空間を睨みつけて、飛鳥はそんなことを呟いているのだ。理由の判らないアレンは、不思議そうに彼を眺めて訊ねた。
「アスカさんには、見えているんですか、その、完成図が?」
「イメージができあがってる時もあるんだけどね……」
深くため息をつくと、飛鳥は胡座をかいていた足を崩してそのままごろりと床に転がる。
「ヨシノはアスカさんのことを、何もない空間から魔法の様に美しい世界を紡ぎだす、って言っていました。僕もそう思います」
「ありがとう。でも、そんな大したものじゃないよ、僕は。あいつみたいには、先の先まで見渡せないよ」
コンサバトリーのガラス天井の向こうに広がる蒼穹と、そこに棚引く雲を眺めながら飛鳥は目を細め、アレンにというよりも、自分自身に言い聞かせているように、淡々と言葉を継いだ。
「あいつはさ、水の流れを追うように世界を見ているだろ? どこでどう触れば、流れが変わるか判ってるんだ。その時が来るまで、じっと待ってる。辛抱強くね。普段は短絡的な馬鹿のくせにさ」
顎が反らされ、ぼんやりと空を追っていた双眸が、くいっとアレンに向けられる。飛鳥はにっこりと笑っている。
「学校はどう? あいつがいない方が平和だろ?」
アレンは、飛鳥の表情の変化に内心戸惑いながらも、くすっと笑みを返して首を横に振る。
「寂しいなんて言っていられないほど忙しくて。勉強もだけれど、監督生の執行部が本当に大変で――、それに後輩の育成も。アーサー、ハロルド先輩の弟が、」
そこまで言いかけて、アレンはあっ、と息を呑んで止めた。
飛鳥には分からないエリオットの後輩の話なんて――。
これだから自分は駄目なのだ、とアレンはきゅっと唇を引き結ぶ。だが、そんな彼の内心の葛藤を知ってか知らずか、飛鳥は嬉しそうに声を高めて彼の話を継いでいた。
「知っているよ。ベンジャミンの弟さんだろ? 二学年下だっけ? 吉野は何でも話してくれてたからさ、エリオットの子たち、たくさん知っているよ。さすがに顔までは判らないけどね。でも、ベンジャミンには会ったこともあるんだ。オックスフォードにいった子だろ? クリケットの試合でケンブリッジに来たときにさ、ヘンリーに紹介してもらったんだ」
「彼は僕たちの寮の寮長をされていたんです。今でも創立祭には毎年来て下さっています。アスカさんも、今年こそはいらして下さいね」
思いがけない共通の話題に、アレンは嬉しそうに顔をほころばした。飛鳥は身体を起こして力強く頷く。
「僕もやっと卒業できたしね。ちょうど学年末試験にひっかかったり、教授に何か頼まれたりで、毎年行かれなかったもんなぁ」
ああ、それは吉野が、飛鳥が来ることを嫌がったからだ――、という事実をアレンは知っていたけれど、さすがに飛鳥に告げることはできなかった。彼の兄もグルになって、わざとその日に特別な用事を入れて行けなくなるように画策していたなんて、口が裂けても言える訳がないのだ。吉野にしても、よく四年間も飛鳥を騙し抜いたものだ、と別な意味で感心してしまう。
アレンは曖昧に微笑んで、困ったように目を伏せるしかない。
「あいつも来ればいいね、殿下と一緒に。君たちの最後の年なんだしさ」
一瞬、びくりと強張ったアレンは、すぐにすっと息を吸いこむと、自分自身を引き立たせるように口角をあげる。
「僕もボートの儀式に出るんです。クリスも。うちの寮はボート部の子が少なくて。儀式は寮ごとだし、仕方なく、なんですけどね」
「へえー! すごいじゃないか! それはぜひ見にいかないとね!」
にっこりと微笑んだと思うと、飛鳥は、またぱたんと寝転がって空を見上げていた。
「時が経つのは早いなぁ――。僕はまだ、何も成せていない」
IT技術の最先端を走り、今やこの業界でカリスマと崇められている飛鳥の思いがけない言葉に、アレンは目を瞠って言葉を失った。そうして何も言えないまま戸惑っている彼に、飛鳥はまたもや唐突に話題を振りだすのだ。
「きみの好きな御伽噺は何?」
「え?」
「童話でもいい。幼い頃を思いだす郷愁をかき立てられる何かって、ない?」
ぼんやりと宙を見つめたまま、アレンは問われた質問に小首を傾げて考えこむ。やがて、「トム・ソーヤかなぁ……」と、ぽつりと呟いた。
「洞窟の場面がすごく怖いけれど、同時にすごく神秘的で、それに――、」
腕白小僧のトムはどこか吉野を思いださせる……。
そのアレンの心を読んだように、飛鳥はにかっと笑った。
「ああ、綺麗だ」
「え?」
「吉野が繋いでくれた」
え?
目を瞑ったまま微笑んでいる飛鳥を、アレンは大いに驚きをもって見つめていた。
まるで会話が繋がらない……。
この人の頭の中はどんな構造になっているのだろう? 不可解で不可思議で、アレンにはまるで解らなかった。いつもの穏やかで優しい、理論整然とした飛鳥とはまるで違う、別人のようなのだ。目前の、自分の存在すらまるで目に入っていないような今の飛鳥に唖然として、アレンは返す言葉も思いつかないまま黙りこんでいるしかない。
「洞窟の資料を集めるから、ラフ画を描いてくれる?」
起きあがった飛鳥の鳶色の瞳に、強い輝きを宿して歩み続ける吉野のそれが重なる。
アレンは刹那、強く奥歯を噛みしめる。
何も成せていないのは、僕だけ――。
疼く胸の内を抑え込み、呼吸を整えるように息を大きく吸い込むと、アレンは笑顔に変えて頷いた。
コンサバトリーの何もない空間を睨みつけて、飛鳥はそんなことを呟いているのだ。理由の判らないアレンは、不思議そうに彼を眺めて訊ねた。
「アスカさんには、見えているんですか、その、完成図が?」
「イメージができあがってる時もあるんだけどね……」
深くため息をつくと、飛鳥は胡座をかいていた足を崩してそのままごろりと床に転がる。
「ヨシノはアスカさんのことを、何もない空間から魔法の様に美しい世界を紡ぎだす、って言っていました。僕もそう思います」
「ありがとう。でも、そんな大したものじゃないよ、僕は。あいつみたいには、先の先まで見渡せないよ」
コンサバトリーのガラス天井の向こうに広がる蒼穹と、そこに棚引く雲を眺めながら飛鳥は目を細め、アレンにというよりも、自分自身に言い聞かせているように、淡々と言葉を継いだ。
「あいつはさ、水の流れを追うように世界を見ているだろ? どこでどう触れば、流れが変わるか判ってるんだ。その時が来るまで、じっと待ってる。辛抱強くね。普段は短絡的な馬鹿のくせにさ」
顎が反らされ、ぼんやりと空を追っていた双眸が、くいっとアレンに向けられる。飛鳥はにっこりと笑っている。
「学校はどう? あいつがいない方が平和だろ?」
アレンは、飛鳥の表情の変化に内心戸惑いながらも、くすっと笑みを返して首を横に振る。
「寂しいなんて言っていられないほど忙しくて。勉強もだけれど、監督生の執行部が本当に大変で――、それに後輩の育成も。アーサー、ハロルド先輩の弟が、」
そこまで言いかけて、アレンはあっ、と息を呑んで止めた。
飛鳥には分からないエリオットの後輩の話なんて――。
これだから自分は駄目なのだ、とアレンはきゅっと唇を引き結ぶ。だが、そんな彼の内心の葛藤を知ってか知らずか、飛鳥は嬉しそうに声を高めて彼の話を継いでいた。
「知っているよ。ベンジャミンの弟さんだろ? 二学年下だっけ? 吉野は何でも話してくれてたからさ、エリオットの子たち、たくさん知っているよ。さすがに顔までは判らないけどね。でも、ベンジャミンには会ったこともあるんだ。オックスフォードにいった子だろ? クリケットの試合でケンブリッジに来たときにさ、ヘンリーに紹介してもらったんだ」
「彼は僕たちの寮の寮長をされていたんです。今でも創立祭には毎年来て下さっています。アスカさんも、今年こそはいらして下さいね」
思いがけない共通の話題に、アレンは嬉しそうに顔をほころばした。飛鳥は身体を起こして力強く頷く。
「僕もやっと卒業できたしね。ちょうど学年末試験にひっかかったり、教授に何か頼まれたりで、毎年行かれなかったもんなぁ」
ああ、それは吉野が、飛鳥が来ることを嫌がったからだ――、という事実をアレンは知っていたけれど、さすがに飛鳥に告げることはできなかった。彼の兄もグルになって、わざとその日に特別な用事を入れて行けなくなるように画策していたなんて、口が裂けても言える訳がないのだ。吉野にしても、よく四年間も飛鳥を騙し抜いたものだ、と別な意味で感心してしまう。
アレンは曖昧に微笑んで、困ったように目を伏せるしかない。
「あいつも来ればいいね、殿下と一緒に。君たちの最後の年なんだしさ」
一瞬、びくりと強張ったアレンは、すぐにすっと息を吸いこむと、自分自身を引き立たせるように口角をあげる。
「僕もボートの儀式に出るんです。クリスも。うちの寮はボート部の子が少なくて。儀式は寮ごとだし、仕方なく、なんですけどね」
「へえー! すごいじゃないか! それはぜひ見にいかないとね!」
にっこりと微笑んだと思うと、飛鳥は、またぱたんと寝転がって空を見上げていた。
「時が経つのは早いなぁ――。僕はまだ、何も成せていない」
IT技術の最先端を走り、今やこの業界でカリスマと崇められている飛鳥の思いがけない言葉に、アレンは目を瞠って言葉を失った。そうして何も言えないまま戸惑っている彼に、飛鳥はまたもや唐突に話題を振りだすのだ。
「きみの好きな御伽噺は何?」
「え?」
「童話でもいい。幼い頃を思いだす郷愁をかき立てられる何かって、ない?」
ぼんやりと宙を見つめたまま、アレンは問われた質問に小首を傾げて考えこむ。やがて、「トム・ソーヤかなぁ……」と、ぽつりと呟いた。
「洞窟の場面がすごく怖いけれど、同時にすごく神秘的で、それに――、」
腕白小僧のトムはどこか吉野を思いださせる……。
そのアレンの心を読んだように、飛鳥はにかっと笑った。
「ああ、綺麗だ」
「え?」
「吉野が繋いでくれた」
え?
目を瞑ったまま微笑んでいる飛鳥を、アレンは大いに驚きをもって見つめていた。
まるで会話が繋がらない……。
この人の頭の中はどんな構造になっているのだろう? 不可解で不可思議で、アレンにはまるで解らなかった。いつもの穏やかで優しい、理論整然とした飛鳥とはまるで違う、別人のようなのだ。目前の、自分の存在すらまるで目に入っていないような今の飛鳥に唖然として、アレンは返す言葉も思いつかないまま黙りこんでいるしかない。
「洞窟の資料を集めるから、ラフ画を描いてくれる?」
起きあがった飛鳥の鳶色の瞳に、強い輝きを宿して歩み続ける吉野のそれが重なる。
アレンは刹那、強く奥歯を噛みしめる。
何も成せていないのは、僕だけ――。
疼く胸の内を抑え込み、呼吸を整えるように息を大きく吸い込むと、アレンは笑顔に変えて頷いた。
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