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八章
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「アスカさん、」
コンサバトリーのドアが開き、おそるおそるアレンが顔を覗かせた。夕暮れ色の空間に座りこんでいる飛鳥は振り返り、にっこりと迎える。
「その顔は、見つけたね」
「教えて下さればよかったのに」
アレンは後ろ手に組んだまま、唇を尖らせている。
「きみなら絶対、気づくと思ったもの」
飛鳥は目を細め、ふふっと悪戯っ子のように笑った。
ロンドンの本店舗全体を覆う朝焼けの薄紫が蒼と混じり合いセレストブルーに変わる時、アレンは、天井を覆う金赤色の町並みの小高い丘にある城壁に腰かけた、白いサウブを着た小さな人影が、にっと笑っているのを見つけた。
黄金の街を、まるで迷子にでもなったかのように彷徨うアレンを、鳶色の瞳で見下ろして――。いや、鏡写しだから、空を見上げて、か。
ヨシノ!
アレンが思わず声をあげると、その人影は、緩やかに白を翻して壁の向こうに消えてしまった。
「僕やデヴィが作ったんじゃないからね」
茜色に染まる飛鳥が、傍らのトレーからティーカップにお茶を注ぐ。
アレンは、そろそろと覚束無い足取りで夕暮れの空に踏みだす。飛鳥までのわずかな距離をそろそろとたどり、ほっと息をついて腰をおろと、アレンはソーサーごとカップを受け取り、まずは口許に運ぶ。
「それなら――」
一口喉を潤してから、アレンは慎重に飛鳥を仰ぎ見た。あの映像を作れる人は限られているのだ。期待を口に出してしまうと裏切られたときの失望に打ちのめされてしまいそうで、自分の口からは出せなかった。
「店舗での最終点検をしているときに気がついてね、びっくりしたよ。あいつ、よほどきみのことが気にかかるんだね」
飛鳥の無邪気な笑顔に、アレンも柔らかな笑みを返す。
「あいつ、今、あの街にいるんだ。店舗には入りきらなかったけど、あの城壁の向こうに温室が立ち並んでいて、そのもっと向こうには海が広がっているんだ。――紛争地域に近いから、主要な政府機関の建造物はすべて省いて、町並みもいじってはいるんだけどね」
「夢の中で逢えた。そんな気分でした」
吉野のいる街を自分が歩いている。不思議そうにきょろきょろと辺りを見回しながら――。彼は高台から微笑んで、自分を見守ってくれている。こっそりと逢いに行った自分を、目敏く見つけてくすくす笑っている。
アレンは、そんな夢を見ている、と思ったのだ。
嬉しかった。
吉野のいる場所へ連れていってくれた飛鳥さん。すぐに気づいてくれた吉野。
いつだって、こんなにも傍にいてくれている……。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは僕の方だよ」
飛鳥は少し物憂げな微笑を浮かべて、専用端末のキーボードを叩いて映像を止めた。天井から茜色が蕩けて流れだす。徐々に薄くなり完全に色彩が消えたあとの白枠で区切られたガラスの向こうには、館から漏れる灯りにほのかに照らされた薄闇に沈む芝生が広がる。
「やっぱり駄目だね、夕暮れは。どうしても感傷的な気分になってしまって。さぁ、もう夕飯の時間だよ。明日にはきみも学校へ戻ってしまうし、また寂しくなるな」
「兄はいつ戻るんでしょう?」
「ラスベガスの見本市が済んだら、かな。――いや、どうだろう? 今月中には、かなぁ」
ティーセットののったトレイを手に、コンサバトリーを後にしながら、飛鳥は何か気がかりでもあるように、ちらと室内を振り返っていた。
「サラ、どう思う?」
夕食後、居間の暖炉の炎がパチパチと爆ぜる様子をぼんやりと眺めながら、飛鳥は鬱屈とした様子で呟いていた。
「何かものたりないんだ。ヘンリーは、あれでいいって言ってくれたんだけどね――」
TS画面を立ちあげ、店舗内の様子をじっと見つめているサラを、暖炉の炎が照らしている。小首を傾げている彼女のライムグリーンの瞳を、いつも以上に煌めかせて。
「判らない。何が違和感?」
「うーん、説明するのは難しい。しっくりこないっていうか。吉野なら、何か言いそうな気がするんだ。――そんな違和感」
「じゃあ、ヨシノに訊けばいい」
真っ直ぐに向けられたサラの瞳に、飛鳥は苦笑して首を振る。
「その通りなんだけどね……」
吉野がいないと自分の中の違和感を消化できない、そんな自分が嫌なのだ、などと、サラに正直に言えるはずがない。
こんなふうに、納得しきれないものを発表していること自体が嫌なのだ。
吉野依存がいつまでたっても抜けきらない。メールでも電話でも、すれば応えてくれるだろう。そうやって、いつまでも甘えてしまいそうな自分が嫌なのだ。
そんな苛立ちを、つい口に出してしまうことからして、甘えだ。
そんな堂々巡りから抜けだせずにいる飛鳥の口からは、深いため息がつい漏れる。
飛鳥は、柔らかな暖炉の炎に照らされたサラの横顔をぼんやりと眺めていた。明るい翠に炎が映り揺らめいている。艶やかな黒髪はいつも固く編まれたままだ。
この長い髪を解いたら、きっと川の流れのようにさらさらと――。
「ああ、解ったよ、サラ」
飛鳥はいきなり大きく目を瞠り、呟いた。
「水だ」
ぽかんとしているサラに、飛鳥は嬉しそうな笑みを見せながら、TSの画面に指で図面を引いていく。
「あの場所はもともとオアシスだったんだ。それなのに水が枯れてしまって、昔とは違う。廃墟に成り果てた遺跡を、吉野たちが再生しているんだ」
飛鳥の指先をサラはじっと見つめている。
「水を湛えて、都市を生き返らせなくちゃ」
「アスカ、」
サラは、飛鳥に向き直り真面目な顔で告げた。
「言いたいことは解るのだけど、あなたの絵は抽象的すぎてまったく理解できないの。アレンがここにいるうちに、下絵を起こしてもらってはどう?」
飛鳥は一瞬黙りこみ、苦笑いして頷いた。
コンサバトリーのドアが開き、おそるおそるアレンが顔を覗かせた。夕暮れ色の空間に座りこんでいる飛鳥は振り返り、にっこりと迎える。
「その顔は、見つけたね」
「教えて下さればよかったのに」
アレンは後ろ手に組んだまま、唇を尖らせている。
「きみなら絶対、気づくと思ったもの」
飛鳥は目を細め、ふふっと悪戯っ子のように笑った。
ロンドンの本店舗全体を覆う朝焼けの薄紫が蒼と混じり合いセレストブルーに変わる時、アレンは、天井を覆う金赤色の町並みの小高い丘にある城壁に腰かけた、白いサウブを着た小さな人影が、にっと笑っているのを見つけた。
黄金の街を、まるで迷子にでもなったかのように彷徨うアレンを、鳶色の瞳で見下ろして――。いや、鏡写しだから、空を見上げて、か。
ヨシノ!
アレンが思わず声をあげると、その人影は、緩やかに白を翻して壁の向こうに消えてしまった。
「僕やデヴィが作ったんじゃないからね」
茜色に染まる飛鳥が、傍らのトレーからティーカップにお茶を注ぐ。
アレンは、そろそろと覚束無い足取りで夕暮れの空に踏みだす。飛鳥までのわずかな距離をそろそろとたどり、ほっと息をついて腰をおろと、アレンはソーサーごとカップを受け取り、まずは口許に運ぶ。
「それなら――」
一口喉を潤してから、アレンは慎重に飛鳥を仰ぎ見た。あの映像を作れる人は限られているのだ。期待を口に出してしまうと裏切られたときの失望に打ちのめされてしまいそうで、自分の口からは出せなかった。
「店舗での最終点検をしているときに気がついてね、びっくりしたよ。あいつ、よほどきみのことが気にかかるんだね」
飛鳥の無邪気な笑顔に、アレンも柔らかな笑みを返す。
「あいつ、今、あの街にいるんだ。店舗には入りきらなかったけど、あの城壁の向こうに温室が立ち並んでいて、そのもっと向こうには海が広がっているんだ。――紛争地域に近いから、主要な政府機関の建造物はすべて省いて、町並みもいじってはいるんだけどね」
「夢の中で逢えた。そんな気分でした」
吉野のいる街を自分が歩いている。不思議そうにきょろきょろと辺りを見回しながら――。彼は高台から微笑んで、自分を見守ってくれている。こっそりと逢いに行った自分を、目敏く見つけてくすくす笑っている。
アレンは、そんな夢を見ている、と思ったのだ。
嬉しかった。
吉野のいる場所へ連れていってくれた飛鳥さん。すぐに気づいてくれた吉野。
いつだって、こんなにも傍にいてくれている……。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは僕の方だよ」
飛鳥は少し物憂げな微笑を浮かべて、専用端末のキーボードを叩いて映像を止めた。天井から茜色が蕩けて流れだす。徐々に薄くなり完全に色彩が消えたあとの白枠で区切られたガラスの向こうには、館から漏れる灯りにほのかに照らされた薄闇に沈む芝生が広がる。
「やっぱり駄目だね、夕暮れは。どうしても感傷的な気分になってしまって。さぁ、もう夕飯の時間だよ。明日にはきみも学校へ戻ってしまうし、また寂しくなるな」
「兄はいつ戻るんでしょう?」
「ラスベガスの見本市が済んだら、かな。――いや、どうだろう? 今月中には、かなぁ」
ティーセットののったトレイを手に、コンサバトリーを後にしながら、飛鳥は何か気がかりでもあるように、ちらと室内を振り返っていた。
「サラ、どう思う?」
夕食後、居間の暖炉の炎がパチパチと爆ぜる様子をぼんやりと眺めながら、飛鳥は鬱屈とした様子で呟いていた。
「何かものたりないんだ。ヘンリーは、あれでいいって言ってくれたんだけどね――」
TS画面を立ちあげ、店舗内の様子をじっと見つめているサラを、暖炉の炎が照らしている。小首を傾げている彼女のライムグリーンの瞳を、いつも以上に煌めかせて。
「判らない。何が違和感?」
「うーん、説明するのは難しい。しっくりこないっていうか。吉野なら、何か言いそうな気がするんだ。――そんな違和感」
「じゃあ、ヨシノに訊けばいい」
真っ直ぐに向けられたサラの瞳に、飛鳥は苦笑して首を振る。
「その通りなんだけどね……」
吉野がいないと自分の中の違和感を消化できない、そんな自分が嫌なのだ、などと、サラに正直に言えるはずがない。
こんなふうに、納得しきれないものを発表していること自体が嫌なのだ。
吉野依存がいつまでたっても抜けきらない。メールでも電話でも、すれば応えてくれるだろう。そうやって、いつまでも甘えてしまいそうな自分が嫌なのだ。
そんな苛立ちを、つい口に出してしまうことからして、甘えだ。
そんな堂々巡りから抜けだせずにいる飛鳥の口からは、深いため息がつい漏れる。
飛鳥は、柔らかな暖炉の炎に照らされたサラの横顔をぼんやりと眺めていた。明るい翠に炎が映り揺らめいている。艶やかな黒髪はいつも固く編まれたままだ。
この長い髪を解いたら、きっと川の流れのようにさらさらと――。
「ああ、解ったよ、サラ」
飛鳥はいきなり大きく目を瞠り、呟いた。
「水だ」
ぽかんとしているサラに、飛鳥は嬉しそうな笑みを見せながら、TSの画面に指で図面を引いていく。
「あの場所はもともとオアシスだったんだ。それなのに水が枯れてしまって、昔とは違う。廃墟に成り果てた遺跡を、吉野たちが再生しているんだ」
飛鳥の指先をサラはじっと見つめている。
「水を湛えて、都市を生き返らせなくちゃ」
「アスカ、」
サラは、飛鳥に向き直り真面目な顔で告げた。
「言いたいことは解るのだけど、あなたの絵は抽象的すぎてまったく理解できないの。アレンがここにいるうちに、下絵を起こしてもらってはどう?」
飛鳥は一瞬黙りこみ、苦笑いして頷いた。
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