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七章
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「お帰り、吉野」
玄関先でそれだけ言って、感慨深そうにまじまじと見つめている飛鳥の頭をぽんと叩いて、吉野は首を傾げてにっと笑った。
「ただいま」
「お前、でかくなったよなぁ」
「飛鳥が小さいままなんだよ。ちゃんと食ってんのか?」などと軽愚痴を叩き、吉野は廊下に荷物を放りだしたままキッチンに向かう。
「メアリー、今日の夕飯は俺が作る。日本食が食いたいんだ」
「はいはい、かまいませんよ」
吉野が久しぶりに帰ってくるとなると、きっとそう言うだろうと、メアリーは当に予測して笑って話していたのだ。ほらね、と飛鳥と視線を交えて目配せしている。
「人数は?」
「皆さん、今日はお揃いだって聞いていますよ」
「アレンは?」
一緒じゃないんだ、と飛鳥が吉野を見やると、弟はもうお湯を沸かしたり、持って帰ってきた袋から野菜を取りだしたりと、きびきびと動き回っている。帰ってきたばかりだというのに!
「あいつはロンドンに寄るから遅くなるってさ。でも、飯には間にあうように帰る、って言ってたよ」
「今日のご飯は何?」
広い作業テーブルの端っこに、調理の邪魔にならないように椅子をずらせて座り、飛鳥は淹れてもらったコーヒーをのんびりと味わっている。
「学校で育てた茄子で煮浸し。胡瓜の酢の物。トマトサラダ。飛鳥、ほかに何か食いたいものあるか?」
「肉じゃがとだし巻き卵かな」
「あと、味噌汁とすまし汁どっちがいい?」
「すまし汁かなぁ、暑いし」
「暑い? 家から出ないくせに」
「サラと一緒に、毎日、薔薇の世話を手伝ってるんだよ。ほら、焼けただろ? お前ほどじゃないけれどさ」
飛鳥は折りあげている袖を、さらに捲くりあげて見せた。吉野は包丁を手にしていた手を止めて、くすりと笑った。
「なんとなくな。まぁ、確かに前より健康的にはなったよ」
薬の後遺症も癒えて、この一年の飛鳥はすっかり落ち着いている。大学も優秀な成績で卒業した。本来のアーカシャーHDの仕事と、吉野の依頼した温室ガラスの設計で忙殺され、今年はメイボールどころではなかったが――。精神的にもずっと余裕がみえる飛鳥を眺めて、吉野は嬉しそうに目を細めている。
「ほら、肉じゃが食いたいなら、じゃが芋の皮剥きくらい手伝えよ」
「アスカ! どこ?」
サラが呼んでいる。
「こっちだよ。キッチン」
飛鳥の返事のすぐ後にサラの顔が覗く。
「なに?」
「これ」
差しだされた書類に、飛鳥はちらと目をやった。
「サラ、悪いけどこれを読む間、じゃが芋の皮剥き、代わってくれる?」
飛鳥は立ちあがって、自分が座っていた椅子を彼女に譲る。視線はもう書類の上を走っている。サラはちょこんと椅子に腰掛け、ピーラーを手に取った。
「ヨシノ、お帰り!」
デヴィッドも、帰ってくるなりまずキッチンに顔をだした。
「今日のご飯は何? 僕のリクエストはぁ、」
「だし巻き玉子だろ? もうメニューに入ってるよ」
「それから?」
「肉じゃが」
「人参の飾り切りしてあげよっか?」
「――まぁ、助かる」
以前アルバートと一緒にデヴィッドが日本で作ってくれた、薔薇の形の人参が入っている肉じゃがを思いだし、吉野は飛鳥とちらと顔を見合わせて苦笑いを漏らしている。
「遅くなってごめんなさい。ヨシノ、僕に手伝えることはあるかな?」
キッチンに集まっている皆を見て、アレンは慌てて上着を脱いで袖を捲る。吉野が作る日は、アレンも手伝うのが常なのだ。
「ああ、いい匂いがしているね。お帰り、ヨシノ」
「もうすぐ食べられるの?」
ヘンリーとアーネストも帰ってきた。
「もう、できるよ。ダイニングで待ってて」
久しぶりの皆が揃っての食卓だ。
この長い夏期休暇中、吉野はまた、明日にもサウードの国へ旅立つ。
次はいつになるか判らない、しばらくは食べられなくなる吉野の手料理を、皆、思う存分味わった。
翌日、ヒースロー空港の搭乗ゲート前で、アレンはふと思いだしたように吉野に微笑みかけた。
「僕たちが初めて出逢ったのはね、ここなんだよ」
え? と吉野は怪訝な顔をしている。自分の記憶に残らない事なんてあるのか、とでもいうふうに。
「といっても、きみは知らないけれどね」
アレンは悪戯っぽく、ふふっと笑った。
エンジントラブルだったか、天候のせいだったか、理由はもうアレン本人にも思いだせない。とにかく自分の乗った飛行機の到着が遅れたのだ。深夜になり明かりの落ちた暗いロビーで彼の兄の姿を見かけた時、アレンは泣きだしそうに嬉しかった。
けれど彼は、心細げに佇んでいた弟に気づくことなく通りすぎた。そして、彼の弟が見たこともない子の前で立ち止まり、微笑みかけていたのだ。
「あの日、きみは僕にとって特別な存在になったんだ。入寮の日にきみに再会して、すぐにあの時の子だって解ったよ。ヨシノ、ごめん。カレッジ・ホールの入寮儀式の時、きみの前で僕は耐えられないほど惨めだったんだ。思い返すたびに赤面してしまうほど、酷い態度を取ってしまったね」
「――もう何年も前のことじゃないか」
口籠りながら呟いた吉野に、アレンは今にも崩れそうな口許を強く引きあげて笑みを作った。
「謝っておきたかったんだ。それから、ありがとう、ヨシノ。あんな僕をずっと見守ってくれて」
「あんな、なんて言うなよ」
「――帰ってくるよね?」
アレンは伏せていた瞼をくっと持ちあげる。
「当たり前だろ」
吉野はいつものようににっと笑った。鼻の頭に皺をよせて。
「来なかったら――、僕はきっと、きみを追いかけていくよ」
アレンの声は、徐々に掠れて囁くようだった。
「馬鹿なこと言ってるよ」
吉野はそんな彼を目を細めて笑って見つめていた。
「じゃあ、もう行くよ」
人混みに紛れていくその背中に、これまで感じたことがないほど胸が締めつけられ、アレンは堪らず声をあげる。
「ヨシノ!」
縋りつく悲鳴のようなその声に、吉野はもう一度振り返る。そして普段と変わりなくにっと笑って、軽く手を振った。
玄関先でそれだけ言って、感慨深そうにまじまじと見つめている飛鳥の頭をぽんと叩いて、吉野は首を傾げてにっと笑った。
「ただいま」
「お前、でかくなったよなぁ」
「飛鳥が小さいままなんだよ。ちゃんと食ってんのか?」などと軽愚痴を叩き、吉野は廊下に荷物を放りだしたままキッチンに向かう。
「メアリー、今日の夕飯は俺が作る。日本食が食いたいんだ」
「はいはい、かまいませんよ」
吉野が久しぶりに帰ってくるとなると、きっとそう言うだろうと、メアリーは当に予測して笑って話していたのだ。ほらね、と飛鳥と視線を交えて目配せしている。
「人数は?」
「皆さん、今日はお揃いだって聞いていますよ」
「アレンは?」
一緒じゃないんだ、と飛鳥が吉野を見やると、弟はもうお湯を沸かしたり、持って帰ってきた袋から野菜を取りだしたりと、きびきびと動き回っている。帰ってきたばかりだというのに!
「あいつはロンドンに寄るから遅くなるってさ。でも、飯には間にあうように帰る、って言ってたよ」
「今日のご飯は何?」
広い作業テーブルの端っこに、調理の邪魔にならないように椅子をずらせて座り、飛鳥は淹れてもらったコーヒーをのんびりと味わっている。
「学校で育てた茄子で煮浸し。胡瓜の酢の物。トマトサラダ。飛鳥、ほかに何か食いたいものあるか?」
「肉じゃがとだし巻き卵かな」
「あと、味噌汁とすまし汁どっちがいい?」
「すまし汁かなぁ、暑いし」
「暑い? 家から出ないくせに」
「サラと一緒に、毎日、薔薇の世話を手伝ってるんだよ。ほら、焼けただろ? お前ほどじゃないけれどさ」
飛鳥は折りあげている袖を、さらに捲くりあげて見せた。吉野は包丁を手にしていた手を止めて、くすりと笑った。
「なんとなくな。まぁ、確かに前より健康的にはなったよ」
薬の後遺症も癒えて、この一年の飛鳥はすっかり落ち着いている。大学も優秀な成績で卒業した。本来のアーカシャーHDの仕事と、吉野の依頼した温室ガラスの設計で忙殺され、今年はメイボールどころではなかったが――。精神的にもずっと余裕がみえる飛鳥を眺めて、吉野は嬉しそうに目を細めている。
「ほら、肉じゃが食いたいなら、じゃが芋の皮剥きくらい手伝えよ」
「アスカ! どこ?」
サラが呼んでいる。
「こっちだよ。キッチン」
飛鳥の返事のすぐ後にサラの顔が覗く。
「なに?」
「これ」
差しだされた書類に、飛鳥はちらと目をやった。
「サラ、悪いけどこれを読む間、じゃが芋の皮剥き、代わってくれる?」
飛鳥は立ちあがって、自分が座っていた椅子を彼女に譲る。視線はもう書類の上を走っている。サラはちょこんと椅子に腰掛け、ピーラーを手に取った。
「ヨシノ、お帰り!」
デヴィッドも、帰ってくるなりまずキッチンに顔をだした。
「今日のご飯は何? 僕のリクエストはぁ、」
「だし巻き玉子だろ? もうメニューに入ってるよ」
「それから?」
「肉じゃが」
「人参の飾り切りしてあげよっか?」
「――まぁ、助かる」
以前アルバートと一緒にデヴィッドが日本で作ってくれた、薔薇の形の人参が入っている肉じゃがを思いだし、吉野は飛鳥とちらと顔を見合わせて苦笑いを漏らしている。
「遅くなってごめんなさい。ヨシノ、僕に手伝えることはあるかな?」
キッチンに集まっている皆を見て、アレンは慌てて上着を脱いで袖を捲る。吉野が作る日は、アレンも手伝うのが常なのだ。
「ああ、いい匂いがしているね。お帰り、ヨシノ」
「もうすぐ食べられるの?」
ヘンリーとアーネストも帰ってきた。
「もう、できるよ。ダイニングで待ってて」
久しぶりの皆が揃っての食卓だ。
この長い夏期休暇中、吉野はまた、明日にもサウードの国へ旅立つ。
次はいつになるか判らない、しばらくは食べられなくなる吉野の手料理を、皆、思う存分味わった。
翌日、ヒースロー空港の搭乗ゲート前で、アレンはふと思いだしたように吉野に微笑みかけた。
「僕たちが初めて出逢ったのはね、ここなんだよ」
え? と吉野は怪訝な顔をしている。自分の記憶に残らない事なんてあるのか、とでもいうふうに。
「といっても、きみは知らないけれどね」
アレンは悪戯っぽく、ふふっと笑った。
エンジントラブルだったか、天候のせいだったか、理由はもうアレン本人にも思いだせない。とにかく自分の乗った飛行機の到着が遅れたのだ。深夜になり明かりの落ちた暗いロビーで彼の兄の姿を見かけた時、アレンは泣きだしそうに嬉しかった。
けれど彼は、心細げに佇んでいた弟に気づくことなく通りすぎた。そして、彼の弟が見たこともない子の前で立ち止まり、微笑みかけていたのだ。
「あの日、きみは僕にとって特別な存在になったんだ。入寮の日にきみに再会して、すぐにあの時の子だって解ったよ。ヨシノ、ごめん。カレッジ・ホールの入寮儀式の時、きみの前で僕は耐えられないほど惨めだったんだ。思い返すたびに赤面してしまうほど、酷い態度を取ってしまったね」
「――もう何年も前のことじゃないか」
口籠りながら呟いた吉野に、アレンは今にも崩れそうな口許を強く引きあげて笑みを作った。
「謝っておきたかったんだ。それから、ありがとう、ヨシノ。あんな僕をずっと見守ってくれて」
「あんな、なんて言うなよ」
「――帰ってくるよね?」
アレンは伏せていた瞼をくっと持ちあげる。
「当たり前だろ」
吉野はいつものようににっと笑った。鼻の頭に皺をよせて。
「来なかったら――、僕はきっと、きみを追いかけていくよ」
アレンの声は、徐々に掠れて囁くようだった。
「馬鹿なこと言ってるよ」
吉野はそんな彼を目を細めて笑って見つめていた。
「じゃあ、もう行くよ」
人混みに紛れていくその背中に、これまで感じたことがないほど胸が締めつけられ、アレンは堪らず声をあげる。
「ヨシノ!」
縋りつく悲鳴のようなその声に、吉野はもう一度振り返る。そして普段と変わりなくにっと笑って、軽く手を振った。
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