胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
450 / 745
七章

しおりを挟む
 彼らが久しぶりに訪れたジャックのパブは、観光客もぐっと少なくなる冬季だというのに二階まで満席だ。いつもなら貸切にしてもらうところを、テーブルを一つ確保して貰えるだけで手いっぱいのようだった。

「ずいぶん流行っているんだね」

 フレデリックは周囲を見回し、嬉しそうに微笑む。
 吉野と付き合うようになってからというもの、ずっとお世話になってきた店なのだ。それに何度か、彼の代わりに店を手伝ったこともある。亡くなった兄がここでバイトをしていた、と後から聴かされた時には、不思議な縁に目頭が熱くなった。

「今年になってから急にだって、ご主人が言っていたよ」
 クリスが顔を寄せて、内緒話をするように声を落とす。
「ここ、ハラルフードを使っているだろ。イスラム教徒のお客さんが増えているんだって」

 そういえば、二階のテーブル席の半分以上がそれっぽい感じだ。本来はレストランよりも一階の酒場が主のこの店だが、酒は出さない二階と入口を分けてからは、サウード達イスラム教徒も利用するようになった。イスラム教徒向けの店の少ないこの街で、彼らにとって貴重な食堂になっているのかもしれない。

 フレデリックは納得したように頷く。

「ヨシノが、欧州でもすごくイスラム教徒が多かったって言っていたよ。これから、こういう店が増えていくのかもしれないね」
「僕はなんだか嫌だな。僕たちの居場所が奪われていくみたいで」
 小声で言いながら、クリスは不満そうに唇を尖らせる。


 フレデリックは曖昧な笑みを浮かべてそんな彼をやりすごし、吉野とのやり取りを思い返していた。

 初めてこの店を吉野と訪れた頃は、お客さんは疎らで近所のお爺さんがお喋りに来ているだけだった。それがいつの間にか、エリオット校生が増えて、観光客が増えて――。

 俺たちが、ここの常連さんたちの居場所を奪ったんだ、と、気づいた吉野は店の改装を進言して、エリオット校生じぶんたちと彼らの場所を棲み分けた。そうやって、以前のようなジャックの店に戻したのだ。日中は観光客が多いけれど、夜はまた、この街の人たちの集会所だ。

 吉野がそう望んだから。
 ここはジャックの店で、皆、そうあることを望んでいる、と。

 ――俺、馬鹿だからさ、何も解っちゃいなかったんだ。

 あの時は、そう言った彼の言葉の意味がフレデリックには解らなかったのだ。

 フレデリックは思い出に浸りながら、感慨深げに目を細める。



 突然、クリスがぴょんと頭を起こし、大声を上げて手を振った。フレデリックも我に返って彼の視線の先を追った。

「ここだよ!」

 遅れてきたアレンと、彼のボディーガードが入口で立ち止まっている。

「遅かったね」
「下でご主人にポスターを渡していたんだ。ちょっと話し込んでしまって」
 アレンは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ポスターって、例の?」
 フレデリックの心配そうな視線に、アレンはにこやかな笑みを返す。
「見本市で使ったポスターを、デヴィッド卿に無理を言って特別に頂いてきたんだよ。それにTS映像看板のポスター版も。一般では出回っていないすごいレア物なんだって!」
 どこかしら自慢げなその様子に安堵しながらも、フレデリックは、アレンに自分の杞憂を悟られないように、慎重に言葉を探す。
「睡蓮池のは?」
「うん。それも一緒に。計三枚。壁が埋まっちゃうね。だから掛け替えるか、二階にも飾るか、ご主人も迷ってらした」
「きっとまたお客さんが増えるね!」
 瞳をくりくりとさせる誇らしげなクリスとは違い、フレデリックは微かに眉根を寄せていた。


 店舗に行かなければ見られなかったアレンの立体映像が、TSネクストの増産が発表されてからポスターになり、雑誌や一部駅構内での壁面広告で見掛けるようになった。そのポスターが校内で問題になっていることを、アレンは知らない。
 水に濡れて張りついたシャツに透ける素肌と、物思いに耽るその表情が、扇情的すぎるのだという。そんな内容の話を、フレデリックはとてもじゃないが、アレンに伝えることはできなかった。


 額に手を当てこめかみを揉むふりをしながら、目の前に座る彼を、フレデリックはそっと盗み見る。

 彼は、自分がどんな目で見られているのか解っているのだろうか? 解っていて気にしないのか、それともまったく、自覚がないのか。そんなはずがないではないか。あれだけ酷い目にあっているのだから――。

 吉野は知っているのだろうか? 彼はどう思っているのだろう? 彼なら――。

 フレデリックは、同じ寮内にいながら、なかなか捉まえることのできない吉野を思い、嘆息する。たまに会えたところで、忙しなく働いている彼を邪魔することは気が引けて、きっと何も聞けないままで終わるのだが。




 頭を悩ませながら、運ばれてきたカレーを無意識に口に運んでいたフレデリックは、ふと視線を感じて面をあげた。「カレー、食べるようになったんだね」と、今さら驚いてアレンに目を留める。

「ヨシノのカレーは甘口だからね。これ、僕たちのためのカレーだよ。でもね、彼が家で作る本場のインドカレーはすごいんだよ。もう、辛くて、辛くて! 一口貰ったんだけれど、涙がボロボロ出ちゃったよ。それをね、兄やサラは平気な顔で食べるんだよ! 美味しいって。びっくりしちゃったよ」

 そう尋ねられるのを待っていたかのように喋りだし、生き生きと瞳を輝かせているアレンを見ているだけで嬉しくなる。フレデリックも自然に顔がほころんでいる。

「僕、それちょっと食べてみたいなぁ。僕はけっこう辛いのも平気だよ!」
「えー! きみもきっと泣かされるよ!」
 羨ましそうにアレンを見つめるクリスに、大袈裟に言い返しているアレンはまるで悪戯っ子だ。

「平気だよ! 僕は泣いたりしない! だって、」
「ガストン家の男だもの!」

 二人、声を揃えて言い、朗らかに声を立てて笑いあっている。


 こんな時間がいつまでも続けばいいのに――。

 フレデリックもつられたように微笑みながら、込みあげてくる不安を無理に押し殺して、そう願わずにはいられなかった。






しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

体育教師に目を付けられ、理不尽な体罰を受ける女の子

恩知らずなわんこ
現代文学
入学したばかりの女の子が体育の先生から理不尽な体罰をされてしまうお話です。

[恥辱]りみの強制おむつ生活

rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。 保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

処理中です...